【悲報】異世界でのサバイバルが過酷すぎた件
差し込む朝日で瞼が熱い。
重い体を起こすと、昨日作ったばかりの即席シェルターの隙間から、赤く染まった湖面が見えた。
意外にも昨夜はぐっすり眠れたらしい。まぁ、あれだけ歩き回って、巨大ゲジゲジやら浮遊島やら、非現実的な出来事に遭遇し続ければ、疲労で気絶するように眠るのも無理はないか。
「……朝、か」
気だるい体を無理やり起こし、湖へ向かう。掬った水は氷のように冷たく、顔を洗うと一気に目が覚めた。頬を伝う水滴を感じながら、改めて周囲を見渡す。
「……夢じゃ、なかったんだな」
どこまでも広がる未知の森、空に浮かぶ島々、そして微かに記憶に残る二つの月。全てが、俺の置かれた紛れもない現実だった。ぐぅ、と腹の虫が鳴き、強烈な空腹感を思い出す。
「さて……今日は、マジで何か食料を見つけないと」
パーカーのポケットからスマホを取り出す。
バッテリー残量は……75%。昨日の録画で少し減ったか。充電手段がない以上、無駄遣いはできない。それでも俺は、無意識のうちに「共鳴録画」アプリを起動していた。
画面に映るのは、寝癖がついたボサボサ頭に、無精髭がうっすら生えた、疲れ切った32歳のおっさんの顔。
「……おはようございます、いや、おはよう。俺です。青山拓人、32歳。異世界生活、早くも2日目の朝を迎えました」
カメラを外に向け、朝日に照らされた湖畔を映しながら、独り言のように続ける。誰かに聞かせるわけでもないのに、つい、いつもの配信の癖が出てしまう。
「今日の目標は、まず食料確保。それから、できれば人里の痕跡を探したい。人が……いるといいんだけどな。……お、このアングル、ちょっといい感じじゃないか?」
ファインダー越しに世界を切り取る。その行為が、ふと、遠い記憶の蓋を開けた。
自分のI TUBEチャンネル、「デザインと日常のマイクロワールド」を始めたばかりの頃のことだ。
「そういえば……昔は、よく撮ってたんだよな。こういうの」
休日に訪れた景勝地の風景、狭いアパートのキッチンで作った見栄えのしない男飯、近所の公園の移り変わる季節。撮ること自体が楽しくて、拙い編集でも、視聴者からの「いいね」やコメント一つ一つが嬉しくて、必死に返信していた、あの頃。
「……いつからだろうな。楽しくなくなっちゃったのは」
フリーランスの仕事に忙殺され、締切に追われる日々。疲れて帰ってきて、そこから動画編集なんて気力が湧くはずもなく、更新は滞り、視聴者の反応も鈍くなっていった。デザインも、配信も、何もかもが中途半端。そんな自分が嫌になって……。
「……でも、なんか、久しぶりに……楽しい、かも」
カメラを構え、異世界の風景をフレームに収める。誰かに評価されるためじゃない。ただ、自分の目にしたものを記録する。それだけのことが、乾いた心にじんわりと温かいものを広げていくような気がした。
「よし。感傷に浸ってる場合じゃないな。今日も、生き延びるために、頑張りますか」
撮影を止め、スマホをポケットにしまう。まずは湖の周りを探索し、人の手が加わったような痕跡を探すが、見つかるのは奇妙な形の植物と、時折見かける小さな生き物の足跡だけ。文明の気配は皆無だ。
「……この世界、マジで俺一人だったりして」
そんな最悪のシナリオが頭をよぎる。何日? 何ヶ月? それとも、死ぬまで? この広大な世界で、たった一人で生き続けなければならないのだろうか。想像しただけで、背筋が凍るような孤独感が襲ってくる。
「……いや、弱気になるな。まだ2日目だ。諦めるのは早い」
自分を叱咤し、意識を目の前の課題に向ける。強まる空腹感。湖の魚を捕まえようと試みるも、素早い動きに翻弄され、素手では一匹も捕まえられない。浅瀬をバシャバシャと追い回す自分の姿が、なんだかひどく滑稽に思えた。
「ダメだ、埒が明かない。森に入ってみるか」
湖を離れ、木々が生い茂る森の中へ足を踏み入れる。食べられそうな果実や木の実でもあれば御の字だが……。
歩きながらも、気になった風景や植物をスマホで撮影する癖は抜けない。バッテリー残量が気になるが、記録したいという欲求が勝ってしまう。
その時、低い茂みの向こうで、何かがカサリと動いた。
「ん?」
息を殺し、足音を忍ばせて、そっと近づく。
茂みの切れ間から覗き込むと、そこにいたのは……。
ウサギ?
