第16話 言えないまま、選ばれる
「……終電」
かなえが小さく言った瞬間、玲央の腕の中で空気が一段だけ重くなった。
抱きしめられている。
強い力じゃないのに、逃げ道だけが塞がれているみたいに。
「うん」
玲央は頷いた。素直に。
頷いたのに、離れない。
「守るって言ったじゃないですか」
棘を立てた声になってしまう。
立てないと、自分の方が折れる。
玲央は困ったみたいに息を吐いた。
目尻は笑っていないのに、声だけが妙に優しい。
「守るよ」
それから、言い足すみたいに。
「……守りたい」
“守りたい”。
言い方だけが真面目で、胸の奥がざらつく。
かなえはぎゅっと拳を握った。
「じゃあ、帰ってください」
言った。
言ったのに、玲央は「うん」と言わない。
代わりに、かなえの肩に額を擦りつける。
猫みたいに。マーキングみたいに。
擦りつけるたび、熱が移っていく。
「……帰れない」
玲央がぽつりと言った。
「は?」
「今日」
玲央は顔を上げずに続ける。
「会議室で、神谷さんと笑ってたの」
「……見たの、ほんと無理だった」
かなえの胃がきゅっと鳴る。
「それ、私のせいですか」
「俺のせい」
玲央は即答した。
潔いのに、ずるい。
「俺、今、かなえさんのこと苦手にしたくない」
「……だから、帰れない」
意味が分からない。
分からないのに、言葉の芯だけが重い。
かなえは息を吸って、吐いた。
「相沢さん」
ちゃんと距離のある呼び方に戻す。
戻しても、戻らないのが怖い。
「終電、逃したら……」
言いかけた瞬間、玲央の腕が少しだけ強くなる。
抱きしめるというより、“固定”するみたいに。
「逃したら、終わり?」
玲央が顔を上げて、かなえを見た。
「終わりにする?」
その質問の仕方が、卑怯だった。
終わりにしたいわけじゃない。
終わりにできないから胃が痛いのに。
かなえは視線を逸らす。
「……終わりにしません」
言ってしまってから、息が止まる。
今のは、私が選んだみたいになる。
玲央の目尻がくしゃっとなる。
嬉しそうに笑う顔。
その笑顔が、ずるい。
「じゃあ、終わりじゃない」
玲央は当たり前みたいに言って、さらに当たり前みたいに続ける。
「……今夜も、かなえさんは俺のこと許す」
許す。
許可。
またそれ。
かなえは腹立たしくて、でも声が震える。
「……勝手に決めないでください」
「うん」
玲央は頷く。
頷いたのに、言う。
「決めるの、かなえさん」
「俺は、聞く」
聞く。
そう言って、聞き方だけが上手い。
玲央はゆっくり手を伸ばして、触れる前にもう一度だけ言った。
「触っていい?」
かなえは目を閉じた。
拒否する言葉は出ない。
出したら、さっきの「嫌」が嘘になる。
「……いいです」
許可を出した瞬間、玲央の息がふっと緩む。
救われたみたいに。
それが、いちばん腹立つ。
キスは丁寧だった。
急がない。急かさない。
でも、戻れない場所だけは確実に越えてくる。
唇が離れて、玲央が低く言う。
「……かなえさん、見えないところ」
かなえの胃がきゅっと鳴る。
「……そこだけ、ですからね」
「うん」
玲央は嬉しそうに笑って、目尻がくしゃっとなる。
「見えないところだけ」
それから、ずるく言う。
「……でも、残していい?」
「俺、今日それがないと落ち着かない」
落ち着かない。
また、その言葉。
恋じゃない顔で言うのがずるい。
でも、その“落ち着かない”に、私は弱い。
かなえは声を絞った。
「……短時間だけ」
玲央が「うん」と頷く。
頷いて、指先でかなえの髪を耳にかける。
「短時間」
