12.悪の境界
坑道の口は、獣の喉のように暗かった。
湿った風が頬を撫で、岩肌のひびに灯りが吸い込まれていく。
「……中は魔力が濁ってるな。」
肩の上のネロが耳を伏せる。
「地脈がざわついている。悪趣味な鼓動だ。」
俺は一歩踏み入れた。靴底が砂を噛み、わずかな音が洞内に伸びる。
闇は静かであるべきだ。だからこそ、騒ぐ闇は悪趣味だ。整えねばならない。
「ルシエル、本当に行くのか?」
「当然だ。闇の名は、静寂と秩序のためにある。」
壁面には赤黒いペンキで“N”の紋章。
血に見せかけた薄っぺらい演出。俺は肩をすくめる。
「看板が安っぽい。悪の美学は、たとえば――」
言いかけたとき、足元の砂がふるえた。
曲がり角の先から、土色の腕が飛び出す。
反射で鞘に手が触れる――抜かない。必要がない。
踏み込み、影を滑らせ、掴みかかってきた腕の肘を軽く払う。
肘が逆に折れ、男は声を上げる間もなく転げた。
「ひっ……ノワール様の聖域に……!」
「聖域に“様”をつけるな。語呂が悪い。」
もう一人が背後から短剣を振り下ろしてくる。
鞘の頭で首筋を突く。息が止まり、男は崩れた。
「……今の、一撃で黙らせてるけど殺してないよな?」
「悪は無駄に喋らせない。それだけだ。」
ネロが小さく息を吐く。
俺は灯りを落とし、暗視の感覚に身を委ねた。
影が濃い。目に優しい闇だ。
坑道は枝分かれし、そのたびに“N”の印が増えていた。
耳の奥で低い唸りが続く。地の底で何かがひっくり返っている。
「この震動……地脈を押し広げてる。無茶苦茶だ。」
「地は寝かせて使うものだ。たたき起こせば、反動で牙を剥く。」
角の向こうに、三人。鉱夫上がりの体格、土の魔力が皮膚に噛みついている。
呼吸のリズム。足の置き方。全てが粗雑だ。
「侵入者――土に還れ!」
俺は立ち止まり、人差し指を口に当てた。
「静かに。闇には囁きで足りる。」
次の瞬間、三人の武器が床に跳ねた。
抜いた覚えはない。ただ、鞘の重みが一瞬軽くなり、すぐに戻った。
砂塵の線が、三つ。彼らは膝をつき、眠るように崩れた。
「なぁ、それさ……毎回見てもさ……“いつ抜いてるか”が、マジでわからん。」
「抜いていない。世界が一瞬、目を閉じただけだ。」
「それ絶対抜いてるやつの言い訳!」
ネロの小声が闇に溶ける。
俺は歩を進めた。奥へ、さらに奥へ。
広間に出る。
天井は高く、古い採掘の跡が蜂の巣のように穿たれている。
中央には、地面から突き出した巨岩――玉座。
硬質の外套を羽織った男が、そこに座していた。
肌は鉱石のように鈍く光り、目は乾いた土色。
声は低く、地を震わせる。
「噂の黒翼の円卓、か。」
「そして貴様がノワールだな。」
「名乗るまでもないがな。」
奴は唇だけで笑った。
「猫。久しいな。」
肩の上で、ネロが押し殺した唸りを漏らす。
「……覚えてやがったか。」
「珍品は記憶に残る。だが動く口は余計だ。」
男の指がわずかに動く。地面がざわめき、土蛇が鎖のようにのたうつ。
俺は足を半歩引いた。鞘が鳴る。
「……それ以上は、悪として聞き捨てならん。」
「悪?」ヴァルドは嗤う。
「悪とは奪うことだ。弱者を踏み砕き、沈黙させることだ。
地は嘘をつかん。踏み締めた方が勝つ。」
「勘違いだな。」
俺は視線を上げ、玉座の上の彼をまっすぐに見る。
「闇は、沈黙そのものだ。吠える闇は光に似る。
本物の悪は――語らず、汚さず、残さない。」
「残さない?」
「足跡をだ。悪党の礼儀だ。」
玉座の足元で、岩が音を立てて盛り上がる。
ヴァルドが立ち上がった。
「礼儀を語るなら、地の礼儀を学べ。叩き潰すのが挨拶だ!」
床が爆ぜ、石槍が雨のように降る。
影に足を掛け、滑る。
槍先が頬を掠め、冷たい砂が跳ねた。
反撃はしない。
まだ、彼の“言葉”を聞く段階だ。
第二撃。岩の腕が伸び、巨人の拳が振り下ろされる。
鞘で受け、体をひねる。衝撃が肘から背骨に走る。
重い。地そのものの質量が乗っている。
「ルシエル!」
「問題ない。」
拳が地を抉り、砕けた石片が弾丸のように飛ぶ。
左袖が裂け、血が一筋だけ滲む。
なるほど、受け続ければこちらが削れる。
“攻め”に転じるべきだ。
「ネロ。」
「わかってる。あいつ、地脈を吸ってる。ここを中心に――」
「なら中心を折る。」
