第14話 会わない方が、痛い
月曜の朝は、いつも通り始まった。
顔を洗って、髪をまとめて、メイクをして、スーツを着る。
“仕事ができる私”を貼り付ける作業は手早い。
手早いぶんだけ、心が追いつかない。
喉の奥に紅茶の匂いが残っている気がした。
もちろん、そんなはずはない。
けれど日曜の朝に玲央が置いていった“週末の気配”は、もう生活の中に染みついてしまっている。
——ちゃんと帰った。
——ちゃんと約束を守った。
それが、逆に厄介だった。
ちゃんとしてるほど、私の中に“残る”。
服の下、見えない場所の“印”が、歩くたびに思い出になって胃を鳴らす。
見えないのに、確かにある。
見えないから、逃げ場がない。
(週末は、俺のこと以外考えない)
(破ったら……お仕置き)
ばかみたいだ。
大人が何やってるんだって思う。
思うのに、あの目尻のくしゃっとした笑顔が浮かぶと、胃が痛いのに胸が甘くなる。
——最悪。
「……行くしかない」
小さく呟いて、玄関を出た。
◇
フロアはいつも通りの空気だった。
挨拶、打刻、メール、資料。
数字が飛び交い、誰かが笑い、誰かが苛立つ。
その全部が“現実”で、週末の温度は混ぜない。
混ぜないと決めた。決めたのは私だ。
——“職場に持ち込まない”。
だから私は、いつも通りに歩いた。
いつも通りに「おはようございます」と言って、
いつも通りにパソコンを立ち上げて、
いつも通りの顔を作る。
……作るのに、視界の端が勝手に探してしまう。
玲央。
見なきゃいいのに。
見たら胃が鳴るのが分かってるのに。
営業二課の島の方で、玲央が誰かと話していた。
スーツ、ネクタイ、仕事の顔。
社内の“軽そうな美形”をきちんと纏っている。
でも週末の、あの——「かなえさん」って呼ぶ声の温度を知ってしまったせいで、同じ顔が別物に見える。
(見ない。見ない)
私は視線を切って、自席に滑り込んだ。
◇
午前は会議の準備で潰れた。
今日は合同MTGがある。
かなえのチーム(営業企画)と、営業二課、それから協業先。
数字の進捗と運用改善のすり合わせ。
いわゆる、誰もが“面倒”だと思うやつ。
でも、やらないと詰む。
そして詰むと、胃が死ぬ。
資料を整えていると、社内チャットが鳴った。
送信者:水野 美緒(営業二課)
『結城さーん!今日の合同MTG、資料確認しました!』
『運用改善のところ、二課側の補足も追記しておきました〜!』
仕事の文面。絵文字。軽いノリ。
かなえは淡々と返す。
『確認ありがとうございます。受領しました』
『補足も助かります』
すぐに既読。
すぐに返事。
『よかったです!』
『あと今日、神谷さんも来るんですよね?』
『あの人、会議うまいからちょっと楽しみです〜』
神谷さん。
協業先の担当者。
会議がうまい、という評価は確かに正しい。
そして——かなえは神谷と、業務の相性がいい。
それは事実だ。
事実なのに、その名前を出されると胃がちくっとする。
(……なんで)
(私、今ちょっと刺さった?)
刺さる理由を考えたくなくて、かなえは返事を短くした。
『はい、参加予定です』
『会議の件のみでお願いします』
既読。
返事はない。
その沈黙が、少しだけ楽で、少しだけ怖い。
◇
会議室。
かなえのチームが先に入り、資料を配る。
営業二課も入ってくる。
玲央は一番最後に入ってきた。
目が合った気がした。
でも合ってないことにする。
玲央も、何も言わない。
——職場に持ち込まない。
守られているのに、胸がざらつく。
守られているからこそ、週末の余韻が行き場を失う。
オンラインの接続音がして、画面に協業先の会議室が映った。
神谷 蓮。
協業先の運用責任者。
スーツ姿で、画面越しに軽く手を挙げる。
「お世話になります。神谷です」
この人は、軽くない。
でも硬すぎもしない。
“ちょうどいい仕事の人”だ。
「本日、進捗と運用改善のすり合わせをさせてください」
かなえが司会を取ると、神谷がすぐに頷く。
「了解です。結城さんの資料、見やすい」
さらっと言って、さらっと続ける。
「……相変わらず、容赦なく数字が刺さる感じで」
かなえは思わず口元が緩んだ。
「刺さるように作ってます」
言ってから気づく。
これ、私の“仕事の笑い”じゃない。
ちょっとだけ気を抜いた笑い方だ。
(……だめだ)
(ここで気を抜くな)
でも、会議は進む。
進めないと終わらない。
神谷が画面共有で改善案を出す。
「一次集計を営業側でやる運用、今週から回ってますよね」
「現場の負担が増える分、入力の粒度を落としてる箇所がある」
「結城さんのチームが困るのって、たぶんそこですよね」
かなえがすぐ返す。
「困ります」
即答。
「“粒度を落とす”のはいいんですけど、落とし方を揃えてください」
「個人の判断で落とすと、差分が地獄なので」
神谷が笑った。
「出た、差分地獄」
「じゃあ落とすルールを文書化します。今日中に雛形作ります」
