霧雨の親父の事
永遠亭の一室。
森近霖之助は寝台に腰を下ろし、壁に寄りかかっていた。
使い兎の行き交う足音、洗面で洗い物をする音が聞こえてきて、朝になったのかと思う。さっきまで布団に入っていて、悪い夢を見たのだった。
──雨が降る中、香霖堂の前に立っていた。
店に入ろうとしたら戸口に板が打ってあって、人払いの札まで貼られている。
主人が居ない間に、断りもなく板を打つとはどういうことか。訝しく思いながら、釘抜きを持ってきて板を剥がそうとしたら、里のほうから霊夢が歩いてきた。紅白の巫女服を纏い、お祓い棒を持ったいつもの姿である。
釘抜きを持ったまま、そちらを振り返る。
なあ霊夢。戸口に板が打ってあって入れないんだけど、何か心当たりはないか。君も濡れてしまうから、とりあえず軒下に──。
そこまで言いかけて、巫女の瞳がこちらを捉えた。顔に表情はなく、髪の房から滴が伝っている。
「人殺し」
一言、そう言われた。
夢の中で、霖之助はすべてを思い出す。店に入れない理由も、危険な物を拾ってきたことも、森に帰ろうとする魔理沙を引き止めてまで近くで寝かせたことも、よく判っていた。
*
雨音が遠ざかって、はっと目を覚ました。
永遠亭の天井が視界に入る。息を整えながら起き上がると、格子のはまった小窓から、朝の光が差している。雨音だと思ったのは、兎が洗面を使う水音だった。
動悸が収まるのを待って、洗ってある入院着に袖を通す。兎の気配がなくなった頃合いを見て、洗面で顔を洗って歯を磨いた。
部屋に帰って、コップの水を切って歯ブラシを差しておく。竹に獣毛を植えたものではなく、光沢のある青色の柄に真っ白な毛が付いていた。毛先をしばらく眺めてから、白い壁に目をやった。
ここに来てから幾日か経つ。
金属棒を拾った経緯の聞き取りと、健康観察のため、しばらく入院を命じられていた。言われるままに服を脱いで体を診せ、血を採られ、他にやることもない。
初日は使い兎がお茶と食事を運んできたが、要らないと伝えると、次から食事は来なくなった。日に何度かお茶を注ぎに来るので、それも要らないと言った。飲まず食わずでも生きていけるのだし、薬師や兎の手を煩わせたくなかった。
八意永琳は、これは誰にも責任のない事故だと言っていた。強いていうなら、外の世界で線源の管理が杜撰だったのだと。
薬師はそう言っていても、誰も悪くないなどあり得ない。線源を拾ってきたのが悪いに決まっている。それが何なのかを知りもせずに、好奇心だけで魔理沙を死の淵に追いやることになった。
起きている間は思考が堂々巡りで、布団に入れば悪い夢を見た。霊夢に人殺しだと糾弾され、里の人々に後ろ指を差され、魔理沙は命を落とし、天狗の新聞に訃報が乗る夢である。
やたらと丈夫な人妖の体は、一向に壊れる様子がなく、心だけが日ごとに擦り減っていた。
*
使い兎が部屋を訪ねてきて、体温計で熱を測った。異常なし、と告げて部屋を出ていく。
半開きになった戸を眺めていて、ふと魔が差した。
──今なら行ける。
寝台に鞄と枕を乗せ、布団を重ねて、人が寝ているような形を作る。自分でも呆れる細工だったが、少しの間だけ目を欺ければ十分だ。
手を洗いに行くような素振りで廊下を歩いた。兎はそれぞれの持ち場に散っているし、薬師は魔理沙に付いていて、すぐには探しに来ないだろう。
外に出て、妖怪の山へ行く。
自分より強い妖怪がいくらでもいて、何の理由も弁明もなく、誰かが僕を殺してくれる。
自分が死んだからといって、魔理沙が助かるわけじゃないのに。脱走して山に入ることを思い立った途端、視界が明るくなって、進むべき道が見えた気がした。
