第1話 終電の拾いもの
終電が近い駅前は、仕事終わりの匂いでむせ返っていた。
ネオンの明滅、タクシーのブレーキ音、呼び込みの声、誰かの笑い声。全部が雑音なのに、耳の奥に刺さって抜けない。
冷えた夜気が頬を撫でても、かなえの身体の内側は熱いままだった。熱、というより、焦げつくような疲労。
スマホの黒い画面に、ぼんやり自分の顔が映る。
——疲れてる顔。
メイクは崩れていない。髪も乱れていない。口角だって一応上げられる。
それでも目だけは笑っていない。目だけは誤魔化せない。
今日は朝からずっと「すみません」と「ありがとうございます」を繰り返した日だった。
取引先のミス、社内の調整、上司の苛立ち、後輩の泣きそうな顔。
ひとつひとつは小さいのに、積み上げると息ができなくなる。
かなえは、そういう“誰かの困った”を拾いやすい。
面倒だと思う。……思うのに、足が止まる。
直せない。というか、直す気があるのかも怪しい。今日みたいな日に限って。
——今日は帰る。
帰って、熱いシャワーを浴びて、何か食べて、寝る。
社会人として、正しい。
そうやって“正しさ”にしがみつくように歩いていたのに。
駅前の植え込みの縁に、スーツ姿の男が座り込んでいるのが目に入った。
座っている、というより——置き忘れられた、みたいだった。
背が高い。肩幅がある。髪は整っているのに、顔色だけが悪い。
通り過ぎる人たちが、ちらりと見て、見なかったことにしていく。
かなえも、本当はそうするべきだった。
面倒だ。関わるな。明日も仕事だ。
頭の中の理性が早口で言うのに、足が止まった。
——それがもう、負けだ。
「……大丈夫ですか?」
声をかけた瞬間、男がゆっくり顔を上げた。
街灯の下で見た目がはっきりして、かなえは内心で息を呑む。
整った顔。涼しい目元、形のいい口。
いかにも“軽そう”に見える、美形。
距離感が近くて、悪気なく踏み込んでくるタイプ。かなえが一番苦手な種類。
でも今は、綺麗に見えるより先に危うさが目についた。
頬の血色が薄い。唇が乾いている。目の焦点が少しだけ泳いでいる。
「だいじょ……ぶ、です」
返事はあるのに、発音が少し危うい。
酔いなのか体調不良なのか——どちらでも面倒だ。
でも放っておけない種類の面倒だ、というのも分かってしまう。
かなえは一歩だけ近づいて、しゃがみ込んだ。
距離が詰まると、男はわずかに肩を強張らせる。反射的な警戒。
その反応が、逆に“意識はある”ことを示していた。
「立てます? ……その、失礼します。腕、支えますね」
断りを入れてから、かなえは男の前腕にそっと手を添えた。
触れた瞬間、男の身体が小さく震えた。
「……っ」
「ごめんなさい、嫌でした? 離します?」
かなえが手を引こうとすると、男は首を横に振る。動きが少し遅れる。
「嫌じゃないです……ただ、今ちょっと、びっくりしました」
言い方が妙に正直で、かなえは変に笑いそうになって堪えた。
男は苦笑みたいに口角だけ上げる。
「……すみません。ちょっと、眩暈で」
「救急車呼びます?」
「それは……やめてください。仕事の人にバレるの、きつい」
“きつい”の言い方が、見栄じゃなく本音に聞こえた。
かなえは息を吐いて、頭を切り替える。
「……じゃあ、タクシー。家まで。…歩けます?」
「……たぶん」
「“たぶん”は困る。……倒れたら、ほんと困るので」
かなえははっきり言ってから手を差し出した。
「手、借ります。掴んでください。——嫌なら言って」
男は一瞬だけ迷う顔をした。
戸惑いとプライドと助けを求めたい気持ちがせめぎ合っているみたいな表情。
でも次の瞬間、体調の悪さが勝ったのか、男は素直にかなえの手を取った。
掴まれた指が、驚くほど冷えている。
「冷たい」と言ったら、相手を追い詰める気がして、かなえは喉の奥で飲み込んだ。