「助かります」
かなえも自然に笑う。
「“今日中”って言い切れるの、神谷さんの強みですよね」
「そこしか強みないんで」
神谷がさらっと返して、会議室の空気が少し和らぐ。
玲央の方を見ると、玲央は資料に目を落としている。
仕事の顔。
周りと同じ、仕事の顔。
なのに。
——目だけが、笑っていない。
笑っていないどころか、温度が落ちている。
冷たいというより、深い。
暗いというより、沈む。
(……やめて)
(その目で見ないで)
かなえは視線を逸らして、議題に戻った。
◇
会議が終わり、解散。
かなえは資料を片付けながら、息を吐いた。
やり切った、というより——持ちこたえた、が近い。
廊下に出ると、営業二課のメンバーがざわざわと雑談しながら戻っていく。
美緒が玲央の横に並び、自然に歩幅を合わせる。
(距離、近いな)
そう思ってしまう自分が嫌で、かなえは足を速めた。
その背中に、美緒の声が追いかけてくる。
「相沢さん、さっきの会議、すごくよかったですね〜」
軽い声。軽いのに、言葉だけが妙に狙ってる。
「結城さんと神谷さん、息ぴったりで」
玲央が返す声は平坦だった。
「仕事だから」
「ですよね〜」
美緒は笑う。
笑いながら、もう一段踏み込む。
「でも結城さん、会議中ずっと楽しそうでしたよ」
「普段ああいう笑い方、あんまりしないから……ちょっと意外でした」
“意外”。
その単語だけで胃が鳴る。
美緒の刺し方は、いつも“軽さ”を纏ってるのに、中身だけが鋭い。
玲央は何も言わない。
でも沈黙が、返事より怖い。
美緒がさらに続ける。
「神谷さんって、結城さんのこと『結城さん』って呼び方、すごい自然でしたね」
あくまで事実、みたいな顔で。
「距離感、近いというか……長く組んでる感じ」
「……あの人、週末も連絡取るタイプですか?」
週末。
その単語が、喉に刺さる。
(やめて)
(そこを触らないで)
かなえは足を止めずに歩いた。
聞こえてないふりをした。
それしかできない。
玲央の声が、低く落ちる。
「関係ない」
短い。
でも、温度がない。
美緒が「えー、そうですか?」と笑って、最後に軽く言った。
「でも相沢さん、結城さんのこと“放っておけない”って顔してましたよ」
笑いながら。
「……あ、今のは私の勘ですけど」
勘。
逃げ道。
逃げ道の形をした刺し。
かなえの胃がきゅっと縮む。
(……やめて)
(お願いだから、やめて)
その瞬間。
背中の皮膚が、ぞくっとした。
視線。
振り向かなくても分かる。
玲央が、こちらを見ている。
——職場に持ち込まない。
——距離を取る。
守ってるはずなのに。
目だけが、持ち込んでくる。
目の奥が、昏く、どろりと濁るみたいに。
笑ってないのに、逃がさない。
かなえは早足になって、席へ戻った。
◇
夕方。
仕事に戻っても集中できない。
数字を追う。メールを返す。資料を整える。
それでも、会議室で見えた玲央の目だけが消えない。
(何を見てたの)
(私が笑ってたのが、そんなに嫌なの)
——嫌、って思うなら、そう言えばいいのに。
でも言えない。
言える関係じゃない。
言えないのに、“私の中だけ”で胃が痛い。
机の上でスマホが震えた。
社内じゃない。個人。
相沢 玲央。
かなえは一瞬、指先が止まった。
ルールを思い出す。
(職場に持ち込まない)
(連絡は頻繁なのは困る)
なのに、開いてしまう。
『今日、会議ありがとう』
『運用、ちゃんと回す』
仕事の文面。
それならまだ、仕事。
——そう思った瞬間、続けてもう一件。
『さっきの』
『神谷さんと笑ってたの、見た』
心臓が止まる。
見た。
見られた。
さらに短い文。
『あれ、苦手』
胃がきゅっと鳴った。
苦手。
その言い方が、子どもみたいなのに、刺さる。
そして、最後。
『取られるの、嫌だ』
——取られる。
恋人じゃない。
彼女じゃない。
なのに、“取られる”。
かなえはスマホを握ったまま固まった。
(何それ)
(何様)
そう思うのに、胸の奥が甘く疼いてしまう。
嬉しいと思ってしまう自分が嫌で、胃が痛い。
返信欄に指を置いて、消して、また置く。
強がりで返したい。
でも強がりで返したら、玲央の目の奥がまた暗くなる気がする。
優しく返したら、それはまた“許可”になる。
——許可は、積み上がってる。
触る許可。
跡を残す許可。
土曜は時間を作る約束。
週末は俺のこと以外考えない、みたいな約束まで。
このまま平日まで玲央のものになったら、
私はどこに逃げればいい?
胃が痛い。
痛いのに、指先が震える。
追い打ちみたいに、玲央からもう一件。
『ごめん』
『でも、今かなえさんのこと考えてる』
かなえは息を止めた。
——職場に持ち込まない。
守るはずのルールが、文字の中で崩れていく。
守られない方が、痛い。
守られない方が、甘い。
かなえは画面を見たまま、動けなかった。




