第5話 涙衣の順番
「げほっ」
自分が咳をする音で目が覚めた。
喉が痛い。
そして全身がだるい。
飾が風邪にかかって学校を休んだのが三日前。
それ以前から学校で風邪が流行っている。
どうやら俺の順番が来たらしい。
とりあえず熱を測ってみるか。
体温計は……リビングの棚だな。
「………………よし、行くか」
なかなかベッドから出られなかったので、自分に言い聞かせてムリヤリ体を起こす。
もしかしたら、結構悪いかもしれない。
ふらつきながら部屋のドアを開け、廊下に出る。
「きゃっ!」
その途端、歩いてきた飾とぶつかってしまった。
たいして勢いはなかったはずだけど、体が弱っているせいでふんばりが利かず、危うく倒れそうになった。
壁に手を着いてなんとか踏みとどまったものの、俺と壁の間に飾が挟まってしまった。
いわゆる壁ドンの体勢だ。
「ちょっと、なにするのよ、いきなり」
「壁ドンとか割とみんな好きだろ? 喜んでくれるかな、と思って」
「じゃあ、せめてぶつからずにやってくれる?」
「ごめんごめん、普通にやったら、たぶん避けられると思って」
「まったく。朝は忙しいんだから、そういう遊びをするなら帰ってからにして」
飾は俺の腕の下をくぐり抜けて脱出し、そのまま階段を下りて行った。
ふぅ、とりあえず、ふらつくほど体調が悪いことは隠せたみたいだな。
飾が洗濯をしている間に、リビングの棚から体温計を取り出し、検温する。
ピピッ――と電子音が鳴り、結果が表示される。
「げっ」
「なにが、げっ、なの?」
いつの間にか、飾がリビングに来ていた。
「いや、まぁたいしたことじゃないんだけど」
「たいしたことない時には言わないセリフだと思うけど」
それはたしかにそう。
「それは体温計? 今度はるぅが熱を出しちゃった?」
「あ、うん、そう」
「何度?」
「三十……七度七分」
「ちょっと高いね。今日は休んだら?」
「そうしておこうかな。……そうだ、今日は飾のベッドで寝かせてもらおうかな。きっと落ち着くだろうから」
「そういうのはダメ! 言語道断!」
「どの口が言う」
「えへへ」
そんなやり取りをしている間に、体温計の電源を切って数値を消す。
「とにかく部屋で休んでるよ」
「うん。学校に行く前におかゆとか作っておく?」
「ん~、別にいいかな。せっかくだから、今日はちょっと豪勢なランチを食べることにする」
「そんなこと言う元気があるなら大丈夫そうね」
部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。
立っているのもしんどい。なんなら、布団の上から中に移動するのさえやりたくない。
なるべく心配をかけないように、飾の前ではいつもの調子で振る舞ってみた。
だが、もう限界だ。
まさか三十九度を超えているとは……。
飾のベッドで寝る? ムリムリ。こんな状態で、そんな刺激の強い事したら死んじゃうって。
ひと眠りして、目を覚ますと午前九時を過ぎていた。
すでに飾も父さんも出かけている時間だ。
相変わらず体はだるいが、ひとまずトイレに行きたい。
こんな時くらい膀胱も仕事を休んでくれてもいいと思うのだが……律儀なやつだ。
用を足して、水を飲むためにキッチンへ行く。
すると、テーブルの上に書置きがあった。飾の字で、
【冷蔵庫にスポドリ入っています。アイスとかプリンとかもあるので、余裕があればどうぞ】
と、書いてあった。
たしか昨日の夜までは、その手の物は家になかったはずだ。
学校に行く前に、一度コンビニに行ってくれたのか?
ありがたい。
でも、アイスもプリンも今はムリだ。スポドリだけもらっておこう。
それから再び眠りについた。
高熱がある時特有の悪夢を見た。
なにか特別な意味がある夢ってわけじゃない。
冷蔵庫が冷えなくなり、それどころか温かくなるようになっていまった――というしょうもない夢だ。
だが、その日は、なぜか豪勢な食事の予定で、大トロやブランド牛が大量に詰め込まれていたという設定だったので、ひどいパニックになってしまった。
見ている間にも腐っていく刺身や肉に悲鳴を上げて、目が覚めた。
時計を見る――ちょうど昼間だ。
食欲はないが、朝からなにも食べていないので、少しはなにか食べないと。
立ち上がり、壁に手を着きながらキッチンまで歩く。
冷蔵庫を開ける。もちろんさっきと変わらない中身だ。
固形物は……とてもではないが、食べたくない。というか食べられない。
プリンかアイス……せっかく買ってきてもらってなんだが、今の状態だと甘すぎてムリかもしれない。
おかゆを作っておいてもらえばよかったかな。
だけど、それだとまるでかなり体調が悪いと自白しているみたいで気が引けたのだ。
いや、実際に悪いんだけど。
そこそこの悪さなら、そうしてもらうのに抵抗はない。だけど、今日は想像以上に具合が悪いので、心配かけたくなくて強がってしまった。
結局、もう一本スポドリを飲んだだけで終わりにして、再び眠りについた。
「ただいま~」
玄関から飾の声が聞こえてきた。
もう学校が終わったのか。
せっかく休めたというのに、一日中寝ているだけで終わってしまうとは。
療養のために休んだとはいえ、本当にそれしかできていないから、なんかもったいなく感じる。
「るぅ、体調はどう?」
飾が俺の部屋にやってきて、そう聞いてきた。
前も言ったことだが、ノックくらいはしてほしい。
「ああ、うん……だいぶ良くなったよ」
「本当に? なんか、朝よりつらそうな顔してるけど」
「そうかな?」
「熱は?」
「朝から測ってない」
測らなかった理由は単純。
さらに上がっていたら、と考えると怖かったから。
「体温計持ってくるね」
飾は一度自分の部屋に行き、制服から部屋着に着替え、それからリビングの体温計を持ってきた。
それを俺に渡した後も、飾は俺の部屋に留まっている。測り終わるまで待つつもりのようだ。
本当の体温がバレそうだな……まぁ、もう放課後だからいいか。
ピピッ――電子音が鳴る。
「何度だった?」
体温計を飾に渡す。
「…………三十九度六分⁉ すごい熱じゃないの」
「九度六分か、そりゃちょっとした記録だな。覚えてる限りだと、俺史上最高かも」
「なんでそんな落ち着いてるのよ。朝から二度も上がってるのよ?」
「二度?」
「……もしかして、朝の七度七分って嘘だった?」
バレてしまったか。
なら隠してもしかたないな。
「朝は何度だったの?」
「たしか……三十九度四分。だから、ほとんど上がってない。問題ないよ」
「あるわよ。なんで嘘をついたの?」
「……具合が悪いのに、そんな詰問されるみたいな言い方されると困るなぁ」
「別にキツくなんて言ってないけど。ズルい逃げ方ね。まぁ、たしかに今日するような話じゃないわね。朝からなにか食べた?」
「スポドリはありがたく飲ませてもらった」
「アイスさえ食べられなかったのね。そんなに具合が悪いのに、なんで変な嘘をつくのかしら。とにかく、ここから先は自由にはさせないわよ。治るまでしっかり看病してあげるから、覚悟しなさい」
どんな覚悟だよ、とツッコむ気力さえなく、それから飾の言いなりになる時間が始まった。




