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『選ばれない私と、手放せない君』  作者:


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第15話 「嫌」って言えた




——取られるの、嫌だ。


その文字を見たまま、かなえは指が動かなかった。


仕事中だ。

社内だ。

持ち込まないって決めた。

頻繁な連絡は困るって言った。


守ってるつもりで、守れてないのは、私の方だ。


(……返信したら、許可になる)

(返信しなかったら、余計に)


どっちにしても胃が痛い。


かなえはスマホを伏せた。

画面を隠しても、文字だけが胸の奥に残る。


取られる。

嫌だ。


それは恋人の言い方じゃない。

でも、恋人より厄介な言い方だ。



終業時間が近づく頃、フロアの空気が少しだけ緩んだ。

雑談が増え、椅子の軋む音が増え、誰かが「お疲れさまです」と立ち上がる。


営業二課の方がざわついている。

今日、飲み会があるらしい。

合同MTGのあと、勢いで決まったような、若手中心のやつ。


かなえは資料をまとめながら、なるべくそっちを見ないようにした。

見たら、胃が鳴るのが分かっている。


——分かっているのに。


ふと視界の端で、玲央が立ち上がるのが見えた。

スーツの上着を羽織って、ポケットにスマホを滑り込ませる。


その隣に、美緒がぴたりと寄る。


「相沢さん、行きますよ〜」

軽い声。

軽いのに、距離が近い。


玲央は「うん」とだけ返した。

表情はいつも通り。

でも、ほんの一瞬だけ——かなえの方を見た気がした。


目は合わない。

合ってないことにする距離。

職場に持ち込まない、の距離。


なのに、胸の奥がざらつく。


(……行くんだ)

(当然だけど)


当然。

当然なのに、胃が痛い。


かなえは手元の資料に視線を落とした。

見ない。

見ない。

見ない。


そのまま、定時を少し過ぎて、かなえも席を立つ。


エレベーターに乗る。

鏡面の扉に映る自分の顔が、思ったより固い。


(何をしてるんだろう)

(私、会わない方が痛いって思ってる?)


思ってしまう自分が嫌で、かなえは小さく息を吐いた。



家に帰って、靴を脱いだ瞬間、膝が少しだけ笑った。

緊張が抜けた、というより、張り詰めていた糸がほどけた感じ。


コートを掛けて、手を洗って、キッチンに立つ。

“いつもの自分”に戻るための動作を並べる。


でも、戻らない。


紅茶の缶を手に取って、ふと止まった。

週末と同じ匂いがする気がして、胃が鳴る。


(……違う)

(これは私の家)

(私の週末じゃない)


思っているのに、スマホが震えた。


相沢 玲央。


かなえは一瞬、画面を見ないふりをした。

心臓がうるさい。

でも、結局、開いてしまう。


『今、二課で飲んでる』

『飲みすぎないようにするね』

一拍置いて、続き。

『また、かなえさんに心配かけたくないから』


心配。

その言葉が、胸の奥をくすぐる。


(……心配してない)

(してない、はず)


なのに、指が動く。


『心配してません』

打って、消して。

強がりが強すぎる。


もう一回打つ。


『飲みすぎないでください』


送信してしまってから、息が止まる。


(……何してるの)

(私、今)


既読がつくのが早い。


『うん。飲まない』

『今、顔だけ見たい』

『嫌なら帰る。お願い』


お願い。


その二文字が、最悪だ。

押しに弱い自分の弱点に、指をかけられる。


嫌なら帰る。

逃げ道を置いている顔をして、逃げ道を塞ぐ言い方。


かなえはスマホを握りしめた。


(だめ)

(終電までって決めた)

(連絡も頻繁なのは困るって言った)


