第1話 飾が熱を出した日
うちで一番早く起きるのは飾だ。
朝一、学校に行く前に洗濯機を回すためだ。
一応言っておくが、家事を飾だけに押し付けているわけではない。飾が自分で率先してやっているのだ。
というより、俺や父さんに使用済みのパンツの洗濯をされるのがイヤだから、自分のを洗うついでに俺たちのもしてくれている――と言うべきだろう。
その日、俺が起きた時点で飾はすでに起きていたが、どこか様子がおかしかった。
洗濯機が回っている音が聞こえるうるさいリビングで、ソファーに寝転がり目を閉じている。
普段なら、この時間をムダにせず弁当の用意をしているはずなのだが。
「おはよう」
「……おはよう」
声に張りがない。
「体調悪い?」
「なんかね……」
飾は体を起こす。だが、いつもより背筋が伸びておらず丸まっている。
「熱は?」
「まだ測ってない」
引き出しに入っている体温計を取り出し、飾に渡す。
飾はそれを脇に挟んだ。数秒後、電子音が鳴ったので取り出し、表示されていた数値を読み上げた。
「……三十八度四分」
「今日は休みだな」
「うん、そうする」
「とりあえず部屋に戻って休んでろよ」
「お弁当は大丈夫?」
「俺と父さんの分くらいならなんとかなるから、そんなことに気を遣うな」
飾を部屋に返し、俺は朝食と弁当の用意に取り掛かる。
時間がある時は、夕食は父さんが担当する。だが、朝食は飾(とたまに俺)の担当だ。
今日は……まぁ適当に目玉焼きでも焼いておくか。弁当は卵焼きと、昨日の夜の残りを詰めて……普段ならありえない簡単な弁当だ。
飾が見たら「こんなお弁当を学校に持って行ったら我が家の恥」なんて言うだろう。
父さんとふたりで朝食を食べる――久しぶりだな、この光景。
飾が戻ってくるまでの一年間はこれが当たり前だったんだけど、今となってははるか昔のように思える。
会話がないわけではないけれど、どこか寂しい食卓だ。
食事が終わり、父さんが先に家を出る。
うちから学校までは歩いて行ける距離なため、俺が出かけるまではまだ時間がある。
その前に飾の部屋に行き、様子を見る。
コンコン――と部屋のドアをノックし、開けずに話しかける。
以前は気にせずに入っていたが、さすがに最近はそうもいかない。
「調子はどうだ?」
「一日中寝ていられるんだから最高の気分よ」
返事からはだいぶ余裕があるように聞こえる。
まぁ多少は強がりも入っているだろうけど。
「俺は学校に行くけど、ひとりで大丈夫か?」
「なにが?」
「すごく具合が悪いなら、俺も残って看病するけど」
「そんなのいらない。るぅはちゃんと学校に行きなさい。で、あたしが休んでる間のノートを取っておいて」
「俺のノートはキレイじゃないぞ?」
「今日くらいはがんばって。あたしのために」
そういうことを言われると、やる気を出さざるを得ない。
苦手なりに一生懸命やらなくては。
「食事は大丈夫か? なにか作っていくか?」
「なんか適当に自分で作るから平気。っていうか、そんなことしてると遅れるよ」
「おかゆくらいなら今からでも作れるし」
「風邪ひいてても、おかゆくらいなら自分で作れる」
「洗濯物干しておこうか?」
「少し眠って回復してからやるからいい」
「じゃあ――」
「いいから、早く行きなさい」
「わかった。でも、なにかあったら連絡するんだぞ。授業中でもいいからな。すぐに駆けつけるから」
「はいはい、わかりました。たかが風邪なんだから、そんなに心配しなくていいから」
飾はそう言うが、やはり心配だ。
俺も父さんもいない間になにかあったらどうしよう――気が気でない。
心配しすぎ、というのは自分でも理解している。だけど、本当にすごく心配なのだからしかたないではないか。
そして飾を置いてひとりで学校に行く――あれ、もしかして、ひとりで登校するのって入学以来初めて?
いつも隣にいるはずの飾がいないと、なんか落ち着かない。
そう言えば、中三になったばかりの頃も同じことを考えたっけ。
あの頃も、去年まではずっと一緒だった飾が急にいなくなって――知らない土地で暮らしている飾が、もっとツラそうだったから何も言えなかったが、俺は俺で心に穴が開いたような感覚を味わっていたっけ。
「おや、今日は同伴出勤なしか? 珍しいな?」
「ケンカでもしたの?」
教室に入ると、いつものバカップルがさっそく弄ってきた。
同伴出勤って――。
「風邪だよ、風邪」
「あ~、なんか最近流行ってるもんな」
「毎日誰かしら休んでるよね。最後にクラス全員揃ったのって結構前じゃない?」
言われて気が付いたが、最近欠席者がやけに多かった。
今回は飾の順番になったということだろう。
そのうち俺の順番も来るんだろうか?
