第15話 「嫌」って言えた
——取られるの、嫌だ。
その文字を見たまま、かなえは指が動かなかった。
仕事中だ。
社内だ。
持ち込まないって決めた。
頻繁な連絡は困るって言った。
守ってるつもりで、守れてないのは、私の方だ。
(……返信したら、許可になる)
(返信しなかったら、余計に)
どっちにしても胃が痛い。
かなえはスマホを伏せた。
画面を隠しても、文字だけが胸の奥に残る。
取られる。
嫌だ。
それは恋人の言い方じゃない。
でも、恋人より厄介な言い方だ。
◇
終業時間が近づく頃、フロアの空気が少しだけ緩んだ。
雑談が増え、椅子の軋む音が増え、誰かが「お疲れさまです」と立ち上がる。
営業二課の方がざわついている。
今日、飲み会があるらしい。
合同MTGのあと、勢いで決まったような、若手中心のやつ。
かなえは資料をまとめながら、なるべくそっちを見ないようにした。
見たら、胃が鳴るのが分かっている。
——分かっているのに。
ふと視界の端で、玲央が立ち上がるのが見えた。
スーツの上着を羽織って、ポケットにスマホを滑り込ませる。
その隣に、美緒がぴたりと寄る。
「相沢さん、行きますよ〜」
軽い声。
軽いのに、距離が近い。
玲央は「うん」とだけ返した。
表情はいつも通り。
でも、ほんの一瞬だけ——かなえの方を見た気がした。
目は合わない。
合ってないことにする距離。
職場に持ち込まない、の距離。
なのに、胸の奥がざらつく。
(……行くんだ)
(当然だけど)
当然。
当然なのに、胃が痛い。
かなえは手元の資料に視線を落とした。
見ない。
見ない。
見ない。
そのまま、定時を少し過ぎて、かなえも席を立つ。
エレベーターに乗る。
鏡面の扉に映る自分の顔が、思ったより固い。
(何をしてるんだろう)
(私、会わない方が痛いって思ってる?)
思ってしまう自分が嫌で、かなえは小さく息を吐いた。
◇
家に帰って、靴を脱いだ瞬間、膝が少しだけ笑った。
緊張が抜けた、というより、張り詰めていた糸がほどけた感じ。
コートを掛けて、手を洗って、キッチンに立つ。
“いつもの自分”に戻るための動作を並べる。
でも、戻らない。
紅茶の缶を手に取って、ふと止まった。
週末と同じ匂いがする気がして、胃が鳴る。
(……違う)
(これは私の家)
(私の週末じゃない)
思っているのに、スマホが震えた。
相沢 玲央。
かなえは一瞬、画面を見ないふりをした。
心臓がうるさい。
でも、結局、開いてしまう。
『今、二課で飲んでる』
『飲みすぎないようにするね』
一拍置いて、続き。
『また、かなえさんに心配かけたくないから』
心配。
その言葉が、胸の奥をくすぐる。
(……心配してない)
(してない、はず)
なのに、指が動く。
『心配してません』
打って、消して。
強がりが強すぎる。
もう一回打つ。
『飲みすぎないでください』
送信してしまってから、息が止まる。
(……何してるの)
(私、今)
既読がつくのが早い。
『うん。飲まない』
『今、顔だけ見たい』
『嫌なら帰る。お願い』
お願い。
その二文字が、最悪だ。
押しに弱い自分の弱点に、指をかけられる。
嫌なら帰る。
逃げ道を置いている顔をして、逃げ道を塞ぐ言い方。
かなえはスマホを握りしめた。
(だめ)
(終電までって決めた)
(連絡も頻繁なのは困るって言った)
でも、今日の会議室の目が浮かぶ。
笑っていない目。
昏く濁るみたいな目。
取られるの、嫌だ。
その文字が、まだ胸の奥に刺さっている。
かなえは、最小の言葉で返した。
『終電までです』
『来るなら、短時間だけ』
既読。
すぐ返信。
『ありがとう』
『短時間。約束する』
ありがとうが刺さる。
断れなかったのは自分なのに、礼を言われると“許した”みたいになる。
◇
インターホンが鳴ったのは、それから二十分後だった。
早い。
早すぎる。
“顔だけ”と言ったくせに、すぐ来る。
かなえは玄関に立って、ドアスコープを覗いた。
玲央がいる。
いつもの顔。
でも頬が少しだけ赤い。酒の温度。
鍵を開けた瞬間、玲央が小さく笑った。
目尻が、くしゃってなる。
「……来ちゃった」
来ちゃった、の言い方が軽い。
軽いのに、胸が痛い。
「来ないでください、とは言ってません」
かなえが棘で返すと、玲央は笑わない。
笑わないで、ちゃんと頷く。
「うん。言ってない」
それから、少しだけ声を落とす。