「……すみません」
「謝らなくていいです。倒れられた方が困るので」
タクシーがちょうど目の前で止まった。
かなえがドアを開けると、男はほっとした顔をした。
その表情を見て、かなえは少しだけ腹が立つ。
(……助けたくなる顔、するな)
シートに沈み込んだ男は目を閉じた。寝落ち、ではない。呼吸が浅い。眉間に皺がある。
疲れの質が、かなえと同じだと思った。
「住所、言えます?」
「……港区の……えっと」
声が途切れて、かなえは眉を寄せた。
男はポケットを探って名刺入れを取り出した。手慣れた動きが仕事の癖みたいだった。
名刺を一枚抜いて、かなえに差し出してくる。
——相沢 玲央。
会社名のロゴが視界に入り、かなえの肩が小さく跳ねた。
「……同じ会社?」
その瞬間、玲央のまぶたが大きく動いて、目が開いた。
かなえの顔を見て、名刺を見て、またかなえを見る。
「え……ほんとに? うちの……?」
驚いた声が漏れて、すぐに玲央は額を押さえた。
“まずい”が顔に出る。
「……ごめん、ちょっと無理。今、頭回ってない」
一拍、息を吸ってから続ける。
「でも、救急車だけはやめて。……明日、変な噂になったら、俺、ほんと終わる」
「噂、嫌なんですね」
「嫌。かなり……今夜のこと、誰にも知られたくない」
その言い方が妙に切実で、かなえは距離感を測り直す。
軽い男に見えたのに、こういうところだけ妙に現実的だ。
「じゃあ家。どこですか」
玲央は小さく息を吐いて、スマホを取り出した。ロックを解除し、地図アプリを開く。
画面には“自宅”のピンが立っていた。
「……ここです。これ、運転手さんに見せてください」
「最初からそうしてください」
かなえは運転手に画面を見せ、目的地を告げた。
走り出したタクシーの振動が、身体の芯に残っていた緊張を少しだけほぐす。
けれど、隣にいる男の存在が、別の緊張を呼ぶ。
玲央は時々、短い息を吐く。そのたびに肩が少し落ちる。
弱さを見せるのが上手い人なのか、本当に弱っているだけなのか。
見分けられない時点で、もう危ない。
ふと、玲央の視線がかなえのバッグに落ちた。
揺れた拍子に、持ち手に留めた社内IDが少し覗いていた。
玲央が、ぼそりと呟く。
「……結城、さん?」
呼ばれて、かなえは固まった。
「……なんで、名前」
「……ID、見えた」
すぐに視線を外して、気まずそうに付け足す。
「ごめん。見ようとしたわけじゃない。…ほんとに」
「見ないでください」
「はい。すみません」
そう言いながら、玲央はかなえをもう一度見た。
ぼんやりした目なのに、どこかだけ妙に真剣で。
「……結城さん。もしかして……ポータルの、連絡先の……」
かなえの喉が一瞬で詰まった。
「社内ポータル。トラブル対応の…連絡先。よく見る。……名前、頭に残ってて」
かなえは息を止めた。
自分が知らないところで、自分の名前が“便利な連絡先”として回っている。
それが社会人の当たり前だと分かっているのに、胸の奥がざらつく。
「……便利な連絡先ってだけでしょ。褒めても何も出ません」
玲央は一瞬だけ口を閉じて、それから小さく笑った。
「そういう返し、嫌いじゃない。……でも、本当に助かってました」
“助かってた”。
役割を褒められる言葉のはずなのに、声の温度だけが妙に柔らかい。
かなえはそれが怖くて、話題を切る。
「……で、あなたは誰なんですか。相沢さん」
「相沢、玲央。入社三年目。たぶん、結城さんより下です」
「……たぶん?」
「さっき、先輩って呼びそうになって、やめました。外したら最悪だし」
「呼ばなくていいです。先輩とか」
「敬意はありますよ」
「距離が近い」
「……近い方が、楽じゃない? …俺は、そう思う」
“楽”という言葉が、かなえの胸に引っかかる。
楽。確かにそうだ。
だからこそ、危ない。
