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『選ばれない私と、手放せない君』  作者:


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第11話 帰れるなら、帰って




営業二課のエリアが少し騒がしい。

笑い声の中心に美緒がいた。


美緒は玲央のデスク脇まで来ると、さっき歩きながら口にした話題を、わざと軽く持ち上げた。


「相沢さん。……さっきの、カフェのやつ」


玲央は椅子を回して、目線だけ寄こす。


「何」


「結城さん」

美緒は笑う。明るいのに、目の奥だけが妙に鋭い。

「……ああいう顔するんですね。ちょっと意外でした」


玲央は口元だけで笑った。


「仕事の顔でしょ」


「仕事っぽかったです」

美緒はすぐ頷いてから、同じテンポで続ける。

「でも、“社内の結城さん”じゃなかった」


玲央の指先が、ペンを一度だけ転がす。


美緒はそれを見逃さない。


「相沢さん、ほんと器用」

「笑ってるのに、目だけ全然笑ってない」


「疲れてるだけ」


「ふーん」

美緒は軽く間を置いて、次を落とす。

「来客証、見えちゃって。神谷さん、って人」

「○○社。今日から担当、って」


玲央の口元の笑いが、ほんの少し薄くなる。

代わりに、声だけは平らだった。


「へえ」


美緒はにこっとする。


「前の会社の先輩ですかね」

「結城さん、あの人の前だと……ちょっと甘かった」


“甘かった”の言い方が、わざとだ。

玲央は視線を切らないまま、短く返す。


「詮索しすぎ」


「え、詮索じゃないですよ」

美緒は肩をすくめる。

「純粋に気になっただけ。……相沢さん、知ってるのかなって」


玲央は笑顔を貼り直した。


「知らない」

「業務の相手でしょ」


「そっか」

美緒は素直に引くふりをして、最後にだけ小さく刺す。

「でも相沢さん、結城さんのことになると、線引きだけ急に上手いですね」


玲央は返事をしなかった。


頭の中だけで呼ぶ。


(……かなえさん)



夕方。

かなえはデスクで、更新された資料を最後まで整えていた。


取引先の担当が変わる。

それに合わせてこちらの資料の渡し方も、会議の段取りも、細かい癖も調整し直しになる。

面倒だ。面倒なのに、放っておけない。

放っておけない性格が、今日も自分を疲れさせる。


それでも。

昼のカフェで神谷と話したときだけ、少しだけ呼吸が楽だった。


昔のやり取りを思い出して、つい拗ねたような言い方をしたのに、

神谷はいつもみたいに、面倒くさがらずに受け止めてくれた。

「変わらないな」って笑って、コーヒーを差し出して。


──ああいう笑顔。

“気を抜いていい笑顔”。


それを自分がしてしまったことが、今になって胸の奥でじわじわ痛む。

誰に咎められたわけでもないのに、勝手に罪悪感が湧くのが嫌だった。


スマホが震える。


相沢さん。


『今どこ?』


短い。仕事の用件みたいに短い。

なのに、心臓が跳ねる。


かなえは画面を睨むみたいに見て、いちばん安全な返事を選んだ。


『まだ会社です。片付け中』


既読がつくのが早い。


『迎えに行く』

『嫌なら言って。すぐやめる』


迎えに行く。

その言い方の軽さが、逆に怖い。


ルールを思い出す。

(恋人じゃない)

(詮索しない)

(職場に持ち込まない)

(終電まで)


