表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『選ばれない私と、手放せない君』  作者:


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/19

第14話 会わない方が、痛い



月曜の朝は、いつも通り始まった。


顔を洗って、髪をまとめて、メイクをして、スーツを着る。

“仕事ができる私”を貼り付ける作業は手早い。

手早いぶんだけ、心が追いつかない。


喉の奥に紅茶の匂いが残っている気がした。

もちろん、そんなはずはない。

けれど日曜の朝に玲央が置いていった“週末の気配”は、もう生活の中に染みついてしまっている。


——ちゃんと帰った。

——ちゃんと約束を守った。


それが、逆に厄介だった。


ちゃんとしてるほど、私の中に“残る”。


服の下、見えない場所の“印”が、歩くたびに思い出になって胃を鳴らす。

見えないのに、確かにある。

見えないから、逃げ場がない。


(週末は、俺のこと以外考えない)

(破ったら……お仕置き)


ばかみたいだ。

大人が何やってるんだって思う。

思うのに、あの目尻のくしゃっとした笑顔が浮かぶと、胃が痛いのに胸が甘くなる。


——最悪。


「……行くしかない」


小さく呟いて、玄関を出た。





フロアはいつも通りの空気だった。


挨拶、打刻、メール、資料。

数字が飛び交い、誰かが笑い、誰かが苛立つ。

その全部が“現実”で、週末の温度は混ぜない。

混ぜないと決めた。決めたのは私だ。


——“職場に持ち込まない”。


だから私は、いつも通りに歩いた。

いつも通りに「おはようございます」と言って、

いつも通りにパソコンを立ち上げて、

いつも通りの顔を作る。


……作るのに、視界の端が勝手に探してしまう。


玲央。


見なきゃいいのに。

見たら胃が鳴るのが分かってるのに。


営業二課の島の方で、玲央が誰かと話していた。

スーツ、ネクタイ、仕事の顔。

社内の“軽そうな美形”をきちんと纏っている。

でも週末の、あの——「かなえさん」って呼ぶ声の温度を知ってしまったせいで、同じ顔が別物に見える。


(見ない。見ない)


私は視線を切って、自席に滑り込んだ。





午前は会議の準備で潰れた。


今日は合同MTGがある。

かなえのチーム(営業企画)と、営業二課、それから協業先。

数字の進捗と運用改善のすり合わせ。

いわゆる、誰もが“面倒”だと思うやつ。


でも、やらないと詰む。

そして詰むと、胃が死ぬ。


資料を整えていると、社内チャットが鳴った。


送信者:水野 美緒(営業二課)


『結城さーん!今日の合同MTG、資料確認しました!』

『運用改善のところ、二課側の補足も追記しておきました〜!』


仕事の文面。絵文字。軽いノリ。


かなえは淡々と返す。


『確認ありがとうございます。受領しました』

『補足も助かります』


すぐに既読。

すぐに返事。


『よかったです!』

『あと今日、神谷さんも来るんですよね?』

『あの人、会議うまいからちょっと楽しみです〜』


神谷さん。


協業先の担当者。

会議がうまい、という評価は確かに正しい。

そして——かなえは神谷と、業務の相性がいい。

それは事実だ。


事実なのに、その名前を出されると胃がちくっとする。


(……なんで)

(私、今ちょっと刺さった?)


刺さる理由を考えたくなくて、かなえは返事を短くした。


『はい、参加予定です』

『会議の件のみでお願いします』


既読。

返事はない。


その沈黙が、少しだけ楽で、少しだけ怖い。





会議室。


かなえのチームが先に入り、資料を配る。

営業二課も入ってくる。

玲央は一番最後に入ってきた。


目が合った気がした。

でも合ってないことにする。

玲央も、何も言わない。


——職場に持ち込まない。


守られているのに、胸がざらつく。

守られているからこそ、週末の余韻が行き場を失う。


オンラインの接続音がして、画面に協業先の会議室が映った。


神谷 蓮。

協業先の運用責任者。

スーツ姿で、画面越しに軽く手を挙げる。


「お世話になります。神谷です」


この人は、軽くない。

でも硬すぎもしない。

“ちょうどいい仕事の人”だ。


「本日、進捗と運用改善のすり合わせをさせてください」

かなえが司会を取ると、神谷がすぐに頷く。


「了解です。結城さんの資料、見やすい」

さらっと言って、さらっと続ける。

「……相変わらず、容赦なく数字が刺さる感じで」


かなえは思わず口元が緩んだ。


「刺さるように作ってます」

言ってから気づく。

これ、私の“仕事の笑い”じゃない。

ちょっとだけ気を抜いた笑い方だ。


(……だめだ)

(ここで気を抜くな)


でも、会議は進む。

進めないと終わらない。


神谷が画面共有で改善案を出す。


「一次集計を営業側でやる運用、今週から回ってますよね」

「現場の負担が増える分、入力の粒度を落としてる箇所がある」

「結城さんのチームが困るのって、たぶんそこですよね」


かなえがすぐ返す。


「困ります」

即答。

「“粒度を落とす”のはいいんですけど、落とし方を揃えてください」

「個人の判断で落とすと、差分が地獄なので」


神谷が笑った。


「出た、差分地獄」

「じゃあ落とすルールを文書化します。今日中に雛形作ります」


「助かります」

かなえも自然に笑う。

「“今日中”って言い切れるの、神谷さんの強みですよね」


「そこしか強みないんで」

神谷がさらっと返して、会議室の空気が少し和らぐ。


玲央の方を見ると、玲央は資料に目を落としている。

仕事の顔。

周りと同じ、仕事の顔。


なのに。


——目だけが、笑っていない。


笑っていないどころか、温度が落ちている。

冷たいというより、深い。

暗いというより、沈む。


(……やめて)