でも、今日の会議室の目が浮かぶ。

笑っていない目。

昏く濁るみたいな目。


取られるの、嫌だ。


その文字が、まだ胸の奥に刺さっている。


かなえは、最小の言葉で返した。


『終電までです』

『来るなら、短時間だけ』


既読。


すぐ返信。


『ありがとう』

『短時間。約束する』


ありがとうが刺さる。

断れなかったのは自分なのに、礼を言われると“許した”みたいになる。



インターホンが鳴ったのは、それから二十分後だった。


早い。

早すぎる。

“顔だけ”と言ったくせに、すぐ来る。


かなえは玄関に立って、ドアスコープを覗いた。

玲央がいる。

いつもの顔。

でも頬が少しだけ赤い。酒の温度。


鍵を開けた瞬間、玲央が小さく笑った。

目尻が、くしゃってなる。


「……来ちゃった」


来ちゃった、の言い方が軽い。

軽いのに、胸が痛い。


「来ないでください、とは言ってません」


かなえが棘で返すと、玲央は笑わない。

笑わないで、ちゃんと頷く。


「うん。言ってない」

それから、少しだけ声を落とす。

「……言ってほしかったわけじゃない」


言ってほしくない。

でも言ってほしい。

矛盾をそのまま持ってくるのが、ずるい。


「上がっていいですか」

玲央は一度、止まって言った。

週末みたいに、勝手に入らない。

許可を取りにくる。


かなえの胃がきゅっと鳴る。


「……短時間ですからね」


玲央の目尻がくしゃっとなる。


「うん。短時間」


コートを脱ぐ動作が自然で、腹が立つ。

“ここに来る”ことがもう当たり前みたいで。


かなえはキッチンに逃げた。


「……コーヒーか紅茶、どっちですか」


「紅茶」

玲央は即答して、少しだけ甘える声になる。

「……かなえさんのやつ」


やめてほしい。

そんな言い方。


でも、やめてと言えない。


ポットにお湯を注ぐ音が、やけに大きい。

カップを二つ並べた瞬間、背後の気配が近づいた。


玲央が、触れない距離で止まる。


「……かなえさん」


名前で呼ばれるたび、胸の奥が痛い。

嬉しい痛みと、怖い痛みが混ざる。


「……何ですか」


玲央は少しだけ迷う顔をした。

酒の勢いで来たくせに、迷いを見せるのがずるい。


「今日の会議」

言葉を選ぶみたいに、低く言う。

「神谷さんと、楽しそうだった」


“楽しそう”。


美緒が言った言葉と同じなのに、玲央が言うと重い。


「仕事です」


「うん。仕事」

玲央は頷く。

頷いてから、少しだけ声が落ちる。

「……でも、嫌だった」


かなえの胃がきゅっと鳴った。


「……だから何ですか」


棘で返す。

返さないと崩れる。


玲央は笑わない。

謝るでもない。

ただ、困ったみたいに息を吐く。


「だから、俺が悪い」

言い切ってから、ふっと口角を上げる。

「……俺、性格悪い」


自覚があるのに直さない。

直さないくせに、私にだけ言う。


「だったら、来ないでください」

かなえは強がって言った。

「そういうの、困ります」


玲央の目が、一瞬だけ細くなる。

悲しそうじゃない。

むしろ、決める顔。


「うん。困らせたくない」

それから、ぽつり。

「……じゃあ、やめる」


やめる。


その一言が、胃の奥を握る。

やめるって言葉が、急に現実になる。


(……違う)

(やめてほしいわけじゃない)