守ってるつもりで、守れてない。

でも、盾がないと崩れる。


かなえは息を吸って、指を動かした。


『……終電までです』


送信してから、胃がきゅっと縮む。

終電まで、と送った自分が、もうすでに“来てほしい”みたいで。



夜。

若手の飲みは、軽いノリのわりに息をつく隙がない。


玲央は笑って、毒舌を混ぜて、空気を回していた。

いつも通りに。


いつも通りのはずなのに、視界の奥にだけ、昼のカフェの光が貼り付いたままだった。

かなえさんが笑った瞬間。

自分の知らない顔。


美緒が隣でグラスを揺らしながら、何でもないふりで言う。


「相沢さん、今度さ、神谷さんも一緒に飲みません?」

「担当変わったなら顔合わせ、って建前で」


玲央は笑った。


「勝手に決めないで」


「決めてないですって」

美緒は笑い返す。

「でも結城さん、来そう。相沢さんもいるなら安心して」


安心、という言葉が、妙に腹の底に沈んだ。


「……知らない」


玲央が薄く返すと、美緒は無邪気みたいに首を傾げた。


「相沢さん、結城さんのことほんと分かりやすい」

「ねえ、さっきからスマホ見すぎ」


玲央はグラスを置いた。

音が少しだけ強い。


「美緒」


「はい?」


玲央は笑顔のまま言う。


「酔ってるときに、余計なこと言わない方がいい」


美緒は一瞬だけ目を丸くして、それからにこっとする。


「こわ。ごめんなさーい」

でも目は笑っていない。

「でも余計なこと言いたくなるくらい、相沢さん、今日ずっと落ち着かないんだもん」


玲央は返さなかった。

返したら、認めることになる。


代わりにスマホを取って打つ。


『今どこ?』


既読がつくのが早い。


『まだ会社です。片付け中』


胸の奥が、変に落ち着いた。

落ち着いてしまう自分がいちばん怖い。


『迎えに行く』

『嫌なら言って。すぐやめる』


送ってから、玲央は席を立った。

空気を壊さないように笑って、適当に理由をつけて、店を出る。


美緒が背中越しに、笑いながら追いかけた。


「え、もう抜けるんですか。早っ」


玲央は振り向かずに、「ちょっと」とだけ返す。


美緒は、悪気のないふりのまま、わざと続けた。


「神谷さんの話、もうちょい聞きたかったのに」

「相沢さん、気にならないんだ? 結城さん、ああいう人の前だと雰囲気違うのに」


一拍。


「……まあ、関係ないならいいけど」


玲央の足が一瞬だけ止まりかけて、それから何事もなかったみたいに動き出す。

笑顔は作ったまま、目だけがまったく笑っていなかった。



かなえがビルを出ると、夜風が頬に刺さった。

頭が少し重い。

飲んでいないのに。──飲んでいるのは、たぶん違う。


入口の柱の影に玲央がいた。

スーツのまま、ネクタイは少し緩い。頬がほんのり赤い。

笑っているのに、目だけが近い。


「お疲れさま」


「……お疲れさまです」


「遅い」

責めるより先に、玲央の声が少しだけ安堵に落ちる。

「無理してたでしょ」


「してません」


「してる」

玲央は短く言い切って、すぐ言い直す。

「……してそうだった」


その言い直しがずるい。


「飲んでたんですか」


「うん。若手のやつ」

玲央は少しだけ機嫌よく笑う。

「飲みすぎないようにするね。……また結城さんに心配かけちゃうから」


“心配”。


かなえの胃が、きゅっと鳴る。

勝手に、勝手に言うな。


「……勝手にしないでください」


「勝手にする」

玲央は軽く言って、でもすぐ真面目になる。

「勝手に、気にする」


歩き出すと、玲央が自然に歩幅を合わせてくる。

近い。近いのに触れない。

触れないことで、触れているみたいになる。


「……昼さ」


玲央が唐突に言った。


