覚悟と異言語と生命線
「はぁ……」
重いため息が、静まり返った部屋に響いた。
俺、青山拓人、32歳。フリーランスのWEBデザイナー。どうやら自分の部屋の安っぽいワークチェアで突っ伏して寝ていたらしい。
「うぐっ…肩が…」
凝り固まった肩が悲鳴を上げている。これが老化か? まだ30代だというのに。目の前には、作りかけのデザインが表示されたままのモニター。
ピリリリリ……!
突然、すぐそばでスマホの着信音が鳴り響き、心臓が飛び跳ねた。
「誰だよ、こんな時間に…」
慌てて手に取ると、表示名は「株式会社ネクサス・田中様」。まずい、一番連絡が来てほしくないクライアントだ。
「は、はい! 青山です!」
必死に声を作ろうとするが、掠れてしまう。まずい、寝起きだとバレたら…。
『青山さん? 例のサイトデザインの件ですが、進捗いかがです? 明日には一度、確認したいのですが』
背筋に冷たい汗が流れた。まずい、全然できてない。一文字も。
「あ、はい! もちろん進んでおります! もうすぐ…そう、もうすぐプロトタイプをお見せできるかと!」
口から出まかせが滑り出る。声の震えに気づかれていないことを祈るしかない。
電話を切った途端、俺はデスクに額を打ち付けた。
「くそっ……どうすんだよ、これ」
アイデアは枯渇し、締め切りだけが猛スピードで迫ってくる。徹夜か? いや、もう三日連続だぞ…。
だが、悩んでいる暇はない。やるしかない!
半ば自棄になって、パソコンの電源ボタンに手を伸ばした、その時だった。
『――その光る板は、どうした?』
「!?」
すぐ後ろから、地響きのような、それでいて厳かな声が聞こえた。
冗談だろ? 振り返るな。振り返ったら、何かとんでもないことになる気がする。でも…。
「誰…だ?」
椅子から転げ落ちるように振り返ると、目の前の光景に息をのんだ。
そこにいたのは、巨大な…麒麟?
いや、もっと禍々しい何かだ。白銀の体躯に、角と鬣は稲妻のように青白い光を放ち、バチバチと音を立てている。まるでゲームから抜け出してきたような姿だが、その存在感は圧倒的だった。
(幻覚か? 徹夜続きで、ついに頭がおかしくなったか?)
麒麟の化け物は、ゆっくりと鼻先をこちらに近づけてくる。射抜くような黄金の瞳。
『答えよ。矮小なる者』
「ひっ…!」
声が出ない。足がガクガクと震え、膝から力が抜ける。
(スマホ…! 助けを…!)
必死に手を伸ばそうとした瞬間、部屋の景色が掻き消え、完全な暗闇が広がった。足元には、くるぶしほどの深さの水面が不気味に揺らめいている。
そして目の前には、明らかに怒気をはらんだ麒麟。
『……我を無視するか』
「い、いや、そんなつもりは…!」
麒麟の全身が眩い光を放ち始めた。その光は収束し、俺の頭上、暗闇の天井から巨大な雷の柱となって降り注ぐ!
「死ぬ…!」
絶対絶命。そう理解しながらも、俺は最後の力を振り絞って叫んでいた。
「やめろーーー!!!」
◇
「あああッ!!!」
自分の叫び声で、俺は勢いよく上半身を跳ね起こした。
「はぁっ、はぁっ…!」
心臓が壊れそうなほど激しく脈打っている。全身は汗でびっしょりで、シャツが肌に張り付いて気持ち悪い。呼吸もままならない。
「なんだ…夢、か…?」
掠れた声で呟く。安堵したのも束の間、見慣れない周囲の光景に再び混乱した。
ここ、どこだ?