(その目で見ないで)


かなえは視線を逸らして、議題に戻った。





会議が終わり、解散。


かなえは資料を片付けながら、息を吐いた。

やり切った、というより——持ちこたえた、が近い。


廊下に出ると、営業二課のメンバーがざわざわと雑談しながら戻っていく。

美緒が玲央の横に並び、自然に歩幅を合わせる。


(距離、近いな)


そう思ってしまう自分が嫌で、かなえは足を速めた。


その背中に、美緒の声が追いかけてくる。


「相沢さん、さっきの会議、すごくよかったですね〜」

軽い声。軽いのに、言葉だけが妙に狙ってる。

「結城さんと神谷さん、息ぴったりで」


玲央が返す声は平坦だった。


「仕事だから」


「ですよね〜」

美緒は笑う。

笑いながら、もう一段踏み込む。

「でも結城さん、会議中ずっと楽しそうでしたよ」

「普段ああいう笑い方、あんまりしないから……ちょっと意外でした」


“意外”。


その単語だけで胃が鳴る。

美緒の刺し方は、いつも“軽さ”を纏ってるのに、中身だけが鋭い。


玲央は何も言わない。

でも沈黙が、返事より怖い。


美緒がさらに続ける。


「神谷さんって、結城さんのこと『結城さん』って呼び方、すごい自然でしたね」

あくまで事実、みたいな顔で。

「距離感、近いというか……長く組んでる感じ」

「……あの人、週末も連絡取るタイプですか?」


週末。

その単語が、喉に刺さる。


(やめて)

(そこを触らないで)


かなえは足を止めずに歩いた。

聞こえてないふりをした。

それしかできない。


玲央の声が、低く落ちる。


「関係ない」


短い。

でも、温度がない。


美緒が「えー、そうですか?」と笑って、最後に軽く言った。


「でも相沢さん、結城さんのこと“放っておけない”って顔してましたよ」

笑いながら。

「……あ、今のは私の勘ですけど」


勘。

逃げ道。

逃げ道の形をした刺し。


かなえの胃がきゅっと縮む。


(……やめて)

(お願いだから、やめて)


その瞬間。

背中の皮膚が、ぞくっとした。


視線。


振り向かなくても分かる。

玲央が、こちらを見ている。


——職場に持ち込まない。

——距離を取る。


守ってるはずなのに。


目だけが、持ち込んでくる。


目の奥が、昏く、どろりと濁るみたいに。

笑ってないのに、逃がさない。


かなえは早足になって、席へ戻った。





夕方。


仕事に戻っても集中できない。

数字を追う。メールを返す。資料を整える。

それでも、会議室で見えた玲央の目だけが消えない。


(何を見てたの)

(私が笑ってたのが、そんなに嫌なの)


——嫌、って思うなら、そう言えばいいのに。

でも言えない。

言える関係じゃない。


言えないのに、“私の中だけ”で胃が痛い。


机の上でスマホが震えた。

社内じゃない。個人。


相沢 玲央。


かなえは一瞬、指先が止まった。

ルールを思い出す。


(職場に持ち込まない)

(連絡は頻繁なのは困る)


なのに、開いてしまう。


『今日、会議ありがとう』

『運用、ちゃんと回す』


仕事の文面。

それならまだ、仕事。


——そう思った瞬間、続けてもう一件。


『さっきの』

『神谷さんと笑ってたの、見た』


心臓が止まる。


見た。

見られた。


さらに短い文。


『あれ、苦手』


胃がきゅっと鳴った。


苦手。

その言い方が、子どもみたいなのに、刺さる。


そして、最後。


『取られるの、嫌だ』


——取られる。


恋人じゃない。

彼女じゃない。

なのに、“取られる”。


かなえはスマホを握ったまま固まった。


(何それ)

(何様)


そう思うのに、胸の奥が甘く疼いてしまう。

嬉しいと思ってしまう自分が嫌で、胃が痛い。


返信欄に指を置いて、消して、また置く。


強がりで返したい。

でも強がりで返したら、玲央の目の奥がまた暗くなる気がする。

優しく返したら、それはまた“許可”になる。


——許可は、積み上がってる。


触る許可。

跡を残す許可。

土曜は時間を作る約束。

週末は俺のこと以外考えない、みたいな約束まで。


このまま平日まで玲央のものになったら、

私はどこに逃げればいい?


胃が痛い。

痛いのに、指先が震える。


追い打ちみたいに、玲央からもう一件。


『ごめん』

『でも、今かなえさんのこと考えてる』


かなえは息を止めた。


——職場に持ち込まない。

守るはずのルールが、文字の中で崩れていく。


守られない方が、痛い。

守られない方が、甘い。


かなえは画面を見たまま、動けなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