いや、ウサギによく似ているが、頭に小さな可愛らしい角が一対ちょこんと生えている。淡い灰色のふわふわした毛並み。長い耳をピクピクさせながら、夢中で草を食んでいる姿は、なんとも愛らしい。
「か……可愛い……」
思わず心の声が漏れそうになるのを、必死でこらえる。こんな小動物がいるのか。そうだ、記録、記録。
スマホを取り出し、「共鳴録画」アプリを起動。動画じゃなくて、今回は写真モードに切り替える。音を立てずに近づき、角付きウサギにそっとフォーカスを合わせる。頼む、逃げないでくれよ……!
指先で、画面上のシャッターボタンを、そっとタップした。
カシャ、という擬似シャッター音はオフにしてある。
その瞬間、信じられないことが起こった。撮影された角ウサギの写真の下に、まるで図鑑のように文字が浮かび上がったのだ。
『アザリア・ホーンラビット』
「は!? な、なんだこれ!?」
驚きのあまり、つい声が出てしまい、慌てて自分の口を両手で塞ぐ。スマホの画面を凝視する。間違いない。写真の生物の名前が表示されている。
『初めての生物撮影を完了しました。「生物図鑑」機能が追加されました』
『より多くの生物を撮影することで、機能が拡張されます』
続けざまに、システムメッセージのようなものが表示される。
「生物図鑑……機能が追加……。それで、もっと撮れば機能が拡張される、と」
なるほど。何が何だか分からないが、悪いことではなさそうだ。好奇心に突き動かされ、今度は足元に生えていた、青白く光る奇妙なキノコを撮影してみる。
『初めての植物撮影を完了しました。「植物図鑑」機能が追加されました』
「お、こっちも追加された」
すると、さらに続けて新しいメッセージが表示された。
『「植物図鑑」の機能が一部解放されました』
「一部解放? どういうことだ?」
首を傾げながら画面を見ると、たしかにホーム画面のアプリ一覧にある『植物図鑑』のアイコンの横に、小さく赤い『NEW』マークがついている。
そして、さっき撮影したキノコの画像の下には、名前だけでなく詳細な情報が表示されていた。情報欄の『毒性』や『食用』といった項目にも、同じく赤い『NEW』マークがついている。
『青光キノコ - 毒性:あり(NEW!) / 食用:不可(NEW!) / 平均サイズ:直径3cm』
「うおっ! 詳細情報が出てる! しかも毒性とか食用かどうかも分かるのか!」
これは……とんでもなく便利な機能じゃないか! さっきのメッセージは、この詳細情報表示機能が解放されたってことか!
「これがあれば、安全に食料を探せる! やった!」
思わぬ収穫に、思わずガッツポーズが出た。
そうだ、さっきの角ウサギは? 植物はすぐに詳細が出たけど、生物の方はどうなんだ? もう一度、あの可愛いホーンラビットを撮影してみよう。幸い、まだ同じ場所で呑気に草を食んでいる。
再びカメラを向け、シャッターを切る。しかし、表示されたのはさっきと同じ名前だけ。詳細情報は表示されないし、『生物図鑑』アプリのアイコンにも赤い『NEW』マークはついていない。
『アザリア・ホーンラビット』
「あれ? やっぱり名前だけだ……。生物図鑑の方は、まだ機能が解放されてないってことか」
さっきのメッセージを思い出す。
『より多くの生物を撮影することで、機能が拡張されます』……。
なるほど、生物図鑑の詳細情報解放には、もっとたくさんの種類の生物を撮影する必要があるのかもしれない。植物とは条件が違うんだな。
「まぁ、仕方ないか。でも……」
少し残念に思いつつも、ズーム機能を使い、ホーンラビットの姿をアップで撮影する。小さな角の質感、ふわふわの毛並み、つぶらな瞳。我ながら、なかなか良い写真が撮れた。
「それにしても……めちゃくちゃ可愛いな、こいつ……」
写真に見惚れていると、ホーンラビットが不意に顔を上げ、くりっとした瞳でこちらを見つめてきた。長い耳をぴこぴこ動かし、小首をかしげる仕草。その破壊的な可愛らしさに、俺の心は完全に撃ち抜かれた。
「うわっ、ちょっ、反則だろそれは!」
警戒心も忘れ、思わず頬が緩む。すると、ホーンラビットはトコトコと短い足で歩き出し、なんと俺の方へ近づいてくるではないか。
「え? なになに? 懐いてくれた……とか?」
そんな甘い期待を抱いたのも束の間。数メートル手前で、ホーンラビットの雰囲気が一変した。低い姿勢になり、全身の毛が逆立つ。そして――。
「え?」
次の瞬間、ホーンラビットは地面を蹴り、弾丸のようなスピードで突進してきた! 頭の角を槍のように突き出し、一直線に俺の腹部めがけて飛んでくる! あの角が刺されば、間違いなく内臓まで抉られる!