薄暗い木の壁、粗末なベッド。俺の安アパートじゃない。薬草のような、少し甘い香りが漂っている。
「ここは…」
見覚えのない場所…いや、かすかに記憶がある。
そうだ、俺は異世界に来て、湖にたどり着いたんだった。高熱と悪寒に苛まれ、朦朧としながら…あの綺麗な湖畔に倒れ込んで…。
「助かったのか…?」
まだぼんやりする頭で、自分の手を見つめる。指が五本、いつもの掌紋。確かに俺の手だ。
そこまで考えた時、すぐ隣から声が聞こえた。
「ナ……ナーセラ」
「っ!」
びくっとして声の方を向く。
そこには、深緑色のチュニックのような服に身を包んだ少女がいた。
(これも夢の続きか…? いや、違うな…)
状況から察するに、この子が俺を助けてくれたのだろう。
彼女は、驚き目を見開いていた。そして少し困ったような表情を浮かべる。
もしかして、俺が急に叫び声をあげたから驚かせたか? 悪いことをしたな…。
まだ完全に覚醒しきらない頭で、ぼんやりと彼女の眺める。何か薄い板のようなものを持っていた。その姿が、妙に現代の光景と重なった。
まだ夢現なのかもしれない。脳がスロー再生のように、とりとめのない思考を紡ぎだす。
最近の子はほんとにスマホ肌身離さず持ってるよなー…
スマホがないと死んじゃうとか言うもんなー…
あ、あのスマホ、俺のと同じやつだなー…
………うん?
………………スマホ?
休止状態だった脳細胞が、その一点の気づきによって急速に覚醒していく感覚。完全に目が覚めた。
「あ…れ?」
少女が持ってるスマホ。この世界にあるはずのない、光沢を放つそれ。どう考えても俺のやつだ。
考えをまとめようとしていると、少女はおずおずとそのスマホをこちらにスーッと差し出してきた。
「ナーセラ。ギベンレトゥル」
小川のせせらぎのような、綺麗な声。何を言っているかはさっぱり分からないが、その仕草と申し訳なさそうな表情から、勝手に触ったことを謝っているのだろう。
「大丈夫だよ」
とりあえず、そう伝えようと親指を立ててみせる。グッドサインだ。
すると彼女は少し安心したように表情を和らげた。良かった、このジェスチャーは通じるらしい。
「よかった…。本当に」
俺は安堵の気持ちでいっぱいだった。助かった事もだが、なにより、やっと人に会えた。
正直、このまま誰にも会えないんじゃないかって、怖かった…。
目の前にいるのが誰かは分からないけど、今はただ、人がいてくれたことが嬉しい…
そんな感傷に浸っている時、ぴょこっと動く彼女の耳が目に入った。
――うん? 尖った耳?
改めて目の前の少女を観察する。年は17~18歳くらいだろうか。長く流れる銀色の髪に、吸い込まれそうな翡翠色の瞳。息をのむほど整った顔立ちをしている。そして、尖った耳…。
これって、もしかして…エルフ…だよな?
初めて見る生のエルフ。記念に写真を撮りたい…そんな衝動に駆られたが、その感情と同時にもっと重要なことを思い出した。
俺は受け取ったスマホの電源ボタンを慌てて押す。
「頼む…!」
画面が点灯する。よかった、まだ生きてる!
だが、右上に表示された数字を見て愕然とした。
【6%】
「マジか…もうほとんどないじゃないか!」
焦りがこみ上げる。このスマホは、俺がこの異世界で生きていくための生命線だ。それが、もうすぐ尽きようとしている。電源を切って節約すべきか?
いや、待て。どうせあと数時間もすればただの文鎮だ。それなら!
俺は『言霊共鳴』アプリのアイコンをタップした。
ブゥーーーン
スマホのスピーカー部分が淡い青色に光る。
「ペルヨト!?」
少女が小さく声を上げ、驚いたように身を引いた。その耳がピンと反り立つ。
俺は少女に視線を向けながら、スマホに向かって話しかけた。
「あなたが、俺を助けてくれたんですか?」
『ソア、ナー・ヘルピナ?』
スマホが即座に流暢な異世界語…エテルニア語、だったか? に変換し、音声を発した。少女は目を丸くして、俺とスマホを交互に見つめる。
「ドゥビタ!? ソア、ナー・ドゥナ? アルス・スクリバ・ダ シュドゥナ!?」
『えっ!? あなた、私たちの言葉が……? その板が話して……!?』
スマホが少女の声を日本語に変換する。よし、ちゃんと機能してる!