確認するみたいに。
「……終電、逃しても?」
かなえは息を止めた。
逃したら、次の言い訳が消える。
消えるのが怖いのに、消えるのが甘い。
かなえは視線を逸らしたまま、言ってしまう。
「……今日だけです」
今日だけ。
逃げ道の言葉。
でも、それを言った時点で逃げ道は細くなる。
玲央の目尻がくしゃっとなる。
「うん。今日だけ」
素直な顔で。
でも、腕はほどかない。
「……ありがとう、かなえさん」
その後の時間は、言葉にしたら現実になってしまうから、かなえは数えるのをやめた。
熱と、呼吸と、触れられるたびの胃の痛さと。
痛いのに、甘い。
終電は、静かに過ぎた。
◇
朝。
カーテンの隙間から光が差し込んで、かなえは目を覚ました。
身体の節々が少し重い。
重いのに、胸の奥は変に落ち着かない。
隣で玲央が寝ている。
寝ているのに、腕がしっかりこちらに回っている。
抱きしめるというより、逃げないで、と言うみたいに。
かなえが身じろぎすると、玲央が薄く目を開けた。
目が合う。
目尻が、くしゃっとなる。
「おはよ」
朝の声が柔らかい。
それだけで胃が鳴る。
「……おはようございます」
かなえが距離を取ると、玲央は困ったみたいに笑った。
「会社じゃないのに」
そう言いながら、でも押してこない。
押してこないのに、手だけは離さない。
「……昨日、ごめん」
玲央が小さく言った。
謝る声のくせに、機嫌がいい。
「終電、守れなかった」
「守れなかったじゃないです」
かなえは低く返す。
「守らなかった、です」
玲央は「うん」と頷いた。
否定しないのが腹立つ。
「守らなかった」
頷いて、言い直すみたいに続ける。
「でも、かなえさんが“嫌”って言わなかったから」
目尻がくしゃっとなる。
「……俺、調子に乗った」
調子に乗った。
言葉が軽いのに、行動は重い。
かなえは息を吐いた。
「……起きます」
布団から出ようとすると、玲央が腕をほどく代わりに、指先でかなえの手を掴んだ。
「ちょっと待って」
「何ですか」
玲央は真面目な顔をして言った。
「……見えないとこ、痛くない?」
“自分が残したもの”を確認するみたいな声。
かなえの胃がきゅっと鳴る。
「……大丈夫です」
玲央はほっとしたみたいに息を吐いた。
その反応が、いちばん厄介だった。
嬉しそうで、安心していて、当たり前みたいで。
「よかった」
それから、すぐにいつもの軽さに戻る。
「コーヒー淹れる。飲む?」
「……飲みます」
言ってしまう自分が嫌で、でも拒否できない。
キッチンに立つ玲央の背中は、妙に生活に馴染んでいた。
ここは私の家なのに。
私の週末のはずなのに。
(……このまま常態になる)
(なるのが怖いのに、嫌じゃない)
最悪だ。
コーヒーの香りが広がる。
玲央がカップを差し出しながら言った。
「今日は俺が送る——」
言いかけて、止まる。
すぐに言い直した。
「……タクシー呼ぶ。家まで」
「……自分の家です」
「だから」
玲央は当たり前みたいに言う。
「ちゃんと帰って、ちゃんと寝て」
それから、さらっと付け足す。
「俺が落ち着く」
また、その言葉。
かなえはカップを受け取って、視線を落とした。
「……勝手」
「うん。勝手」
玲央は笑って、目尻がくしゃっとなる。
「でも、かなえさんに嫌われたくない」
言い方は軽いのに、芯だけが重い。
「……今は」
今は。
その“今”が、どこまで伸びるのか分からない。
◇
週明け。
会社のフロアはいつも通りで、いつも通りに戻るはずだった。
——戻るはずなのに、戻らない。
玲央はみんなの前では「結城さん」と呼ぶ。