「……言ってほしかったわけじゃない」
言ってほしくない。
でも言ってほしい。
矛盾をそのまま持ってくるのが、ずるい。
「上がっていいですか」
玲央は一度、止まって言った。
週末みたいに、勝手に入らない。
許可を取りにくる。
かなえの胃がきゅっと鳴る。
「……短時間ですからね」
玲央の目尻がくしゃっとなる。
「うん。短時間」
コートを脱ぐ動作が自然で、腹が立つ。
“ここに来る”ことがもう当たり前みたいで。
かなえはキッチンに逃げた。
「……コーヒーか紅茶、どっちですか」
「紅茶」
玲央は即答して、少しだけ甘える声になる。
「……かなえさんのやつ」
やめてほしい。
そんな言い方。
でも、やめてと言えない。
ポットにお湯を注ぐ音が、やけに大きい。
カップを二つ並べた瞬間、背後の気配が近づいた。
玲央が、触れない距離で止まる。
「……かなえさん」
名前で呼ばれるたび、胸の奥が痛い。
嬉しい痛みと、怖い痛みが混ざる。
「……何ですか」
玲央は少しだけ迷う顔をした。
酒の勢いで来たくせに、迷いを見せるのがずるい。
「今日の会議」
言葉を選ぶみたいに、低く言う。
「神谷さんと、楽しそうだった」
“楽しそう”。
美緒が言った言葉と同じなのに、玲央が言うと重い。
「仕事です」
「うん。仕事」
玲央は頷く。
頷いてから、少しだけ声が落ちる。
「……でも、嫌だった」
かなえの胃がきゅっと鳴った。
「……だから何ですか」
棘で返す。
返さないと崩れる。
玲央は笑わない。
謝るでもない。
ただ、困ったみたいに息を吐く。
「だから、俺が悪い」
言い切ってから、ふっと口角を上げる。
「……俺、性格悪い」
自覚があるのに直さない。
直さないくせに、私にだけ言う。
「だったら、来ないでください」
かなえは強がって言った。
「そういうの、困ります」
玲央の目が、一瞬だけ細くなる。
悲しそうじゃない。
むしろ、決める顔。
「うん。困らせたくない」
それから、ぽつり。
「……じゃあ、やめる」
やめる。
その一言が、胃の奥を握る。
やめるって言葉が、急に現実になる。
(……違う)
(やめてほしいわけじゃない)
でも、続けてほしいとも言えない。
言える立場じゃない。
言ったら、望んでるってバレる。
玲央は続ける。
「今後、俺からは連絡しない」
淡々と。
「会議でも、ちゃんと距離取る」
「……かなえさんが安心できるように」
安心できるように。
正しい。
正しいのに、痛い。
かなえは紅茶のティーバッグをカップに入れたまま、手が止まった。
湯気が立つ。
香りが広がる。
その香りの中で、心臓だけがうるさい。
「……終電、あるし」
玲央がぽつりと言った。
帰る準備の言葉。
「顔、見れたから。帰る」
帰る。
また、その言葉。
かなえの中で、何かが反射で跳ねた。
胃が痛い。
痛いのに、口が先に動く。
「……嫌」
声が小さすぎて、自分でも聞き取れないくらいだった。
でも玲央は止まった。
止まって、ゆっくり振り向いた。
「……今、なんて」
かなえは息が詰まる。
言ってしまった。
言ってしまったのに、戻せない。
「……嫌です」
もう一回言ってしまう。
今度は少しだけ大きい。
玲央の目尻が、くしゃっとなる。
嬉しそうに笑う顔。
その笑顔が、最悪にずるい。
「嫌、って」
玲央は優しく確認する。
「俺が帰るのが?」
かなえの胃が、きゅっと鳴った。
違う、と言いたいのに、違わない。
帰るのが嫌。
距離を取られるのが嫌。
会わない方が痛いのが嫌。
全部、嫌。
なのに、正しく言えない。
かなえは視線を逸らしたまま、絞り出す。
「……帰るのが、嫌です」
言った瞬間、胸が熱くなる。
胃が痛い。
でも、どこか甘い。
玲央は一拍置いて、ゆっくり言った。
「……いいの?」
まるで許可を取りにくるみたいに。
「引き止めて」
引き止めて。
私に言わせる。
私の口で、私の首輪を作らせる。
かなえは震える指でカップにお湯を注いだ。
手元を見ていないと崩れる。
「……引き止めません」
強がりが残る。
でも続けてしまう。
「……ただ」
喉が詰まる。
「今、距離取られるの……無理です」
玲央の息が、少しだけ止まった。
それから、ゆっくり近づいてくる。
急がない。
急がないのに、逃がさない。
玲央は手を伸ばして、触れる前に言った。
「触っていい?」
許可。
かなえは、だめだと思う。
