奇跡を起こすという事
時刻は少し戻って、夕方のこと。
妖怪の山の中腹、守矢神社の裏手で、東風谷早苗は川に腰まで浸かっていた。日没から夜明けまで続けるつもりの祈祷。その前に、身を清めておく必要があったのだ。
麓では桜のつぼみが膨らみ始めた頃で、水浴びにはまだ早い。白装束の裾を濡らしながら、早苗は身震いをした。岸辺に立った八坂神奈子から柄杓を受け取り、頭から水を被る。色の抜けた唇で、祝詞を唱えながら岸に上がった。
守矢神社は技術革新を好む。天狗と河童の技術力もあり、宿舎には冷蔵庫や電子レンジ、給湯器も完備されていたが、禊は裏の清水で行う習わしだった。
以前、諏訪子に「お風呂でやればいいのに」と言われて、神様がそれでいいのかと拍子抜けしたのを思い出す。お湯に浸かりたいのは山々だったが、今回はそういうわけにいかない。
小屋に入り、濡れた白装束を脱いで体を拭いた。
新しい巫女服に袖を通して外に出る。
*
今回の祈祷は、霧雨魔理沙ひとりのためのものだった。
本来、風祝の巫女は共同体のために動く。山の神や豊穣の神を祀る守矢神社では、雨乞いや豊穣、祭礼の安全祈願などが主になっていた。
東風谷早苗。現人神にして風祝の巫女。
呼び名はいくつかあるが、いずれも「詠唱によって奇跡を起こす」という一点に収束する。
豊穣祈願や祭礼の祈祷では、手水鉢で手を清める程度で、詠唱は短く済ませていた。
豊作もあれば不作もあり、祭礼では喧嘩沙汰が起こることもある。そうした揺らぎを含めて幻想郷であり、完璧を求めすぎるのはかえって歪みを生む。神奈子などは「喧嘩ひとつ起きない祭りは気味が悪い」と言っていた。それに、社に籠って祈祷をするより、表に出て人と交わったほうが信仰も集まる。
要するに、誰かのために夜通し祈りを捧げるのは異例のことだった。
香霖堂の「祟り」の正体が工業用の放射線源だというのは、神奈子の話を聞いて知っていた。技術者ではないし、直接会ったわけでもないけれど、容態が危ないことは容易に想像できる。外来人の自分とは違って、香霖堂の店主と魔理沙は、レントゲン室の標識すら知らないのだ。
風祝の巫女として、友人として、ただ祈ることしかできなかった。
私情で動くのは職権乱用であり、神としての格を損なう行為だと思っていたから。神奈子に社を貸してほしいと願い出るとき、念入りに言い訳を用意した。
「妖怪を退治する魔法使いは、幻想郷の均衡を保つ大事な“駒”です。彼女を失えば里の混乱を招き……」
あくまで里のための仕事だと言い張る早苗に、神奈子は苦笑いした。
「博麗の巫女は庭石を殴って八つ当たりしたそうよ。それよりは、よほど巫女らしいじゃない」
「……ありがとうございます」
早苗が頭を下げると、神奈子が頭にぽんと手を置いて、しっかりやりなさいと言った。
*
社に向かう通路で、神奈子が盃に神酒を注いだ。口を湿らせる程度にそれを受け、早苗は玉砂利を踏みしめて社へ向かった。拝礼してから、ゆっくりと詠唱を始める。
──夜更けを過ぎた頃。
社では松明の灯が揺れて、早苗の意識は朧になり、今が何時なのかも考えなくなっていた。
眠りに落ちたわけではない。目を覚まして詠唱を続けながら、意識だけが薄闇に沈んでいく。
そこで、人の形をした「何か」が寝台に横たわっているのを見た。輪郭は不安定で、放っておけば手足の先から溶けて崩れていきそうだった。
それが誰の姿なのか、早苗には判った。
霧雨魔理沙。
もやのような人影の胸のあたりに、微かな温かみがあった。残り火のように、命が灯っている。
もしかしたら、溶けてしまったほうが楽なのかもしれない。人の形を保っているのは苦しいことで、自分はその時間を引き伸ばしているのでは、と思う。
自分のやっていることが善か悪か判らないまま、光を細い糸のように編んで、綻びたところに足していった。核となるところに温かみを注いで、呼吸ができるように、体が崩れないようにとイメージを添える。
東の空が白くなるまで、早苗は魔法使いの影に付き添っていた。
*
「早苗」
聞き慣れた声に、首を傾げた。
気がついた時には、松明は既に消えていた。社の扉が開いていて、早朝の光が差している。
自分が社に立っていて、神奈子に呼ばれているのだと気づく前に、肩を揺すられた。体はそこにあるのに、地に足がつかないような妙な感じがする。
「……早苗」
瞬きをして、ひび割れた唇を舐めた。声が擦れていて、とっさに返事ができなかったのだ。手を引かれて石段に腰を下ろすと、入り口で待っていた諏訪子に、温かい椀を渡された。
「ほら。飴湯」
二柱の神に見守られながら、早苗はゆっくりと飴湯を呑んだ。甘味が喉を流れて染みる。
「結構遠くまで行っていたようね」
「はい」
「これから朝ご飯にするから、貴方は戻って休みなさい」
その言葉に、早苗ははっと顔を上げた。
「私も食べたいです。……昨日の昼から、何も食べてないんですよ」
諏訪子は「若者は元気だねえ」と笑って、用意しようと答えた。
「飴湯を飲んだら余計お腹空きました」
早苗は諏訪子の後をついていく。空腹もあったが、一人で寝台に戻る気分でもなかったのだ。
*
朝の食卓で、神奈子は胡座をかいて新聞を広げていた。
射命丸文のものだ。一面には紅魔館からの血液提供の記事、裏面には放射線についての解説が載っている。解説記事の文責は八意永琳、とあった。
「もう記事になるなんて、早いですね」
麦飯を口に運びながら、早苗は新聞の見出しを眺めた。守矢神社は妖怪の山に建っており、天狗の新聞が一番に届く場所だった。血液の配達が済み次第、山に帰って号外を刷ったらしい。
悪魔の館と名高い紅魔館が、魔法使いを助けるために動いたというのは意外だった。
──皆が、それぞれにできることをやっている。
そう思う早苗の向かいで、神奈子が新聞から目を離さずに呟いた。
「配達サービスに『尻子玉』なんて名前を付けるのは、どうかと思うわ」
*
朝餉を終えた早苗は、社の奥へ下がっていった。
諏訪子は境内の見晴らし台に座って、山の麓を見下ろした。足の裏を地面につけ、膝を広げた、いつもの蛙座りである。
眼下には里の屋根が並び、煮炊きの煙がたなびいていた。薄曇りの空に日が差し、人里の辺りを照らしている。遠くには竹林や森が見えた。
「……新聞はいろんな人が読むからね」
誰にともなくそう呟く。
「これから、もっと色んなことが動くよ」
守矢神社の祀り神は、面白がるように肩を揺らした。