仕事の顔で、仕事の距離で、仕事の声で。
ちゃんと守っているみたいに。
なのに、ふとした瞬間に目が合う。
合った瞬間だけ、目尻がほんの少しだけ柔らかくなる。
その一瞬が、いちばん胃に悪い。
(やめて)
(その顔、私だけにしないで)
そんなこと、言えるわけがない。
昼過ぎ。
営業二課の通路の角で、玲央が誰かと話しているのが見えた。
——清水カイト。
玲央の同期。
明るくて、社交的で、距離の取り方がうまい。
“何も知らない顔で刺してくるタイプ”だと、かなえは勝手に思っている。
玲央とカイトが並ぶと、空気が軽くなる。
軽くなるのに、玲央の方だけ妙に落ち着かない。
かなえが目を逸らそうとした瞬間、カイトがこちらを見た。
「結城さん、こんにちは」
カイトがにこっと笑う。
「こんにちは」
かなえが会釈すると、カイトは玲央を肘で軽くつついた。
「相沢、なんか今日テンション高くない?」
冗談みたいな声。
でも目は笑っていない。
玲央は「そう?」とだけ返す。
薄い返事。
カイトは笑って、笑いながら距離を詰める。
「週末、いいことあった?」
軽い。
軽いのに、狙っている。
玲央が目を細めた。
「ない」
即答。
即答のくせに、否定が雑。
その雑さが、逆に目立つ。
カイトは一瞬だけ黙って、次に低い声で言った。
「嘘だろ」
笑ってない。
「お前、顔に出る」
玲央が舌打ちしそうな顔になる。
「仕事戻れ」
「はいはい」
カイトは肩をすくめて、でも引かない。
「……その顔、なに」
一段、声が落ちる。
「恋じゃないならさ。今の顔、なんなんだよ」
——その言葉が、かなえの胃に刺さった。
恋じゃないなら。
玲央は返さない。
返さないのに、目だけが一瞬だけ昏くなる。
カイトは玲央にだけ聞こえる声で続けた。
「お前、また“落ち着く”とか言って誤魔化してんだろ」
「相手、困らせてない?」
「……固定しようとしてない?」
固定。
その単語だけで、かなえの背中が冷える。
“セフレ固定”。
名前のない関係を、固定にしてしまうこと。
玲央が一瞬だけ黙った。
黙ってから、低く言う。
「……関係ない」
カイトが鼻で笑う。
「関係ある顔だよ」
それからカイトは、いつもの軽さに戻るふりをして、最後に笑った。
「ま、いいや」
「でもさ」
玲央の肩をぽん、と叩く。
「相手に“嫌”って言わせたら、勝ちだと思ってるなら」
目だけが鋭い。
「そのうち、本当に嫌われるぞ」
——嫌。
かなえの胸が、ひくっと痛む。
玲央が何か言い返す前に、カイトはひらひら手を振って去っていった。
軽い背中。
軽いふりの背中。
残った玲央は、しばらく動かなかった。
それから、ふっと息を吐いて、かなえの方を見た。
目が合う。
みんなの前だから、玲央の口は「結城さん」と言う。
「……資料、あとで送ります」
仕事の声。
仕事の距離。
なのに。
目の奥だけが、昨日のままだった。
昏く、どろりと濁るみたいに。
逃がさない。
かなえの胃がきゅっと鳴る。
(……私)
(今、選ばれてるの?)
(それとも、飼われてるだけ?)
分からない。
分からないのに、逃げられない。
スマホが震えた。
——玲央からじゃない。
協業先からのメール通知。
件名:
『次回運用すり合わせ/神谷より(結城様)』
指名。
かなえの胃が、もう一度きゅっと鳴った。
そして同時に、玲央から社内チャットが入った。
『今日、帰り』
『少しだけ時間ある?』
“少しだけ”。
少しだけの積み上げが、もう常態になっている。
返信欄に指を置いたまま、かなえは動けなかった。




