第10話 先輩の名前で、安心する
朝のフロアは、いつも通りに回っていた。
打刻の音、キーボードの音、コーヒーの匂い。
現実はきちんと整っているのに、かなえの身体だけが昨夜の続きを抱えたまま、時間に追いつけていない。
(胃が痛い)
(胸も、変に熱い)
“終電まで”の盾は昨夜あっさり折れた。
折れたのに、玲央は終始ご機嫌だった。
「ごめん」
そう言いながら目尻をくしゃっとさせて笑って、
それでも手の位置は、最後まで遠慮がなかった。
抱き締める腕も、肩に擦り寄せる額も、“落ち着く”という言葉も。
全部、恋人じゃない顔をして、逃げ道だけ残して、囲うみたいに。
朝方、かなえが身支度をしようと起き上がった時も、玲央は眠そうに眉を寄せてから、すぐに機嫌よく笑った。
「タクシー、呼ぶ」
「……かけるよ。今の結城さん、電車はしんどいでしょ」
優しい。
優しいのに、線の外側が見えない優しさで、胃が痛くなる。
恋人じゃない。
詮索しない。
職場に持ち込まない。
ルールはある。
あるのに、身体が覚えてしまった。
触れられた温度も、“落ち着く”という言い訳の声も。
かなえは椅子に座り直し、PCを立ち上げた。
画面が光る。
(今日は仕事)
(仕事だけ)
そう言い聞かせた瞬間、スマホが震える。
営業二課の水野美緒からだった。
『結城さーん!おはようございます〜!』
『今日、若手でランチ行くんですけど、結城さんもどうですか?』
『相沢さんも来るらしくて!』
……来るらしくて。
その一言で胃がきゅっと縮む。
持ち込んでないのに、向こうから持ち込まれる。
しかも“若手ランチ”という安全そうな名前で。
かなえは息を吸って、いつもの仕事の声で返した。
『おはようございます。今日は立て込んでいるので遠慮します』
『必要事項あれば業務チャットでお願いします』
既読がつく。
『ですよね!すみません!』
『また今度お願いします〜!』
軽い。軽いのに胃に残る。
かなえはスマホを伏せ、画面から逃げるみたいに資料をめくった。
(行かない)
(でも、終わらせない)
昨日、自分で選んだ方向だ。
だから今日も、ちゃんと仕事をする。
余計なことは考えない。
――そう思った瞬間。
通路の向こうで、玲央が誰かに呼び止められていた。
笑っている。社内用の軽い笑顔。
営業二課の空気に馴染む、いつもの玲央。
なのに、かなえの動線にだけ、視線が一度だけ引っかかった気がした。
近づいてこない。約束を守っている。
それでも、“見ないふり”ができていない。
(……だめ)
(目、合ったら全部バレる気がする)
かなえは視線を落として、資料の角を揃えた。
胸の奥がざわつくのを、整える動作で押さえつける。
◇
昼前、部長が席に来た。
「結城、午後の外部MTG、同席してくれ」
「○○社の件。先方、担当者が変わったらしい」
「……承知しました」
“担当者が変わった”というだけで、胸の奥がひやりとする。
○○社は付き合いが長い。担当が変わると、話が一度ひっくり返ることもある。
その調整を最後に受けるのは、だいたい営業企画だ。
隣の席の立花ミカが、ペンを回しながら横目で見た。
「顔、固い」
「胃?」
「……普通です」
「普通、便利だよね」
ミカは肩をすくめて、机の上に水のペットボトルを置いていった。
「はい、これ」
「“ちゃんとしてる人”ほど、自分のケアしない」
期待の形をした言葉は苦手なのに、ミカが言うと労いに聞こえるのがずるい。
「ありがとうございます」
かなえが礼を言うと、ミカは「倒れないでね」とだけ言って、すぐに自分の画面へ戻った。
恋の匂いはしない。
ただ、職場を回す人の言葉だ。
◇
午後、会議室。
先方の入室は時間ぴったりだった。
スーツの擦れる音と、名刺入れが机に置かれる小さな音。
空気が少しだけ締まる。
「お世話になります。○○社の神谷です。本日から担当になりました」
名刺を差し出された瞬間、かなえの指先が一瞬止まった。
神谷 蓮。
(……うそ)
前職の頃、同じプロジェクトで何度も顔を合わせた。
一つ上の部署の先輩で、淡々としていて余計なことは言わない。
でも、一番しんどいタイミングでだけ、さりげなく手を貸してくれた人。
――資料が真っ赤に戻ってきた夜。