かなえの心臓が跳ねる。


「一階のカフェ、通った」

言い方は淡々としているのに、目は淡々としていない。

「男の人といたよね」


息が止まる。


「……見てたんですか」


「見えた」

玲央はそれだけ言って、少し困ったみたいに眉を下げる。

「美緒がさ、“あれ誰なんだろ”って、やたら気にしてて」

「……うるさくて。だから確認したかっただけ」


確認。

そう言い訳を置くのが上手い。


かなえは守りを貼るみたいに答えた。


「仕事です」

「前の会社の先輩です。取引先の担当が変わる件で」


玲央は「ふーん」とだけ返した。

たったそれだけなのに、“ふーん”が重い。


しばらく歩いてから、玲央がもう一度だけ言う。


「……仲いいの?」


「……業務でお世話になっただけです」


早口になる自分が嫌だった。

気にしているみたいで。

弁解しているみたいで。


玲央はそこで踏み込まない。

踏み込まない代わりに、かなえの袖口に指先を絡めた。

掴まない。離れないだけ。


「終電まで、だよね」


「……そうです」


「分かった」

玲央は柔らかく言った。

「終電まで」


“守る”の形をした言葉。

それで安心してしまう自分が悔しい。



店は、静かな小さなバーだった。

照明が暗くて、声が他人に溶ける。

二人の距離が、勝手に近くなる場所。


「お疲れさま会、ってことでいい?」

玲央が言う。


「……勝手に決めないでください」


「じゃあ相談」

玲央は笑う。

「今日、結城さんの顔見たら落ち着く気がした」


また“落ち着く”。


かなえはグラスを持つ手に力が入った。


「……それ、都合のいい言葉ですよね」


玲央は否定しなかった。

否定しないで、少しだけ困ったみたいに笑う。


「うん。都合いい」

「でも、ほんと」


かなえは目を逸らした。

その“ほんと”が甘いから。


「結城さんも飲む?」

玲央が聞く。


「……終電まで、って言いましたよね」


「うん。だから終電まで」

玲央はさらっと言う。

「飲みすぎない。俺も守る」


“守る”を口にされると、断りづらい。

かなえは小さく息を吐いて、結局頷いた。


一杯目は、ゆっくり。

二杯目は、気づいたら半分。

アルコールが喉を落ちるたび、体の中の棘が少し丸くなる。


玲央の機嫌は、さらに良くなった。

饒舌になるわけじゃない。

ただ、笑う回数が増える。目尻がくしゃっとなる。


その笑い方が、ずるい。

かなえの胸の奥が、勝手に柔らかくなる。


「……なんで笑うんですか」


「笑いたいから」

玲央は言って、少しだけ声を落とす。

「かなえさん」


呼ばれた瞬間、かなえの背筋がぞくっとする。


社内では結城さん。

二人きりだと、かなえさん。


その差が、俺だけだと言われているみたいで。

嬉しいのに、胃が痛い。


「……外です」


「ここ、ほぼ外じゃない」

玲央はとぼける。

「そんな気にしなくていい」


かなえは視線を逸らした。


「……呼ばないでください」


玲央は眉を下げる。


「嫌?」


「……嫌、じゃないです」

言ってから、かなえは自分に腹が立った。

「嫌じゃないから困るんです」


玲央が小さく笑う。


「じゃあ、困らせる」

笑っているのに、目は真剣だ。

「……かなえさんって呼ぶと、俺、落ち着く」


落ち着く。

都合のいい言葉。


でも、かなえはその言葉に弱い。

“必要とされている”みたいに錯覚してしまうから。


店を出たのは、終電まであと少し、という時間だった。

夜の空気が冷たい。頬が少し熱い。


駅へ向かう道。

街灯が二人の影を長く伸ばす。


「……駅、こっちです」


「うん」

玲央は頷く。

頷くのに、歩く速度が少しだけ遅い。


(守る気、ある?)