でも、続けてほしいとも言えない。

言える立場じゃない。

言ったら、望んでるってバレる。


玲央は続ける。


「今後、俺からは連絡しない」

淡々と。

「会議でも、ちゃんと距離取る」

「……かなえさんが安心できるように」


安心できるように。


正しい。

正しいのに、痛い。


かなえは紅茶のティーバッグをカップに入れたまま、手が止まった。

湯気が立つ。

香りが広がる。

その香りの中で、心臓だけがうるさい。


「……終電、あるし」

玲央がぽつりと言った。

帰る準備の言葉。

「顔、見れたから。帰る」


帰る。


また、その言葉。


かなえの中で、何かが反射で跳ねた。

胃が痛い。

痛いのに、口が先に動く。


「……嫌」


声が小さすぎて、自分でも聞き取れないくらいだった。

でも玲央は止まった。


止まって、ゆっくり振り向いた。


「……今、なんて」


かなえは息が詰まる。

言ってしまった。

言ってしまったのに、戻せない。


「……嫌です」

もう一回言ってしまう。

今度は少しだけ大きい。


玲央の目尻が、くしゃっとなる。

嬉しそうに笑う顔。

その笑顔が、最悪にずるい。


「嫌、って」

玲央は優しく確認する。

「俺が帰るのが?」


かなえの胃が、きゅっと鳴った。


違う、と言いたいのに、違わない。

帰るのが嫌。

距離を取られるのが嫌。

会わない方が痛いのが嫌。


全部、嫌。


なのに、正しく言えない。


かなえは視線を逸らしたまま、絞り出す。


「……帰るのが、嫌です」


言った瞬間、胸が熱くなる。

胃が痛い。

でも、どこか甘い。


玲央は一拍置いて、ゆっくり言った。


「……いいの?」

まるで許可を取りにくるみたいに。

「引き止めて」


引き止めて。

私に言わせる。

私の口で、私の首輪を作らせる。


かなえは震える指でカップにお湯を注いだ。

手元を見ていないと崩れる。


「……引き止めません」

強がりが残る。

でも続けてしまう。

「……ただ」

喉が詰まる。

「今、距離取られるの……無理です」


玲央の息が、少しだけ止まった。


それから、ゆっくり近づいてくる。

急がない。

急がないのに、逃がさない。


玲央は手を伸ばして、触れる前に言った。


「触っていい?」


許可。


かなえは、だめだと思う。

でも、さっき“嫌”って言った時点で、もう逃げ道がない。


「……いいです」


玲央の目尻がくしゃっとなる。


「うん」

嬉しそうに。

「……ありがとう」


その瞬間、玲央の手がかなえの腰に回った。

抱きしめるというより、確かめるみたいに。

逃げないで、と言うみたいに。


かなえの背中が熱くなる。


「……重いです」


「重いの、今だけ」

玲央が低く言う。

「今だけ、許して」


許して。

また、許して。


かなえは何も言えない。

代わりに、玲央のスーツの袖を掴んだ。

拒否じゃない。

止めてもいない。


玲央の額が、かなえの肩に擦りつく。

猫みたいに。

マーキングみたいに。


「……落ち着く」


またその言葉。

恋じゃない顔で言うのが、ずるい。


「……やめてください」


「やめない」

玲央はあっさり言って、でも声は優しい。

「かなえさん、今、俺のこと引き止めた」

それだけで充分みたいに。

「……嬉しい」


嬉しい、が刺さる。

私が言った“嫌”が、ご褒美みたいになる。


(……最悪)

(でも、止められない)


玲央は少しだけ身体を離して、かなえの顔を覗いた。


「終電まで、って言ったよね」

確認。

でも、表情は楽しそうだ。


かなえは腹立たしくて、棘で返す。


「……守ってください」


玲央が困ったように笑う。

目尻がくしゃっとなる。


「守る」

即答。

それから、ずるく言い足す。

「……守るけど、その前に」

言葉を落とす。

「キス、していい?」


許可。

また許可。


かなえは喉が詰まる。

でも、今さら拒否したら、さっきの“嫌”が嘘になる気がした。


「……一回だけ」


玲央の目尻がくしゃっとなる。


「うん。一回だけ」


キスは、丁寧だった。

急がない。

急かさないのに、逃がさない。


離れた時、玲央が小さく息を吐く。


「……かなえさん」

声が甘い。

「もう一個、許可」


胃が鳴る。


「……何ですか」


玲央は少しだけ目を伏せる。

それから、言う。


「印、増やしていい?」


——増やす。


土曜の遊びみたいな約束が、平日に侵食してくる。

例外を、常態にするための仕込み。


かなえは分かっているのに、胸の奥が甘く疼く。


(求められてる)

(猫の代わりでも)

(……今だけは、私を見てる)


その思考が最悪で、胃が痛い。


かなえは声を絞った。


「……見えないところだけです」


玲央の目尻がくしゃっとなる。


「うん。見えないところだけ」

嬉しそうに。

「……大事にする」


大事にする、の言い方がずるい。

大事にするふりをして、囲い込む。


玲央の手が、かなえの背中をゆっくり撫でる。

指先が、丁寧に熱を残していく。


かなえは「だめ」と言おうとして、言えなかった。

言えなかった代わりに、玲央のシャツを掴んだ。


それが許可だと、玲央はちゃんと分かっている。


「……かなえさん」

玲央が囁く。

「今、俺のこと以外考えてない?」


かなえの胃がきゅっと鳴った。


「……そんなの、無理です」


「うん。無理でもいい」

玲央は優しく言って、でも逃がさない。

「……俺のこと、少しだけでいい」


少しだけ。

少しだけを積み上げて、常態にする。


かなえは目を閉じた。


「……少しだけ」


玲央の目尻が、くしゃっとなる。


「うん。少しだけ」


——その先は、言葉にしたら現実になってしまう。

現実になってしまうから、かなえは怖いのに、

怖いくせに、現実にしたくてたまらない自分もいる。


時計の針が進む。

終電の時間が近づく。

なのに玲央は、帰る気配を作らない。


作らないのに、優しい顔をする。


「……終電」

かなえが小さく言うと、玲央は頷いた。


「うん。終電」

頷いて、でも離れない。

「……でも、もうちょっとだけ」

お願いみたいに言う。

「さっきの“嫌”、もう一回聞きたい」


聞きたい。

私の口で縛りたい。


かなえは腹立たしくて、でも声が震える。


「……嫌です」

小さく。

「帰るの、嫌」


玲央の目尻がくしゃっとなる。

嬉しそうに笑って、かなえの首元に額を擦りつけた。


「……かわいい」


かわいい、が刺さる。

可愛いと言われると、断れなくなる。


終電の時間は、もうすぐそこにある。


なのに玲央は、抱きしめたまま囁いた。


「帰りたくない」

恋じゃない顔で。

恋じゃない言葉で。

でも、言葉の芯だけが重い。

「……かなえさん、今夜だけ、俺のこと許して」


許して。

また許して。


かなえの胃が痛い。

痛いのに、胸の奥が甘い。


——終電まで、って決めたはずなのに。



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