銀色の髪は悪目立ちする。
どこかで鋏を手に入れて、切ってしまおう。
そう考えていると、曲がり角から少女が現れた。
腰までの白髪に沢山のリボンを結っている。竹林の案内人──藤原妹紅。
長く生きている者同士、多少は見知った顔だった。
「お、ちょうど良かった」
妹紅はこちらを見上げて足を止めた。
「客が来てる」
何の話かと問い返す前に、妹紅は「あそこだ」と裏口を指した。
視線の先に、見慣れた面影があった。
霧雨の親父。かつて修業していた道具屋の主であり、魔理沙の父親でもある男だ。
合わせる顔がないが、一歩後ろには妹紅が立っていて、逃げることもできなかった。霖之助は腰を折って自分の所業を詫びた。
「……親父さん、申し訳ありません。僕が変なものを拾ったばかりに……」
数秒の沈黙の後。霧雨店の主は、顔を上げなさいと言った。
「薬師とさっき話をしてきた。朝一番に天狗の新聞を読んでな」
親父の腰には、折った新聞が挿してあった。
「それでだ。俺もこれから三、四日入院することになった。さっきの話では、薬を打って寝てる間に、背中から液体を採って、それを魔理沙の体に入れるらしい。何をするのかは知らんが、血の繋がる者同士だと、助かる確率が上がるんだとさ」
「それは……良かった」
「まったく。あいつが俺をどう思ってるにせよ、血縁ってのは切れないもんだな」
親父は独り言のように呟くと、こちらの名前を呼んだ。
「霖之助」
「はい」
「薬師の話じゃ、観察入院もそろそろ終わるらしい。俺が退院するときに、一緒に店に戻ってもらう。しばらく店を閉めてるから、開けるときに人手が要るんだ」
いや、と霖之助が言いよどむと、親父は苦い顔をした。
「何を迷ってる」
「……いえ、大丈夫です。戻れます」
なら良い、と親父は答えた。
「働く心づもりをしておくように。俺は検査に行ってくる」
それだけ言うと、霧雨の親父は角を曲がって姿を消した。
許すとも許さないとも言わず、戻ったら働けというだけだった。逃げ道は用意されていなかったらしい。
藤原妹紅は、少し離れた柱に背を預けて立っていた。
「……竹林の入り口でうろついてたから、ここに連れてきた」
それ以上は語らず、懐を探って「煙草が無い」と言った。
「ここは禁煙だよ」
「判ってる」
妹紅はつまらなさそうに柱から離れた。
「ドンパチやれる空気じゃないしな。裏のごみだけ焼いて帰る」
「気をつけて」
不死の少女は、片手を振って応えると、屋敷の外に出ていった。
*
一人になった霖之助は、自分の病室に引き返した。
廊下で薬缶を運んでいる兎を見つけて、温かいお茶を一杯分けてもらう。湯呑を手に、寝台に腰掛けた。
道具屋で修業していた頃の一日の流れを、頭の中でなぞった。
道具の価値を見定め、客が持ち込んだ品に値をつけ、帳簿に書き記す。霧雨店では魔法の道具は扱っていないし、商人としてすべての品に値札をつける必要があったが──道具と客の間を繋ぐ姿勢は、親父の背中を見て学んできた。
自分のやったことは取り返しがつかない。
それでも、山に行って死のうとは、もう思わなかった。
修業していた頃、道具を運び入れる段になって、親父に冷やかされたのを思い出した。お前は半分妖怪なんだろう、人間の俺のほうが力があるじゃないか、と。
親父さんも歳だ。
永琳の処置を受け、体をあれこれ調べられてから戻ることになる。
戻ったら、力仕事でも何でも引き受けよう。そう考えながら、霖之助は湯呑の茶を飲み干した。