でも、さっき“嫌”って言った時点で、もう逃げ道がない。
「……いいです」
玲央の目尻がくしゃっとなる。
「うん」
嬉しそうに。
「……ありがとう」
その瞬間、玲央の手がかなえの腰に回った。
抱きしめるというより、確かめるみたいに。
逃げないで、と言うみたいに。
かなえの背中が熱くなる。
「……重いです」
「重いの、今だけ」
玲央が低く言う。
「今だけ、許して」
許して。
また、許して。
かなえは何も言えない。
代わりに、玲央のスーツの袖を掴んだ。
拒否じゃない。
止めてもいない。
玲央の額が、かなえの肩に擦りつく。
猫みたいに。
マーキングみたいに。
「……落ち着く」
またその言葉。
恋じゃない顔で言うのが、ずるい。
「……やめてください」
「やめない」
玲央はあっさり言って、でも声は優しい。
「かなえさん、今、俺のこと引き止めた」
それだけで充分みたいに。
「……嬉しい」
嬉しい、が刺さる。
私が言った“嫌”が、ご褒美みたいになる。
(……最悪)
(でも、止められない)
玲央は少しだけ身体を離して、かなえの顔を覗いた。
「終電まで、って言ったよね」
確認。
でも、表情は楽しそうだ。
かなえは腹立たしくて、棘で返す。
「……守ってください」
玲央が困ったように笑う。
目尻がくしゃっとなる。
「守る」
即答。
それから、ずるく言い足す。
「……守るけど、その前に」
言葉を落とす。
「キス、していい?」
許可。
また許可。
かなえは喉が詰まる。
でも、今さら拒否したら、さっきの“嫌”が嘘になる気がした。
「……一回だけ」
玲央の目尻がくしゃっとなる。
「うん。一回だけ」
キスは、丁寧だった。
急がない。
急かさないのに、逃がさない。
離れた時、玲央が小さく息を吐く。
「……かなえさん」
声が甘い。
「もう一個、許可」
胃が鳴る。
「……何ですか」
玲央は少しだけ目を伏せる。
それから、言う。
「印、増やしていい?」
——増やす。
土曜の遊びみたいな約束が、平日に侵食してくる。
例外を、常態にするための仕込み。
かなえは分かっているのに、胸の奥が甘く疼く。
(求められてる)
(猫の代わりでも)
(……今だけは、私を見てる)
その思考が最悪で、胃が痛い。
かなえは声を絞った。
「……見えないところだけです」
玲央の目尻がくしゃっとなる。
「うん。見えないところだけ」
嬉しそうに。
「……大事にする」
大事にする、の言い方がずるい。
大事にするふりをして、囲い込む。
玲央の手が、かなえの背中をゆっくり撫でる。
指先が、丁寧に熱を残していく。
かなえは「だめ」と言おうとして、言えなかった。
言えなかった代わりに、玲央のシャツを掴んだ。
それが許可だと、玲央はちゃんと分かっている。
「……かなえさん」
玲央が囁く。
「今、俺のこと以外考えてない?」
かなえの胃がきゅっと鳴った。
「……そんなの、無理です」
「うん。無理でもいい」
玲央は優しく言って、でも逃がさない。
「……俺のこと、少しだけでいい」
少しだけ。
少しだけを積み上げて、常態にする。
かなえは目を閉じた。
「……少しだけ」
玲央の目尻が、くしゃっとなる。
「うん。少しだけ」
——その先は、言葉にしたら現実になってしまう。
現実になってしまうから、かなえは怖いのに、
怖いくせに、現実にしたくてたまらない自分もいる。
時計の針が進む。
終電の時間が近づく。
なのに玲央は、帰る気配を作らない。
作らないのに、優しい顔をする。
「……終電」
かなえが小さく言うと、玲央は頷いた。
「うん。終電」
頷いて、でも離れない。
「……でも、もうちょっとだけ」
お願いみたいに言う。
「さっきの“嫌”、もう一回聞きたい」
聞きたい。
私の口で縛りたい。
かなえは腹立たしくて、でも声が震える。
「……嫌です」
小さく。
「帰るの、嫌」
玲央の目尻がくしゃっとなる。
嬉しそうに笑って、かなえの首元に額を擦りつけた。
「……かわいい」
かわいい、が刺さる。
可愛いと言われると、断れなくなる。
終電の時間は、もうすぐそこにある。
なのに玲央は、抱きしめたまま囁いた。
「帰りたくない」
恋じゃない顔で。
恋じゃない言葉で。
でも、言葉の芯だけが重い。
「……かなえさん、今夜だけ、俺のこと許して」
許して。
また許して。
かなえの胃が痛い。
痛いのに、胸の奥が甘い。
——終電まで、って決めたはずなのに。