終電前の会議室で、かなえが一人で泣きそうになっていた時。
神谷は何も聞かずに隣に座って、A4の紙に箇条書きをしてくれた。
「これで通る。言い方は俺が調整する」
「結城は寝ろ。明日、顔色が死ぬ」
そう言って、コンビニの栄養ドリンクを机に置いて、静かに笑った。
“優しい”というより、“当たり前に面倒を見る”みたいな手際の良さ。
そのせいで、礼を言うより先に泣きそうになったことを、かなえは忘れていない。
部長が形式的な挨拶を交わし、議題に入る。
資料のページがめくられ、スライドが映る。
かなえは“仕事の顔”を貼り付けるのに必死だった。
驚いた顔をしたら、過去まで見透かされそうで。
神谷は会議の進め方がうまかった。
主張しすぎないのに、要点を拾う。
言葉の角がないのに、論点がずれない。
誰かが余計なところで揉めそうになると、静かに戻す。
「この運用だと現場負担が大きいですね」
「一次集計は、こちらで吸います。締切も前倒しで合わせます」
それは、かなえの部署の残業を確実に減らす提案だった。
仕事としてありがたい。
ありがたいのに――胸の奥がふっと軽くなるのが怖い。
(安心するな)
(これは仕事)
自分に言い聞かせる。
会議が中盤、神谷が資料をめくりながらぽつりと言った。
「結城さんのところ、今これ回してるんですよね」
「……相当きついでしょ」
“きついでしょ”が、詮索じゃない顔をして刺さる。
かなえは即座に、いつもの答えを出した。
「繁忙期なので。調整します」
神谷はそれ以上踏み込まず、ただ頷いた。
押し返さないのに、見ている頷き。
終盤、決裁の段取りを確認する場面で、部長がかなえに振る。
「結城、懸念点あるか」
かなえは資料を見て、必要なことだけを言う。
「先方の担当変更に伴って、社内の稟議ルートが変わります」
「承認のボトルネックが出る可能性があるので、今週中に一次整理します」
淡々と喋っているつもりなのに、声が少しだけ硬いのが自分でも分かった。
神谷が短く言う。
「助かります」
その“助かります”は、仕事の礼なのに、
なぜか胸の奥に残る。
会議が締まる間際、神谷が少しだけ声を落とした。
「無理しないで」
「倒れるやつだから」
――倒れるやつだから。
かなえの胃がきゅっと鳴った。
覚えていたのか、偶然なのか。
どちらにしても、こんな場で言われる言葉じゃない。
かなえは、仕事の顔のまま頷いた。
「……ありがとうございます。大丈夫です」
でも、その“仕事の顔”の裏で、少しだけ甘えたくなる自分がいるのが悔しい。
神谷はそれ以上何も言わなかった。
線を引くように、会議を終わらせる。
◇
会議室を出た廊下で、ミカが近づいてきた。
まるでタイミングを測っていたみたいに。
「神谷さん、知り合い?」
「前職の……先輩です」
「へえ」
ミカは点検する目でかなえを見る。
「会議中、呼吸が戻ってた」
「……そんなこと」
「あるよ」
ミカは即答した。
「良い悪いじゃなくて、事実」
事実、という言い方が優しい。
恋の話に寄せないための言葉だと分かる。
ミカはかなえのペットボトルを指で弾いた。
「水、飲んで」
「顔色、まだ戻ってない」
「……はい」
キャップを開けると、喉を水が落ちていく。
それだけで少しだけ、胃の痛みが黙る気がした。
◇
夕方。
かなえが議事録と決裁メモを整えていると、社内チャットが鳴った。
差出人は神谷。
『さっきの件、追加で一つ共有したい』
『メールでもいいけど、口頭の方が早い』
業務の連絡だ。
断る理由はない。
なのに、指先が冷える。
(なんで)
(私は、何を警戒してるの)
玲央の顔がよぎった瞬間、胃が痛くなる。
職場に持ち込まないはずのものが、勝手に混ざる。
かなえは短く返した。
『承知しました。今、可能です』
すぐに返事が来る。
『ありがとう。1Fのカフェで5分だけ』
――五分だけ。
言葉の小ささが、逆に怖い。
でもこれは仕事だ。
仕事だから、行ける。
◇
1Fのカフェは、ビルの中にあるのに外みたいにざわつく。
立ち話でも埋もれる音量。
仕事の話をするにはちょうどいい。
神谷は先に席を取っていた。
テーブルの上にコーヒーが二つ置かれている。