「うわあああああああっ!!」
咄嗟に地面を転がるようにして回避! ホーンラビットは俺がいた場所を猛スピードで駆け抜け、土煙を上げた。
「やっば! 死ぬかと思った! なんだよ今の! 可愛いは罠か!?」
心臓が口から飛び出しそうだ。体感寿命が5年は縮んだ気がする。ホーンラビットはすぐに体勢を立て直し、再びこちらに狙いを定めてくる。
「おいおいマジかよ! どう見てもウサギだろ!? なんでそんな殺意マシマシなんだよ!」
再び突っ込んでくる白い凶器を、必死で転がりかわす。三度、四度。ホーンラビットは諦める様子もなく、執拗に突進を繰り返してくる。
「はぁ……っ、はぁ……! もう……無理……!」
避け続けるうちに、息が切れ、足がもつれ始める。運動不足の32歳の膝は、もはや笑うどころか爆笑しているレベルだ。
体力の限界を感じ、覚悟を決めた、その時だった。
ギャイン!
甲高い悲鳴と共に、ホーンラビットの動きがピタリと止まった。見ると、その足が、地面に巧妙に仕掛けられた細い木の枝の罠に絡め取られている! しなやかな枝が弓なりに曲げられ、踏んだ瞬間に跳ね上がり、結び付けられた蔓で足を縛り上げる仕掛けのようだ。
「はぁ……っ、はぁ……! た、助かった……のか……?」
俺はその場にへたり込み、荒い息を繰り返した。心臓はまだバクバクと鳴り続け、全身から力が抜けていく。あのまま追われていたら、確実にやられていただろう。地面に大の字になって、しばし天井……いや、空を見上げる。
「マジで……死ぬかと思った……。もうヤダ、この世界……」
数分間、ただただ安堵感に身を委ねていた。だが、少しずつ冷静さを取り戻し、ゆっくりと体を起こすと、ある疑問が頭をもたげた。
「……ん? でも、この罠……」
俺は罠にかかってもがくホーンラビットと、巧妙に作られた罠の仕掛けを交互に見つめた。
これは、自然にできたものじゃない。明らかに、誰かが意図的に設置したものだ。その事実に気づいた瞬間、さっきまでの安堵は急速に冷え、代わりにじわりとした恐怖が背筋を這い上がってきた。
誰かが……いるのか? この森に、俺以外に……? 落ち着け……落ち着け俺……!
必死に自分に言い聞かせる。一番いいのは、もちろん人間との遭遇だ。
「……人間なら、まだ……なんとかなる、かもしれない」
言葉が通じなくても、身振り手振りでコミュニケーションをとれる可能性はある。助けを求められるかもしれない。少なくとも、わけもわからず襲ってくる獣よりはマシなはずだ。
だが――もし、人間じゃなかったら?
この巧妙な罠を作れるほどの知性を持った、何かだったとしたら?
ゴクリ、と乾いた喉が鳴る。想像力が、最悪のシナリオを描き始めた。
もし……もしこの罠を作った奴が、人間みたいな姿をしていない、全く未知の知的生命体だったら? それだけでも十分に恐ろしい。
だが、もっとヤバい可能性だってある。ここはいわゆる異世界だ…
「ゴブリンとか、オークとか……そういう奴らの可能性も捨てきれない…よな?」
小説やゲームで散々見た、人間を襲う知性を持ったモンスター。
もし、そんな連中がこの森にいたとしたら?
もし、俺のような侵入者を「獲物」としてしか見ていないとしたら?