マンション前に着くと、玲央は支払いをしようとして財布を探した。
かなえは先回りして止める。
「ここは私が立て替えます。……奢りじゃないので、明日会社で返してください」
玲央は一瞬きょとんとして、それから小さく頷いた。
「……分かりました。ちゃんと返します。ありがとうございます」
「体調、ほんとに大丈夫ですか」
「さっきよりは。……助かりました」
“助かった”がまた胸に刺さる。
かなえはサバサバした声で切る。
「じゃあ、ここまでです」
エントランスを抜け、エレベーターに乗る。
二人きりの箱の中、機械の低い唸りだけが響く。
玲央の匂いが、近すぎる距離で混じった。
「部屋、何階?」
「……十二」
「明日、ちゃんと出社できます?」
「できます。……結城さんこそ」
「私、倒れてません」
「倒れてないだけで、顔は死んでる」
「失礼な」
「でも、そういう顔でも助けるんですね」
柔らかい声で、核心だけ突いてくる。
かなえは反射で笑いそうになって、ぐっと奥歯を噛んだ。
本音を出すのが苦手だ。
笑って、冗談で流して、サバサバしたフリをして、踏み込まれないようにする。
踏み込んでほしい気持ちが、どこかにあるくせに。
十二階。ドアが開く。
玲央が鍵を探り、扉を開けた。
扉が開いた瞬間、かなえは玄関から一歩も入らずに言った。
「ここまで。水飲んで寝てください。明日、倒れられたら困るので」
——帰る。
口には出さない。出したら、引き止められる気がした。
そういう予感だけは、妙に当たる。
かなえが会釈して踵を返しかけた、そのとき。
玲央がドアに手をついた。
逃げ道を塞ぐみたいに。
でも声は、弱っている人のそれだった。
「……待って。ごめん、お願い。上がって、水だけ取ってくれない?」
「え、」
「俺、今動くと吐きそうで。ほんとに。……情けないけど」
“情けない”と言えるのがずるい。
かなえは舌打ちを飲み込み、靴を脱いだ。
——面倒。
なのに放っておけない自分が、もっと面倒。
部屋に上がると、ワンルームに近い空間は意外なほど整っていた。
生活感が薄い。物が少ない。綺麗すぎて、逆に息が詰まる。
“誰も入れない部屋”の匂いがした。
キッチンで水を汲み、戻ると、玲央はソファに沈み込んでいた。
ネクタイを緩めた首元が無防備に見える。その無防備さが、またずるい。
「はい、水」
玲央はコップを受け取り、一口飲んで、息を吐いた。
「……助かった。ほんとに」
「助かったなら、寝てください」
かなえはそう言って、今度こそ玄関へ向かおうとする。
言葉にしないだけで、全身が“帰る”方向を向いているのが自分でも分かった。
その瞬間、玲央の指がかなえの手首を掴んだ。
強くない。痛くない。
でも、離してくれない程度の力。
「……待って」
声が低い。さっきまでの軽さが消えている。
かなえは喉が乾くのを感じた。
「何ですか」
玲央は少しだけ眉を寄せて、まっすぐ言った。
「……結城さん、今すぐ帰ろうとしてるでしょ」
「……そう見えます?」
「……見える」
玲央が小さく笑う。笑ってないのに、口元だけが動く。
「たぶん、線、引こうとしてる」
その言い方が、なぜか妙に刺さった。
かなえの“線引き”は、いつも自分を守るためのものなのに。
見抜かれると、急に心許なくなる。
「今夜だけ。……今夜だけ、いて」
お願いの形をしているのに、拒めない圧がある。
断る言葉はたくさんあるはずなのに、舌が動かない。
——ここで帰ればいい。
——面倒なことになる。
そう分かっているのに、玲央が小さく笑う。
「結城さん、優しいよね。面倒って顔してるのに、放っておけない」
図星で腹が立つ。
かなえは睨むように玲央を見る。
「そういうの、嫌いです。分かったような顔」
「分かってるつもりない」
玲央は少しだけ身を起こし、かなえの手首を引いた。
距離が詰まる。吐息が触れる。
