23.無音の刃、堕つ
――旧水道局、地下最深層。
空気は血のように重く、息をするたびに鉄の味がした。
石壁の亀裂からは、まだわずかに赤い光が滲んでいる。
トラヴィスが仕掛けた地脈干渉は止まったが、術式の残滓が息づいていた。
「ここから先は、私ひとりで行く。」
リヴィアが言った。
その声音に、迷いはない――ようで、どこか脆さも混じっている。
「師との決着を、弟子がつけるのは筋だろう。」
俺はうなずいた。
「だが、過去に縛られるな。闇は、過去をも飲み込み前へ進むためにある。」
リヴィアは少しだけ視線を上げた。
「主……あなたの“闇”は、私が知っている闇と違う。」
「当然だ。俺の闇は、整えるために存在する。」
「……理解はできないが、嫌いではない。」
微かな笑みを残して、リヴィアは影の中へと消えた。
足音ひとつ残さず、まるで空気と同化するように。
広間。
崩れかけた石柱の間で、トラヴィスが待っていた。
外套を脱ぎ捨て、古びた黒い軍服のような衣装をまとっている。
胸の中央には“紅の紋章”。
そして、その瞳は――懐かしさと嘲りを等分に宿していた。
「来たか、私の“傑作”。」
「……師。」
リヴィアは一歩、踏み出す。
剣を抜く音はしない。抜いていないのではなく、“無音”なのだ。
「お前を拾ったあの日、泣きも笑いもしなかった顔を覚えている。」
「私は、生きるために斬っただけ。」
「だから教えた。斬るとは、生きることだと。――なのに、何だその服は。」
トラヴィスが唇を吊り上げた。
「“メイド”? “清掃”? お前がどこまで堕ちたか、滑稽ですらある。」
「違う。私は――まだ斬っている。」
リヴィアの声がわずかに震える。
「この手で、人の涙も、悲しみも、拾って……整えている。」
その瞬間、師の目が細くなった。
「拾う? 整える? それを“甘さ”と言うのだ。」
光が爆ぜる。
トラヴィスが大地に手をつくと、床の文様が赤く光った。
無数の石刃が生まれ、竜のように襲いかかる。
「選別の儀だ、リヴィア! お前の“闇”が薄いなら、ここで終われ!」
影が裂け、空気が鳴く。
リヴィアは一歩も動かず、ただ剣をわずかに傾けた。
刹那、石刃が霧のように崩れる。
「……なっ――」
トラヴィスが息を飲む。
リヴィアの剣筋は、かつて彼が教えたそれを超えていた。
流れるようで、音を奪い、形を残さない。
「あなたの教えは、今も私の中にある。
でも――“選別”は、もう終わった。」
踏み込み。
剣がわずかに光を帯び、空間ごと静止する。
次の瞬間、トラヴィスの外套が裂けた。
血は出ない。
刃は命を奪う代わりに、術式を断ち切っていた。
背後の地脈が静まり返る。
「……これが、ルシエルの“闇”か。」
師はかすかに笑った。
「お前を奪ったと思っていたが……救っていたのは、あの男だったか。」
リヴィアは沈黙したまま剣を下ろす。
トラヴィスは膝をつき、赤い光が徐々に消えていく。
「リヴィア……お前の闇は、救いだった。
……それを忘れるな。」
――そして、彼は静かに微笑んだ。
その笑みだけが、最後まで師としての誇りを宿していた。
そして、完全に途絶える。
地上に戻ると、風が冷たかった。
リヴィアの肩が微かに震えている。
「終わったか。」
「はい……終わりました。」
「悪とは云え泣いてもいい時もあるんだぞ。」
「……泣きません。」
それでも、彼女の頬には涙がひと筋、静かに落ちた。
「師は、“闇に光を混ぜるな”と言った。
でも……私は、混ざり合ったこの感情を否定したくない。」
「なら、それでいい。」
俺は剣を背に収めた。
「混ざり、歪み、迷う――それが人間だ。
悪が人を理解せずして、何を整えられる。」
俺は空を見上げた。
「――ゆえに、悪とは全てを包み込まなければならない。」
リヴィアはゆっくりと頭を下げる。
「……ありがとうございます、主。」
風が、月を横切る。
闇は深く、けれど、どこか温かかった。
「紅の鎖は断たれた。だが、影は残る。」
「……影?」
「紅は、血の色だけではない。光を濁す“虚”の色でもある。」
遠く、王都の空が再び赤く明滅した。
――終幕への幕が、静かに上がろうとしていた。




