おっさんと自然とその向こう
ホーンラビットをアイテムストレージに収納し終えると、堰を切ったようにどっと疲れが押し寄せてきた。
全身の筋肉が鉛のように重く、思考も鈍麻していくのを感じる。
さっきまでの、いつ死んでもおかしくないという極度の緊張感が嘘のようだ。
張り詰めていた糸がぷつりと切れ、体の芯から力が抜け落ちていく。
時刻は午後もだいぶ傾き、西日が森の木々の隙間から長く影を落としている頃か。
ぐうぅ……。
不意に、腹の虫が存在を主張した。
「……移動しないとな」
掠れた声で呟く。
ホーンラビットという獲物は手に入れたが、この未知の世界で自分がこの先どうなるのか、皆見当もつかない。
頼みの綱であるスマホの機能、特にあの『知恵の書庫』という名の図鑑機能も、まだ謎が多い。
いま最も渇望しているのは、夜露をしのげる安全な場所と、少しでも確かな情報だった。
俺は重い足を引きずるように、再び森の中へと分け入る。
むせ返るような土と腐葉土の匂い。
気を張り詰め、周囲への警戒は怠らない。あの、やけに手際の良い罠は、一体誰が仕掛けたのだろうか。
「……人間、だよな? ああ、頼むからそうであってくれ……」
祈るような独り言が、吐息と共に漏れる。
誰かと話したい。意味のある言葉を交わしたい。
この隔絶された孤独は、想像していた以上に精神を蝕んでくる。
不規則に盛り上がる木の根。
茂みが風を受けて不気味にざわめく音。
森の奥から不意に響く、聞いたこともない獣の咆哮。
その一つ一つに、まるで条件反射のように体が強張り、心臓がドクンと跳ねる。
そんな自分の臆病さが情けない。32にもなって、まるで子供だ……。
いや、しかし、と頭を振る。
相手がファンタジー世界の生物(まだ仮定だが)ならば、現代日本の常識で培われた危機管理能力など無力に等しいのかもしれない。
ここはそういう場所なのだ、と無理やり自分に言い聞かせるしかなかった。
しばらく歩くと、踏み固められたような、獣道とおぼしき細い道を見つけた。
確証はないが、なんとなく森の出口、あるいは開けた場所へと続いている気がする。
今はもう、この直感を頼るしかない。
俺はゆっくりとその道を進むことにした。
道は緩やかな上り坂になっていた。
……だが、これが現代社会の運動不足を舐めきっていたオッサンには、想像を絶するほどキツい!
「はぁっ……! はぁっ……!」
わずか5分もしないうちに、肺が焼けつくように熱くなり、心臓が肋骨を叩く音が聞こえるほど息があがった。
普段からの不摂生が、情け容赦なく牙を剥いて襲いかかってくる。
「きっつ……。俺の体力、ゴミすぎだろ……」
ぜえぜえと肩で息をしながら、ようやく坂を上りきると、不意に視界が開けた。
木々が途切れ、眩しいほどの陽光が降り注いでいる。どうやら森は抜けたようだ。
そこは日当たりの良い、崖の上のような、少し開けた平坦な場所だった。
足元には、見たこともない色とりどりの花が絨毯のように咲き乱れ、むせ返るような甘い香りが風に乗って鼻腔をくすぐる。
「お、綺麗だな……」
思わず、疲れも忘れて感嘆の声が漏れた。まるで絵画のような光景だった。
しかし、その感動も束の間、道はここで完全に途切れていたことに気づく。
目の前は切り立った崖になっており、遥か下に広大な草原が見えるが、とても下りられそうにない。
「……マジかよ、行き止まりか……」
「うん、まあ、知ってた。人生そんなに甘くないよな、特に異世界では」
希望から絶望への急転直下に、ガックリと肩を落とし、その場にへたり込む。
蓄積した肉体的な疲労と、精神的な落胆が、再び重くのしかかってきた。しばらく動けそうになかった。
「……休憩、だな。うん」
自分に言い聞かせ、腰に括り付けていた即席の水筒を取り出す。
これは森で手頃な、硬いが節の間が空洞になっている、竹によく似た植物を見つけて加工したものだ。サバイバル知識がこんなところで役立つとは。
中の水はすっかりぬるくなっているが、今は文句を言える状況ではない。
乾いた喉に流し込むと、わずかに生気が戻る気がした。
ぼんやりと花畑を眺めていると、ふと、色鮮やかな花々の間で小さな影が動いたのに気づいた。
目を凝らすと、それは虹色の光沢を放つ美しい羽を持つ、ハチドリによく似た小鳥だった。
目まぐるしく花から花へと飛び移り、細いくちばしで蜜を吸っているらしい。