ゾッとする。今の俺には、身を守るためのナイフもなければ、生き抜く為の体力だってない。運動神経なんて論外だ。
そんな丸裸同然の状態で、悪意を持った知性体に出くわしたら……? 結果なんて考えるまでもない。
「……だめだ! 悪い方に考えすぎるのは俺の悪いクセだ! ポジティブ! ポジティブだー」
マイナスに引き込まれる思考を必死に打ち消そうとする。
だが、負の方向に傾いた想像は、そう簡単には消えてくれない。
まるで悪夢のように、どんどん悪い方へ、悪い方へと転がっていく。
ぐるぐると、まるで思考の蟻地獄に嵌ったみたいに。
風が吹き、木々の葉がサワサワと不気味な音を立てる。茂みの奥の暗がりが、まるで何者かの視線のように感じられる。
「……いつまでもここにいるのは、まずいかもな」
直感が警鐘を鳴らしている。早く、この場を離れて思考をリセットしなければ…
周囲を警戒しつつ、罠にかかったホーンラビットに近づく。
罠にかかって弱ってはいるが、まだ息はある。さっきまでの殺意剥き出しの形相は消え、今はただ苦しそうに喘いでいた。その姿を見ると、さっき「可愛い」と思った気持ちが蘇ってくる。
「……どう、する……?」
食料は喉から手が出るほど欲しい。この世界で生き延びるためには、綺麗事は言っていられない。頭では分かっている。分かっているけど……。
俺は近くにあった、握りこぶしほどの石を拾い上げた。ずしりと重い石の感触が、決断を鈍らせる。命を奪うということ。たとえ相手が自分を殺そうとした獣だとしても、抵抗できない相手にとどめを刺すのは……気が進まない。
だが、ここで躊躇えば、俺が飢え死にする。
遅かれ早かれ、いつかは乗り越えなくてはいけないことだ。感傷に浸っている余裕なんて、この世界にはない。
「……ごめんな。生きるために……仕方ないんだ」
自分に言い聞かせるように呟き、意を決して、石を握る手に力を込める。そして、ホーンラビットの頭部めがけて、強く、振り下ろした。鈍い音と感触。ウサギの体が小さく痙攣し、やがて、動かなくなった。
罪悪感と、生き延びた安堵感、そして微かな達成感。様々な感情がごちゃ混ぜになりながら、俺は動かなくなったホーンラビットを見つめていた。これが、異世界で生きるということか……。
その時、ポケットの中のスマホがブルリと震え、勝手に画面が点灯した。
「ん? なんだ?」
『捕獲したアザリア・ホーンラビットをクラウドに収納しますか? [はい] / [いいえ]』
「……捕獲? いや、倒したんだけど……まぁ、結果的に手に入れたから『捕獲』扱いになるのか? ゲームみたいだな……クラウドに収納?」
意味が分からないまま、そして他に選択肢も思いつかず、俺は反射的に「はい」をタップした。
すると、目の前で信じられない現象が起きた。ホーンラビットの死体が淡い青色の光に包まれ、まるでゲームのCGエフェクトのようにピクセル状に分解されながら、跡形もなく消え去ったのだ!
「うわっ!? 消えた!? なんだこれ!?」
スマホの画面を見ると、『アイテムストレージ』という表示と共に、「アザリア・ホーンラビット ×1」というアイコンが表示されている。
「まさか、これって……」
恐る恐るアイコンをタップしてみる。再び青い光が溢れ出し、目の前の地面に、さっき消えたはずのホーンラビットの死体が、ポンッと出現した。
「おおおおっ! アイテムボックス! インベントリじゃん!!」
RPGでお馴染みの、あの超便利機能! これが現実にあるなんて! 興奮で声が裏返る。
『クラウドストレージ機能の使用を開始しました。捕獲または採取したアイテムを、容量の許す限り保存できます。保存されたアイテムは、時間経過による劣化なく取り出すことが可能です。』
エテルナビからの丁寧な説明メッセージ。
調べてみると、どうやらこの便利機能は『魔導制御』から使えるようだ。
「マジか! 腐らないとか最高すぎる! これぞ異世界の定番チートだな! ラッキー!」
再びホーンラビットをクラウドストレージに収納する。これで貴重な食料を安全に持ち運べる。これはとてつもなく大きなアドバンテージだ。
「よし! 他にも何か食べられるものは……」
新たな希望と強力なツールを手に入れ、俺は再び食料探索へと意識を向けた。さっきまでの恐怖は、便利な新機能への興奮で少しだけ薄れていた。
だが、それでも心の隅には、あの罠の存在が引っかかっている。森の中を歩きながらも、俺は何度も後ろを振り返ってしまう。風に揺れる木の葉の音、遠くで響く獣の声。その全てが、見えない誰かの気配のように感じられてしまう。
あの罠を作った存在。それは、次に会うとき、友となるのか、それとも敵となるのか。
もはや俺は、この世界で完全な孤独ではないのかもしれない。それは微かな希望であると同時に、底知れぬ恐怖の始まりでもあるような気がした。