踏み込む。
玉座へ一直線。
岩の壁がせり上がるたび、鞘の頭で線を描く。
触れたところから、壁が砂になって沈む。
ヴァルドが目を見開いた。
「その鞘……剣でなくても砕けるのか。」
「剣は飾りだ。闇は、境界への線を引く行為だ。」
間合いが詰まる。
ヴァルドの肘が上がる。
その動きに、ほんの僅かな“早さを求める焦り”が混じった。
――ここだ。
音が消える。
俺はただ、息を整えた。
次の瞬間には、彼の外套の肩口に薄い裂け目が走っている。
ヴァルドは半歩退いた。
遅れて、玉座の表面に細い線が刻まれ、それが亀裂へと変わった。
「……見えなかった、だと?」
「見せるために斬らない。礼儀の話をしたはずだ。」
彼の瞳に、怒りより先に“理解できないものを見る”色が宿る。
その隙に、俺はさらに一歩踏み込む。
「教えてやる、ヴァルド。
闇の美学は“静けさ”だ。
豪語も、血飛沫も、不要。
美しい悪役は、舞台が終わった後の床を汚さない。」
「黙れぇ!」
第三撃。地面がめくれ、斜面が生まれる。
俺は滑る。重心が揺れ、足元が空を切る。
岩の拳が側頭部を狙う――低くくぐり、鞘で肘をはじく。
鈍い音。瓦礫が弾け、砂塵が視界を埋める。
咳が出る。
肺に砂を入れないよう、浅く短く呼吸する。
土の匂いの奥に、焦げた魔力の匂い。
地脈に無理をさせている。長くはもたない。
「……なら、終わらせる。」
砂が落ちる瞬間を待つ。
視界が薄く、透明になる。
ヴァルドの胸郭がわずかに膨らみ、次の呼気へ移る“間”。
十分だ。
俺は一歩進み、鞘の位置を指幅ほどずらし――
――世界が、瞬きをした。
音はなかった。
ただ、風が遅れて吹いた。
玉座の背に斜めの線。ヴァルドの外套に、二本目の裂け目。
膝が沈み、片腕が地に触れる。
「……貴様、何を……いつ……!」
「ただ、抜いた。それだけだ。」
「ルシエル!」ネロが駆け寄る。
「押せる、今!」
俺は頷き、最後の間合いを詰め――斜めに一歩、影に沈む。
ヴァルドの瞳孔が開く。
空気が固まる。
剣はまだ鞘の中。
右手の指が柄に触れ――
――刃は、見えなかった。
次にあるのは、膝をつく音だけ。
ヴァルドの胸から、土の魔力が漏れ、地面へ吸い込まれていく。
「終わりだ。」
俺は鞘に手を添えたまま言う。
「地を眠らせろ。」
男は笑った。
鉱石が軋むような、低い笑い。
「……地は、終わらん。俺が終わっても……地は……暴れる……」
足元で、地脈が一瞬だけ強く脈打った。
広間の壁にひびが走り、砂がざらざらと落ちる。
「ルシエル、まずい! ここ、崩れる!」
「退く。」
俺は背を向けた。
ヴァルドは倒れ、まぶたの奥でまだ土色が揺れている。
ネロが肩に飛び乗る。
走る。天井が割れ、岩塊が落ち、坑道に砂の雨が降る。
出口の光が見える。
最後の角を曲がると、冷たい朝風が頬を打った。
外だ。夜が薄まり、東の空が灰色を帯び始めている。
「ふぅ……助かった……!」
ネロが大きく息を吐く。
「悪もまた、終わりがあることによって輝くのだ。」
俺は空を見上げる。
「舞台は片付けて去る。これが礼儀だ。」
「お前の礼儀、世界規模で手際よすぎなんだよ……」
足元で、まだわずかに地が鳴った。
だが、ここから先は地上の仕事だ。
俺はマントの砂を払って、王都の方向へ歩き出す。
――そのとき。
背後で、地が呻いた。
まるで巨大な獣が息を吸い込むように、坑道が音を飲み込み――。
低く、長い地鳴りが洞の奥から走り出した。
振り返る俺の頬に、朝の風とは違う熱が触れる。
嫌な気配だ。
地脈が、逆流する。
「ルシエル……今の、何か聞こえたよな。」
「……あぁ。」
俺は柄に触れた。
まだ終わっていない。
舞台の幕は、勝手に降りない。
洞の口の奥で、茶色い光がうねった。
地がめくれ、土砂が盛り上がる――まるで“波”のように。
「続きは――次だ。」
ネロが硬い声で呟く。
「嫌な予感しかしない。」
俺は頷き、王都の方角へ目を細めた。
朝焼けの手前、遠い屋根の群れ。
そこへ向かおうとした足を、もう一度だけ止める。
背中に、土の潮の気配。
振り返る準備は整っている。
闇は静かに、境界線を引くために在る。
――必要なら、波もまた線になる。
マントが風を孕み、鞘が微かに鳴った。
今回は少しボリュームあります。