「……可愛いな」
純粋にそう思う。この殺伐とした世界にも、こんな可憐な生き物がいるのか。
「そうだ、こいつも記録しておこう。『知恵の書庫』の精度も試せるしな」
俺はスマホを取り出し、カメラを起動、写真モードでその素早い小鳥を慎重にフレームに収めた。
カシャッ。
軽い電子音。画面にはすぐに『アザリア・ニジイロハミング』と、その名前だけが表示された。詳細は不明、ということか。
「ん……? 『アザリア』……?」
表示された名前に、見慣れない接頭辞が付いていることに気づく。
「アザリアってなんだ? 地名か何かかな? そういえば、あのウサギも『アザリア・ホーンラビット』だったっけ……。ってことは、この辺りの地域名なのかもしれないな」
だとしたら、俺が今いるのは「アザリア地方」とでもいう場所なのかもしれない。少しだけ、自分の現在地の手がかりが得られた気がした。
「……で、これ、後でどうやって見返すんだっけ?」
今さらながら基本的な疑問にぶつかる。スマホを操作し、『エテルネット』と名付けられた謎のシステムフォルダを開く。
並んでいるアプリアイコンを眺める。
『共鳴録画』『星座航海』『知恵の書庫』『魔導制御』『アイテムストレージ』『エテルナビ』……。
ああ、そうか、記録した生物の情報は、やはり『知恵の書庫』だろう。
一際古風な、分厚い本を模したアイコンのアプリがある。『知恵の書庫』……。
確か、これが図鑑や各種情報を閲覧する機能だったはずだ。以前確認した記憶を辿る。
俺は『知恵の書庫』のアイコンをタップする。すると、シンプルなフォルダ構造の画面が開いた。
画面には、いくつかのフォルダが整然と並んでいた。
そこには以下のフォルダがリストアップされている:
・生物図鑑
・植物図鑑
・記録映像
・撮影写真
「おお……! ちゃんと種類別に自動で整理されるのか! これは思ったより高機能だ!」
感心しながら各フォルダを開いてみる。
『生物図鑑』には、先ほどの『アザリア・ニジイロハミング』と、収納した『アザリア・ホーンラビット』が。
『植物図鑑』には道中で見つけた『青光キノコ』が。
撮影した写真や動画も、ちゃんと分類されて保存されていた。
「なるほどな。これで後からいつでも情報を確認できるわけか。これは心強い」
情報が整理され、蓄積されていく感覚に、少しだけ安堵を覚える。
改めて『エテルネット』のアプリ一覧に目をやる。
現在利用可能なアプリの下には、依然としてグレーアウトしていて使えないアイコンが二つあった。
それは『言霊共鳴』と『エテルウィーバー』という、いかにも曰くありげな名前だった。
「使えないアプリ……か。一体どういう機能なんだろうな」
試しにタップしてみるが、やはり起動しない。代わりに、簡素な説明文が表示された。
一つ目の『言霊共鳴』の説明はこうだ。
『言霊共鳴:対象存在との意識・言語障壁を解消し、直接的な意思疎通を可能にする(以下略)※現時点では利用不可』
……まるで高性能な自動翻訳機、いや、それ以上か? 直接的な意思疎通ってテレパシー的な何かとか?
これが使えれば、言葉の通じない相手とも話せるようになるのだろうか。
期待は高まるが、今は使えない。
もう一つの『エテルウィーバー』の説明は、さらに輪をかけて難解だった。
『エテルウィーバー:多元宇宙における時空連続体の(中略)存在座標変位、及び時間枝の分岐・剪定への介入を試みる(中略)※現時点では利用不可。警告:不用意な起動は存在の消滅、または予測不能なパラドックスを引き起こす可能性が(以下略)』
……さっぱり意味が分からない。多元宇宙? 時空連続体? 座標変位?
まるでSFの専門用語の羅列だ。
ただ、『警告』以下の文言から、とてつもなくヤバそうな代物であることだけはビンビン伝わってくる。
……うん、これは下手に触らない方がよさそうだ。見なかったことにしよう。
まあ、どのみち使えないなら、今は気にしても仕方がない。
俺はスマホをポケットにしまい、よっこらせ、と気合を入れて立ち上がった。
行き止まりではあったが、少し休憩はできた。別の道を探さなければ。
日が暮れる前に、安全な場所を見つけたい。
気分転換も兼ねて、崖の上から眼下に広がる広大な草原を、改めてなんとなく眺めてみる。
地平線まで続きそうな緑の絨毯だ。
その時だった。
「……ん? なんだ、あれ……?」