『それはいったい… どうして言葉を!? どんな魔道具……いえ、魔力は感じませんが……』
少女は耳をさらにピョコピョコとさせながら、ぶつぶつと独り言を呟いている。感情が高ぶると耳が動く癖があるらしい。未知の技術を前に、興味と困惑が隠せないようだ。
やがて、探求心が抑えきれなくなったのか、少女は身を乗り出すように目を輝かせ、質問を畳みかけてきた。
『なぜ言葉がわかるのですか?』
『これはどこで手に入れたのですか?』
『ほかに何ができますか?』
『魔力で動いているのですか? それともエネル?』
『そういえば、あなた変わった服装をしていますね! それもこの板と関係が?』
「ちょ…ちょっと待って! 落ち着いてください!」
俺の言葉にハッとした少女は、慌てて元の位置に戻る。前のめりどころか、もう少しで押し倒されるかと思うほどの勢いだった。あまりおじさんの心臓をいじめないでほしい。
コホンと一つ咳払いをして、少し恥ずかしそうに少女は言った。
『申し訳ありません。 少し取り乱しました』
「いえ、大丈夫ですよ。それと、時間が限られているので簡単に説明します。まず、これは俺の言葉をあなたの言葉に変換する道具です」
「そしてこの板…スマートフォンと言うんですが、間もなくバッテリー…動力が切れて、会話ができなくなります」
『バッテリー?』
「ええ、この板を動かすための力です。それがもうすぐ尽きるんです」
少女は再び興味津々といった表情で、スマホをじっと見つめている。耳の動きは少し落ち着いてきた。
「それと、あなたが俺を助けてくださった、ということで間違いないですか?」
『……はい。湖畔で倒れているのを見つけて、この小屋へ運びました。ひどい熱で、丸一日ずっと眠っていたのですよ』
丸一日!? そんなに寝ていたのか…。
「ありがとう、助かりました。えっと、申し遅れましたが、俺の名前は青山拓人と言います。助けていただき、本当にありがとうございました」
『いえいえ。この辺りは魔物もいますし、薬師として放っておけませんでしたから。…あ、私はフィーラ・アリオンです』
名前を名乗りながら、軽く会釈する仕草が上品だ。
「それでフィーラさん、アザリア村という場所を探しているんですが、ご存じないですか? そこに行きたいんです」
『アザリア村! 知っています。ここからそう遠くない場所ですよ』
「よかったー!」
『でも、この森からだと少し道が複雑で……』
フィーラが少し考え込む素振りを見せた、その時。
スマホのバッテリー表示が赤く点滅を始めた!
「くそっ!」
「フィーラさん! 悪いんですが、もうバッテリーが限界です!」
俺は焦って叫ぶ。フィーラははっとした顔になり、耳をピンと立てて小さく頷いた。
『それは困ります!』
え、なんであなたが困るんだ? と思っていると、彼女は続けた。
『そんな未知の板のこと、もっと知りたいです。それにあなたのことも! 見たところ、この付近の方ではなさそうですし』
「な、なるほど…」
『ですから、私が村まで案内します。動力のことについても、何かできるか掛け合ってみます』
「本当か!? 頼む!」
俺が叫んだ、まさにその瞬間。
ブツン。
スマホの画面が、完全に暗転した。
「あ……」
「…………」
小屋の中に、重い沈黙が落ちる。何度か電源ボタンを押してみるが、漆黒の画面は変わらない。
俺とフィーラは、ただ呆然と顔を見合わせるしかなかった。
言葉という生命線を失い、俺は再び異世界での孤独と向き合うことになった。
…ただ、今回は隣に誰かがいる。彼女の困惑した表情に、なぜか少しだけ安心感を覚えていた。
俺はため息をつき、真っ黒なスマホの画面を見つめる。情報収集も食料確保も、これがないと始まらない。
「スマホが無いと死ぬのは、俺の方だったか……」
肩を落とし、苦笑するしかなかった。