「ねぇねぇ涙衣くん、やっぱり飾ちゃんがいないと寂しい?」
「まぁそうだね」
そう答えはしたが、三島さんのニヤニヤした笑みがどうも気になる。
また弄ってくるつもりではないか?
「じゃあ早く治るようにがんばらないとね」
「うん」
「ところで知ってる? 風邪ってうつすと治るって話」
その方向から来たか……。
「あ、それ有名だよな。うつすにはキスがいいっていうのも」
「そうそう。ってことで、今日帰ったらしちゃう?」
尊も加わり、お約束の話を始める。
「風邪は飛沫感染だからキスしてもしなくてもうつるよ」
「いや、そういう現実的な話はしてないんだよ」
「うつしたら治るっていうのも嘘だ。治りかけの時期に見舞いに行って感染すると、最初の人が治ったタイミングと、もらった人が発症するタイミングが重なっちゃう。あたかもうつしたら治ったかのように見える、ってだけの話なんだよ」
「だからそういうまじめな話はしてないんだって。イチャイチャする口実の話をしているんだって。風邪の時って心が弱ってるだろ? お前が帰る頃には、きっと飾ちゃんは不安で寂しい気持ちになってる。そこを優しく看病してあげて、良い感じになったらどうかって話をしてるんだよ」
「そういう弱ってる時に付け込むようなのは好きじゃない」
「好き嫌いじゃなくて、シチュエーションの問題なんだって。ほら、漫画でよくあるだろ? 風邪で寝込んで汗をかいていて、それを濡れたタオルで拭いてあげる、的な。ああいう普段はできないタイプのイチャイチャをするチャンスってことを言いたいんだ」
「……なるほど」
弱っている時に付け込んで、恩に着せようというのは好きじゃない。
でも、飾が汗だくになっていて、シャワーを浴びるのも大変な状態なら、手伝ってやるのは……付け込んでるわけじゃないよな?
だったら、やってもいいだろう。
いや、決していやらしい意味ではなく。あくまでも飾が困っていたら、助けてあげようと言うだけだ。
もちろん、俺の助けが必要でないくらい元気ならそれが一番だ。
というか、そういうサポートが必要なくらい苦しんでいてほしくはない。
その日一日、なかなか授業に集中できなかった。
飾は大丈夫だろうか? 三十八度四分ならそこまでひどい熱ではないが、ここからさらに上がって三十九度を超えていたりしないだろうか?
市販薬では間に合わず、医者に行こうとしているかも。でも、一番近い内科医院まででも、歩くと十分以上かかる。三十九度の熱を出していれば、そこまでひとりで行くことはできないだろう。
飾のスマホにメッセージを入れてみる。
だが、なかなか返事がこない。
授業が始まる前に送ったのに、終わってから確認しても返事が来ていない。
まさかスマホを見れないくらい悪化している? 意識が混濁として朦朧と……なんてことないだろうか?
次の休み時間に電話をしてみた。
繋がらなかったら、早退して全速力で家に帰ろう。
「もしもし?」
幸いにも、すぐに出てくれた。
「どうしたの?」
「たいしたことじゃないけど……メッセージへの返事がなかったから、どうしたのかな、って」
「メッセージ? あ、本当だ。結構来てる。寝てたから気付かなかったみたいだね」
電話越しの飾の様子は、いつもの感じに近い。
少し鼻声ではあるが、意識が朦朧としている人の受け答えではない。
「熱は?」
「今測ってみるよ…………三十七度五分」
「よかった。回復してるみたいだな」
「大げさなのよ。たかが三十八度ちょっと熱で」
「だって、熱出した時に家にひとりでいることなんてなかったろ?」
「あ~……そう言えばそうか。前はお母さんがいたもんね」
母さんはパートの仕事はしていたが、基本的には家にいた。
だから、風邪で休んだ時などは常に一緒にいてくれたのだ。
「まぁ心配してくれたのはうれしいけど、本当にたいしたことないから、授業に集中しなさいよ。っていうか、たかが風邪でそんなに心配しているのを知られたら、あのバカップルがまたウザいことになるわよ?」
「教室から離れたところに来てるからそれは問題ないと思うけど……」
「どうかしら? 十分しかない休み時間に、わざわざ教室から遠いところまで行っていたら怪しまれると思うけど」
「かもなぁ……どうしたってあいつらは勘繰るから」
「それだけるぅの行動がわかりやすいってことだけどね。おっと、そろそろ休み時間終わる頃だね。この通りだいぶよくなってるから、あたしのことは気にせず勉強すること。いいわね?」
「わかった。でも、少し良くなったからって油断せず、ちゃんと寝てるんだぞ」
「はいはい」
電話を切り、教室に戻った。
その後の授業はいつもに近い感じで受けることができた。
今日は部活がある日だったのだが、参加せずに家に帰った。
途中でスーパーに寄り、飾の好きなアイスを買う。
「ただいま」
玄関を開けると、二階からものすごい音が聞こえてきた。
ドドドドーッ――と本棚が雪崩を起こしたような重量感のある音だ。
二階にあるのは、俺と飾の部屋だ。
なにがあった?