守る気がある顔をして、守らないのがいちばん怖い。


「かなえさん」


また呼ばれた。

かなえは反射で足を止める。


玲央も止まって、少しだけ距離を詰めた。

触れない。

触れないのに、息だけが触れる。


「今日さ」

玲央は声を落とす。

「……あの男の前で笑ってたの、やだった」


かなえの胃がきゅっと鳴る。


「仕事です」


「うん。分かってる」

玲央は頷いた。

頷いてから、少しだけ眉を寄せる。

「でも、やだった」


子どもみたいな言い方。

なのに、目の奥は濁っている。


かなえは強がって返す。


「……誰にでもそう言うんですか」


玲央が一瞬、目を細めた。


「何が」


「やだ、とか」

かなえは言葉を探す。

「落ち着く、とか」


言ってしまってから、自分の首を絞めた気がした。

“気にしてる”のがバレる。


玲央は笑わなかった。

代わりに、少しだけ息を吐く。


「……誰にでも言わない」


短く言い切って、少し困ったみたいに口元を歪める。


「うまく言えない」

「でも、かなえさんにだけ」


その言い方が、ずるい。

限定の言葉を、恋人じゃない顔で差し出すから。


玲央の手が、かなえのコートの袖に触れた。

掴むんじゃない。指を絡める。

逃げられる余地は残す。

残しながら、逃がさない。


「帰れる?」


かなえは頷けなかった。

頷いたら帰ることになる。

帰ったら、今日が切れる。


玲央はそれを見て、声を落とす。


「……帰ってもいいよ」

一拍置いて、目が笑わないまま続ける。

「帰れるなら」


かなえの喉が詰まる。


終電まで。

ルール。

盾。


盾を持っているのに、盾の裏側から抱き締められているみたいで、息ができない。


「……相沢さん」


「うん」


「……ずるい」


玲央は少しだけ笑った。

でも、その笑いは柔らかくない。


「ずるくないと、離れそうだった」

言ってから、自分でも驚いたみたいに眉を寄せる。

「……ごめん。今の、言い方変だった」


かなえは返せない。


玲央は、指先を絡めたまま、低く言った。


「嫌なら、やめる」

「ほんとに。今ここで離れる」

「……でも、触れたい」


触れたい。

それは恋人の言葉みたいで、でも恋人の言葉じゃないみたいで。


かなえは声にならない息を吐く。


「……ここ、外です」


玲央は頷いた。

頷いて、少しだけ視線を落とす。


「じゃあ、ここじゃないとこ」

「……少しだけ、隠れる場所」


引っ張られる。

強くじゃない。誘導みたいに。

それが、断れない速度。


ビルの陰、誰も通らない脇道。

街灯の光が一段薄いところで、玲央が立ち止まった。


「かなえさん」


呼ばれた瞬間に、かなえの胃がまた痛む。

痛いのに、胸が甘い。


「……だめって言ったら」


「止める」

玲央は即答した。

それから少しだけ目尻を下げる。

「止めたくないけど、止める」


その“止める”があるから、かなえは弱くなる。

押しに弱い自分が、嫌なのに。


玲央の手が、かなえの頬に触れた。

指先が冷たい。

触れられる前に分かる距離で、心臓が跳ねる。


「……触っていい?」


許可を取る声が、やけに丁寧で。

丁寧なのに、逃がす気がない。


かなえは答えられない。

答えられないまま、玲央が近づく。


キスは、急じゃなかった。

急かさない。急かさないのに、逃がさない。

唇が触れて、離れて、また触れる。


かなえは息を止めて、玲央のコートの袖を掴む。

拒否じゃない。止めてもいない。


「……かなえさん」


名前を呼ばれるたび、胸がきゅっとなる。

目尻がくしゃっとなる笑い方が、今はない。

代わりに、真剣な目がある。


玲央の唇が、口元から頬へ、少しずつ下がる。

鎖骨の近くに触れた瞬間、かなえは肩をすくめた。


「……っ、だめ、そこ……」


「痛い?」


「違う……」

言葉が続かない。

続かないのが悔しい。


玲央はそこで止まった。

止まって、額を寄せる。


「言って」

「嫌なら、ちゃんと」


かなえは息を吸って、吐いた。


「……痕、残ったら困ります」


玲央の目が、ほんの少しだけ細くなる。

その表情が、嬉しそうにも見えてしまって、かなえはさらに胃が痛い。


「見えるとこはしない」

玲央は静かに言う。

「……隠せるとこだけ」


隠せるとこ。

その言い方が、もう十分にずるい。


玲央の唇が、また近づく。

今度は布の上からじゃない。

肌の熱が、直接触れてくる。


かなえは声を飲み込んだ。

飲み込んだ瞬間、玲央が小さく息を吐く。


「……よかった」


「何が」


「かなえさん、ちゃんと嫌って言える」

玲央は少し困ったみたいに笑う。

「……でも、止められない」


その“止められない”は、かなえの胸の奥を甘く刺す。

求められている。

そう錯覚してしまうのが、いちばん怖い。


玲央が、鎖骨の下にもう一つだけ、短く熱を置いた。

強くはない。痛くはない。

でも、残ると分かる温度。


かなえは思わず玲央の肩を押した。


「……っ、やっぱり」


「ごめん」

玲央はすぐ言う。

でも離れない。

「……ごめん。ほんとに」

言いながら、唇がまたそこに触れる。

謝るのに、やめない。


かなえの頭がふわっとする。

お酒のせいだけじゃない。

嬉しいからだ。

こんなふうに、必死みたいに触れられるのが。


──たとえ、猫の代わりでも。


その考えが浮かんだ瞬間、胃がもやっとする。