「勝手に頼んだ。ブラックで大丈夫だったよな」
「……覚えてたんですね」
思わずそう言ってしまってから、かなえは少しだけ唇を尖らせた。
覚えてるなら、もっと早く気づいてくれればよかったのに。
――そんな幼い拗ね方が、自分でも意外で、恥ずかしい。
神谷は淡々と、でもほんの少しだけ口元を緩める。
「結城、甘いの苦手だった」
苗字呼びのままなのに距離が近い。
懐かしさが胸をくすぐって、胃が痛む。
神谷が資料を一枚差し出し、要点だけ説明する。
無駄がない。引き止めない。
“仕事だけ”で終わらせる空気を、ちゃんと作ってくれる。
だから――かなえは少しだけ気を抜いてしまった。
「助かります」
礼を言うと、神谷は淡々と頷く。
「昔からちゃんと礼を言う」
「偉いよ」
偉い。
期待じゃなくて労いに聞こえるのが、ずるい。
かなえは思わず笑ってしまいそうになって、慌てて口元を隠した。
それでも、笑いが漏れる。
「……それ、前も言いましたよね」
「言った」
神谷はさらっと返す。
「結城が倒れそうな時、だいたい俺はそれ言う」
その言い方が、当時の会議室を連れてくる。
赤い修正が並ぶ資料。
冷えた蛍光灯の光。
神谷が机に置いた栄養ドリンクの缶の音。
かなえは、少しだけ拗ねたまま笑ってしまった。
「……あの時、先輩、ほんと雑でした」
「“寝ろ”って、命令みたいに」
神谷は少しだけ眉を上げる。
「命令じゃない。最適解」
「結城、睡眠足りないとメンタル落ちる」
「……分析されてる」
「される」
神谷は平然と言う。
「結城は、ちゃんとしてるのに自分のケアを後回しにする」
その言葉が、今の自分にも刺さる。
ミカと同じことを言われているのに、神谷の方がずっと昔から見ていたみたいで、喉が詰まる。
かなえは、逃げるようにカップを持ち上げた。
苦い。
でも、その苦さが落ち着く。
「……神谷さん、変わってないですね」
言ってから、はっとする。
こういう言葉は軽々しく言うべきじゃないのに。
神谷は少しだけ目を細めた。
「結城もな」
その返しが、思ったより柔らかい。
かなえの胸が、ふっと緩む。
(……だめ)
(緩むと、戻れなくなる)
そう思うのに、神谷が声を落として続ける。
「顔色、やっぱ良くない。今の会社、ちゃんと休めてる?」
かなえの喉が詰まる。
答えたら、何かが始まる気がする。
でも、神谷の前だと“始まる”が怖いというより、
“戻れる場所がある”みたいに錯覚してしまうのが怖い。
かなえは、ほんの少しだけ本音を混ぜた。
「……休めてないです」
言ってから、慌てて言い足す。
「でも、私のせいでもあるので。調整します」
神谷は責めない。
ただ、短く息を吐いた。
「そうやって自分のせいにするのも、変わってない」
それから、淡々と、でも優しく言う。
「無理するなよ。倒れるやつだから」
同じ言葉を二回。
胃が痛いのに、胸の奥は少しだけ楽で、
その矛盾が怖い。
神谷は時計を見て、カップを置いた。
「じゃ、今日はこれで」
「また連絡する。仕事で」
仕事で。
最後にわざわざ線を引く言い方が、優しい。
かなえも頷く。
「はい。よろしくお願いします」
神谷が立ち上がり、軽く会釈をする。
「お疲れ」
「……お疲れさまです」
神谷はそのまま去っていった。
カフェのざわめきに背中が溶けていく。
残ったのは、苦いコーヒーと、拗ねながら笑った自分の感触。
(……私、笑った)
(しかも、ちょっと拗ねた)
そんなの、誰に見せても得しないのに。
神谷の前だと出てしまったことが、なぜか悔しくて、でも少しだけ嬉しい。
かなえはカップを持ち直して、深呼吸をひとつした。
仕事だ。ここは仕事の線の内側だ。
そう言い聞かせながら席を立ち、エレベーターへ向かった。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
別件の打ち合わせを終えた玲央は、ビルの1Fフロアを美緒と並んで歩いていた。
美緒は上機嫌で、歩調が軽い。
「相沢さん、今日の先方、話早かったですね〜」
「助かりました!」
「うん。まあ、よかった」
玲央は社内用の笑顔を貼り付けて返す。
雑談の皮を被った“営業二課の空気”に、適当に馴染んでおけばいい。
――なのに。