飾が熱のせいでふらついて倒れ、本棚にぶつかって下敷きになった――なんてことはないだろうな?
「大丈夫か? なにがあった?」
階段を階段を上りながら声をかける。
「平気平気、ちょっと本棚にぶつかっただけだから」
深刻そうではない声が返って来た。
ならいいのだが……飾の声が、飾の部屋からではなく、俺の部屋から聞こえてきたのが少し気になる。
部屋に入ると、飾が床に座り、散らばった漫画を集めているところだった。
「退屈だから漫画を借りようと思って。でも、急に帰って来たから驚いてこう……」
「いや、別にいいけど。なにをそんなに驚いたんだ?」
「だって、今日は部活の日でしょ? まさかこんな時間に帰って来るとは思わず」
「心配だから早めに帰って来たんだよ」
「そっか、なるほど……それなら言ってくれたらいいのに」
「事前に言ったら、『こっちはいいから部活に行け』って言うだろ? だから言わなかったんだよ」
「そういうことか……そこまでは考えていなかったなぁ」
「だけど、部活休んで帰って来たのが、本棚ひっくり返すほど驚くことなのか? それ以外にもいろいろ散らばってて……なんかベッドまですごいぐちゃぐちゃになってるな。どういう転び方をしたらこんなことになるんだ?」
「だからごめんって。大丈夫だよ、るぅがエッチな本を隠していないか探ってたとかじゃないから」
ああ、なるほど……抜き打ち検査をしていたタイミングで俺が帰って来たから、慌ててこんなことになったのか。
この散らかり方からすると……本当にヤバい場所は探していないっぽいな。よし。
「……そんな本は持っていないから安心していい」
「いや、今の間はなに? 見つかったかどうかを確認した間じゃないの?」
鋭いなぁ。
「言いなさい、るぅ。どこに隠してるの? そこまで過激じゃなかったら没収はしないから」
「過激じゃなかったら隠さないんだよ。いや、そんなことはともかく、勝手に入って調べるのはどうかと思うぞ。警察が容疑者の家を調べる時だって、裁判所から家宅捜索の許可をもらうんだから」
「……そうね。あたしが悪かったわ。今回はエッチな本の捜索はやめておくわ」
「今回だけじゃなくずっとしないでくれ」
「それはどうかしら?」
「そういう開き直りの態度を取ってると、アイスはやらないぞ」
「え、アイス?」
「今買ってきたんだよ」
袋から出して見せびらかす。
帰り道、そして家に帰って来てからも放置していたので、少し溶け始めているかもしれない。
「抹茶モナカだ! 食べる食べる!」
「じゃあ、ごめんなさいは?」
「ごめんなさい」
食べ物が絡んだ途端、急に素直になったな。
「謝ったから、許してやろう」
抹茶モナカを渡す。
飾はその場ですぐに袋を開け……一瞬動きを止める。
「ねぇ、るぅ。お詫びに、あ~ん、をさせてあげようか? モナカってしやすいでしょ?」
「いいのか? させてくれるならぜひともお願いしたいけど、海に行ったデートの時以来全然させてくれなかったのに、どうして急に?」
「お詫びの形として……あと、これ以上この件を詮索しないでほしいなぁって」
「詮索されていたのは俺の部屋じゃないのか? もしかして、エロ本を探していたっていうのは嘘か?」
「あ、詮索! そういうことするならさせてあげない」
「あからさまだな……」
絶対に何か隠してる。
とはいえ、聞き出そうとしても、簡単には口を割らないだろう。
いざとなれば、「急に熱が出てきたかも」とか言って逃げ出しかねない。
なら、確実にもらえるものを受け取った方がお得か。
「わかった。その取引に乗ろう」
「よしっ!」
そのガッツポーズがいかにも怪しい。
しかし、ディールに応じてしまったため、ツッコめない。
モナカを受け取り、一口サイズにちぎって飾の口に運ぶ。
咥えさせたら終わりではなく、そのまま手を口に入れて、舌の上までアイスを直接運んだ。
飾はイヤそうな顔をしたが、それでも文句を言ってこなかった。
いつもなら「調子に乗るな」と言ってくるはずなのだが……。
よほど詮索されたくないことをしていたのだろう。