嬉しい自分を、嫌いになりそうで。


かなえは強がって言った。


「……私、恋人じゃないです」


玲央は一瞬だけ止まった。

止まって、かなえの目を見た。


「うん」

頷く。

その頷きが、妙に優しい。

「恋人の話、してない」


かなえの喉が詰まる。


玲央は、絡めた指先を少し強くする。

掴むほどじゃない。逃げられる余地を残したまま、逃がさない強さ。


「……かなえさんは、俺のモノでしょ」


低い声。

冗談みたいに言うくせに、目は冗談じゃない。


かなえの心臓が跳ねる。

胃が痛い。痛いのに、胸が甘い。


「……何それ」

強がりが勝つ。

「ペット扱いですか」


玲央が小さく笑った。

目尻がくしゃっとなる笑いじゃない。

もっと、静かな笑い。


「似てるって言ったら怒る?」

「実家の猫。抱きつくと落ち着く」


落ち着く。

またその言葉。


かなえの胃が、もっともやっとする。


「……じゃあ、猫がいればいいじゃないですか」


玲央の目が、少しだけ曇る。

濁る、というより、影が落ちる。


「それは違う」

玲央は短く言い切る。

言い切ってから、少しだけ声を落とす。

「猫は、かなえさんじゃない」


その言い方が、ずるい。

言葉の形だけ“特別”を差し出してくる。


かなえは言い返せなくて、代わりに視線を逸らした。

逸らした先で、スマホの画面が光る。

時刻。


──終電。


残り、数分。


「……終電」


かなえが呟くと、玲央が少しだけ眉を寄せた。


「帰る?」


「……帰らないと、ルールが」


ルール。

盾。

崩れたら、言い訳がなくなる。


玲央は一拍置いて、頷いた。


「うん」

頷いたのに、指先は離れない。

「ルール、守りたいよね」


かなえは頷きかけた。

頷きかけたのに。


玲央が、もう一度だけ、唇を落とした。

さっきより深く。

さっきより長く。


かなえの身体が小さく震える。

拒否じゃない。

拒否じゃない自分が、悔しい。


玲央は唇を離して、息を吐く。


「……ごめん」

すぐに言い足す。

「でも今、帰したくない」


かなえの胃が痛む。

痛むのに、胸の奥がほっとしてしまう。

帰したくないと言われて、安心してしまう自分が嫌だ。


「相沢さん……」


「うん」

玲央は額を寄せる。

「嫌って言ったら、帰す」

「でも、嫌じゃない顔してる」


見抜かれるのが怖い。

でも、見抜かれてしまった方が楽な瞬間もある。

その自分が、いちばん嫌だ。


かなえは震える息で言った。


「……嫌じゃないから困るんです」


玲央が、少しだけ笑う。

今度は、目尻がほんの少しだけくしゃっとなる。


「じゃあ、困って」

玲央は囁く。

「……今夜だけ」


今夜だけ。

その言葉は、いつもみたいに“逃げ道”の形をしているのに、

今夜だけで終わる気がしないのが、もっと怖い。


かなえは、最後の抵抗みたいに言う。


「……終電、間に合わなくなります」


玲央は一拍置いて、静かに答えた。


「……間に合わないなら」

指先を絡めたまま、少しだけ引く。

「俺のとこ、来る?」


かなえは息を止めた。

来る、と言ったら、戻れない。

戻れないのに、断れない。


玲央は、逃げ道を一つだけ置くみたいに続ける。


「タクシー呼ぶのでもいい」

「送って終わりにもできる」

「……でも、俺は一緒にいたい」


一緒にいたい。

恋人の言葉みたいで、恋人じゃない顔。


かなえの胃が痛い。

痛いのに、口が勝手に動きそうになる。


玲央が、かなえの首元にもう一度だけ、短く熱を置く。

さっきより優しく。

それが余計にずるい。


「……かなえさん」

玲央は低く言う。

「俺のモノ、って言ったの」

少しだけ笑って、でも目はまっすぐ。

「嫌だった?」


かなえは言えない。

嫌じゃない。

嫌じゃないのが怖い。


返事の代わりに、玲央のコートの袖を、ぎゅっと掴んだ。


玲央の息が、ふっと緩む。


「……よかった」


かなえは自分に腹が立った。

なのに、掴んだ指は離せない。


遠くで駅のアナウンスが鳴った。

終電の案内。

胸が締まる。


玲央が囁く。


「帰れるなら、帰って」

言葉が柔らかいのに、指先が離さない。

「……帰れないなら、こっち」


かなえは目を閉じた。


(だめ)

(だめなはず)


なのに、身体が先に一歩動いた。


玲央の手が、かなえの背中に回る。

抱き締めるほど強くない。

でも、ほどけないように押さえる。


「……行く?」


玲央が最後に確認する。


かなえは小さく、うなずいた。


玲央の目尻が、くしゃっとなる。

嬉しそうに。

その笑い方が、いちばんずるい。


「ありがとう」


その“ありがとう”が、また逃げ道を塞ぐ。


かなえのスマホが震えた。

終電の時刻が近い通知。


画面を見て、かなえの喉が詰まる。


──もう、間に合わない。


「……相沢さん」


「うん」


「……ルール、破りました」


玲央は少しだけ眉を下げて、でも笑った。


「……ごめん」

謝るのに、指先を絡め直す。

「でも、今夜は」

低く言って、耳元で落とす。

「破ってよかった」


かなえの胃が、痛い。

痛いのに、甘い。


その夜、かなえはまた、

“終電まで”の盾を失っていく音を、ちゃんと聞いてしまった。

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