かなえの心臓が嫌に速くなる。
「……でも、結城さんのこと、落ち着く」
その言葉が餌みたいに甘い。
甘いから、危ない。
落ち着く。
誰かにそう言われるのは久しぶりだった。
仕事で頼られるのとは違う、私という人間を“置き場所”にされる感じ。
それが嬉しいと感じた瞬間、かなえは自分に引いた。
嬉しいなんて思ったら、終わる。
かなえは自分を守るために、わざと軽く言った。
「……相沢さん、口が上手い」
「そう言われると、ちょっと傷つく」
「傷つかないでしょ」
「……傷つきますよ。結城さん相手だと」
その言い方が、ずるい。
ずるいのに、かなえの胸は勝手に熱くなる。
玲央の指が、かなえの顎に触れた。
躊躇いがない。軽くて、当たり前みたいで——だから怖い。
「……先輩」
結局、呼ぶ。
でもそれはからかいじゃない。どこか確かめるみたいに、慎重な響きが混じっていた。
唇が触れる。
一度、軽く。確認みたいに。
二度目は、逃げ道を塞ぐみたいに深く。
——だめだ。
同じ会社だ。明日も顔を合わせる。噂になったら終わる。
そう分かっているのに、玲央の腕の中はひどく落ち着いてしまった。
「……一回だけ」
かなえは自分に言い聞かせるように呟いた。
一回だけなら事故で済む。そう思いたかった。
玲央は短く頷いた。
「……うん。無理させない」
その言葉が、優しすぎる。
優しさの形をした独占は、いちばん厄介だ。
夜は深くなって、窓の外の車の音が減る。
玲央の呼吸が落ち着いていく。
体調不良の名残があるせいか、彼は急かさなかった。けれど離さなかった。
縋るみたいに抱きしめて、ここにいることを確かめるみたいに触れてくる。
——“役割”じゃない私に触れられている気がして、かなえは余計に怖くなった。
玲央が眠りに落ちるのは早かった。
一度、力が抜けると一気に落ちた。
かなえは眠れなかった。
天井を見て、息を吐いて、胸の奥のざわつきを押さえ込もうとしても押さえ込めない。
(私、何してるんだろう)
(同じ会社の、よく知らない男の部屋で)
時計を見ると、午前二時半を回っていた。
帰らないといけない。
帰らないと、“事故”で済まなくなる。
そっと体を起こした瞬間、玲央の腕が無意識に絡んだ。
掴まれる。引き戻される。
「……行かないで」
寝言みたいな声。
でも指先だけははっきりとかなえを探している。
「……明日、仕事です」
「俺も……」
「じゃあ寝てください」
少し間があって、玲央が小さく息を吐く。
「……明日も、ちゃんと起きて」
“明日”が現実に繋がるから、胸が痛い。
かなえは玲央の指をそっと外した。
外すときに、どうしても“ごめん”が喉まで上がってきてしまう。
言わない。言ったら、ここに戻ってしまう。
玄関で靴を履き、コートを羽織る。
振り返ると、玲央は寝室の暗がりで静かに呼吸している。
(……これで終わり)
(終わりにする)
自分に言い聞かせて、かなえは部屋を出た。
マンションの外に出ると、空気がさらに冷える。
タクシーを拾って、運転手に住所を告げる声が少し震えた。
自宅に着いたのは、午前三時を少し過ぎた頃だった。
鍵を開けて、電気をつけないまま玄関に座り込む。
足がまだ、ふわふわしている。
シャワーを浴びる。熱いお湯で、触れられた感覚を落としたいのに落ちない。
落とせないのは身体じゃない。心だ。
ベッドに入っても、眠れなかった。
目を閉じると、玲央の「助かってました」「落ち着く」が戻ってくる。
あれは褒め言葉じゃない。
“ここにいて”の、別名だ。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ、ほどけてしまって。
——欲しかったのは、それだけだったのに。
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