ガラス張りのカフェの前で、美緒が急に足を止めた。
「あ」
玲央も釣られて視線を向ける。
そこに、結城さんがいた。
テーブルの向こうに男が座っていて、結城さんが――笑っていた。
一瞬だけ。
仕事中の無難な笑顔じゃない。
社内で見せる、角のない“整えた顔”とも違う。
気を抜いたみたいに、口元がやわらかく崩れていた。
玲央の呼吸が止まる。
(……かなえさん)
社内では言えない呼び方が、頭の中だけで勝手に鳴る。
美緒が、楽しそうに小さく息を漏らした。
「結城さん、あんな顔するんだ」
「……初めて見ました」
玲央は視線を切れなかった。
切ったら、見ていたことが“自分の方が”痛いみたいで。
「仕事の打ち合わせじゃないの」
自分の声が平らすぎて、逆に耳につく。
美緒は玲央の表情を見ずに、カフェの方を見たまま言った。
「え〜、でも距離近くないです?」
「ほら、笑ってる。めっちゃ」
“笑ってる”の二文字が、胸の奥をざらつかせる。
玲央は、笑顔の形だけを崩さずに返した。
「別に」
「結城さんは、そういうの上手いでしょ」
美緒が「へぇ」と間延びした声を出す。
「上手い、って言い方。なんか大人ですね」
それから、わざとらしく首を傾げる。
「……彼氏、とか?」
玲央は一瞬だけ奥歯を噛んだ。
噛んだことを悟られないように、息を吐く。
「知らない」
「他部署の人だし」
「ふーん」
美緒は、今度は玲央の横顔を見た。
笑っているのに、目だけが冷たいのを、面白がるみたいに。
「相沢さんって、ああいうの興味ないと思ってた」
「……結城さんの話すると、ちょっとだけ反応するんですね」
玲央は返事をしなかった。
返したら負ける気がした。
そもそも勝ち負けの話じゃないのに。
視線を戻すと、結城さんが立ち上がって、男に会釈しているところだった。
礼儀正しい。いつもの“ちゃんとしてる”動作。
――なのに、さっきの笑顔の残り香があった。
玲央の口元は笑っているのに、目は笑わない。
目の奥が、昏くどろりと濁っていく。
(……かなえさん)
(あんな顔、俺の前ではしないくせに)
喉元まで上がった言葉を、玲央は飲み込んだ。
飲み込むほど、胃の奥が重くなる。
美緒は勝手に結論を転がすみたいに言う。
「まあでも、結城さんって“隙なさそう”ですもんね」
「彼氏いても不思議じゃないか〜」
“彼氏”という言葉が、今度は胸の奥で鈍く鳴った。
玲央は、いつもの調子で笑った。
「そうなんじゃない?」
「知らないけど」
言葉だけを軽くする。
軽くしておかないと、顔に出る。
美緒が、くすっと笑う。
「相沢さん、ほんと薄い返事」
「……あ、もしかして、知らない方がいい系?」
冗談みたいに言いながら、目が冗談じゃない。
玲央は、社内用の笑顔を貼り直した。
「疲れてるだけ」
「行くよ」
「はーい」
美緒は素直に歩き出す。
玲央は歩きながら、背中の奥でカフェの方向を引きずっている自分に気づいた。
追いかけたら、終わる。
終わらせないのに。
◇
フロアに戻っても落ち着かなかった。
仕事の画面を開いても、視界の端にあの笑顔が残る。
玲央はスマホを取った。
仕事でも私用でもない、でも触れてしまう言葉を選ぶ。
『結城さん』
『顔色悪い。無理するな』
送ってから、既読がつくまでの数秒が長い。
自分が何をしているのか分からない。
分からないのに、“送りたくなった”ことだけは事実だった。
既読。
返事が返ってくる。
『大丈夫です。ありがとうございます』
その丁寧さが、いっそう落ち着かない。
玲央は、もう一度だけ指を動かした。
『今日は、早く帰れそう?』
ただの確認の顔をした言葉。
でも本当は、帰る場所を先に押さえたいだけだと、自分が一番分かっている。
◇
かなえはその通知を見て、指が止まった。
早く帰れそう?
それは“心配”の形をしていて、
同時に――今夜の自分を、先に確保されるみたいな言葉でもあった。
(……詮索しない)
(……恋人じゃない)
なのに、胸の奥が熱くなる。
熱くなった分だけ、胃が痛い。
返信欄に指を置いて、消して、また置く。
“行かないけど終わらせない”を選んだのは自分なのに、
その選択が、玲央の指先に握られていく気がして――かなえは動けなかった。




