表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

14/22

フィーラ・アリオン

 大霧の森


 早朝。エルフが住まう「大霧の森」の境界付近は、夜の間に降りた霧がまだ木々の間を漂っていた。

 薬師見習いのフィーラは、森の湿度を好む特定の苔や薬用キノコの生育状況を確認するため、見慣れた小径を静かに歩いていた。ここは森の奥深くではないが、エルフ以外の者が容易に立ち入るべき領域ではない。


「……よし、こっちの『霧雫茸』は大丈夫そう。師匠にもちゃんと報告できるかな」


 苔むした古木に生える小さなキノコを観察し、フィーラは小さく頷く。彼女の日課であり、重要な学びの機会だ。薬だけでなく、森全体の生態系を把握することが、優れた薬師への道だと師は説いていた。


 一通り観察を終え、次の場所へ移動しようとした時だった。

 ふと、普段はあまり動物も通らないはずの場所に、不自然な痕跡を見つけた。

 地面がぬかるんでできた、汚い水たまり。その周りの泥が、何者かによってかき混ぜられたような跡がある。


「……なにこれ? 動物の跡……? うーん、それにしては変な感じがする……。」


 フィーラは首を傾げる。動物が水を飲んだにしては、泥の乱れ方がどこか不自然だ。まるで人が手を入れたかのようにも見える。


「そんな…まさかね…」


 そんな疑念を抱きつつも、フィーラは水たまりの先に続く見慣れない足跡に気づいた。


「もしかして...誰かいるの?」


 辺りに他に変わった様子はないか、フィーラは注意深く視線を走らせる。森の音に耳を澄まし、気配を探る。

 足跡は少し先にある湖の方角へと続いていた。


「でも、この跡……様子がおかしい……」


 フィーラは足取りをたどりながら、険しい表情をする。

 それは引きずったような跡や、何度も膝をついたり、座り込んだりしたような跡も混じっていたからだ。


「何かに苦しみながら……? それとも痛みに耐えながら……? それでも湖を目指したのかな。何か大変なことがあったのかも」


 薬師としての知識と、森で培われた観察眼が、足跡の主が相当危険な状態にある可能性を示唆していた。

 フィーラは腰のポーチを確認する。


「よし、とりあえずの材料はそろってる。」


 そして足跡を慎重に追い始めた。エルフの掟は気になるが、この痕跡を残した者を放ってはおけない。

 エルフの鋭敏な感覚で、乱れた足跡、地面を掻いたような指の跡、木の幹に残されたわずかな泥汚れなど、微細な情報も見逃さない。


 足跡は、徐々に霧が薄れていく森の出口へと向かい、やがて視界が開けた湖畔へと続いていた。

 そして――いた。

 湖の岸辺近く、水際に。黒い服を着た男が倒れている。

 さっきの足跡の主だ。湖の水を求め、最後の力を振り絞ってここまでたどり着き、力尽きたのだろう。


「大丈夫ですか!?」


 フィーラは急いで近づく。


 男は泥と水でびしょ濡れになっていた。息は浅く、顔は真っ青だ。

 一目で危険な状態だとわかる。

「これは……ひどい状態……!」


 フィーラは男の状態をつぶさに観察する。

「でも、どうしてこんな所に人間が……? この辺りは人間が迷い込むような場所じゃないはず……。もしかしたら森の幻術に何かあったのかも……?」


 可能性を考えつつも、今は憶測に過ぎない。

 エルフにとって、人間は大抵めんどくさいことの元だ。警戒心が頭をもたげる。

 だが、目の前の命は、今にも消えそうだ。


「……仕方ない。薬師として、見過ごせないし」


 フィーラは小さく決意を呟く。そして額に手を当てた。


「わっ、すごい熱……!喉も腫れてる。なにか変なものでも口にしたのかも」


 症状を確かめた彼女は腰のポーチから、手早く薬草をいくつか取り出した。手順を思い出しながら、素早く、正確に。

 熱を下げる「霜降り葉」

 解毒効果がある「清流根」

 栄養をつける「陽だまりの実」


 持っていた石のすり鉢で素早く潰し、綺麗な水で湿らせる。手慣れた動きには無駄がない。

 まずは霜降り葉の湿布を、男の額にそっと乗せた。

 次に、清流根と陽だまりの実の汁を水で薄めて、男の口元へ、ゆっくりと流し込む。


「……少しだけ、我慢してくださいね。薬が効けば、楽になるはずですから」


 意識のない相手に、そう優しく語りかける。

 その時、男の手元に落ちている、変な黒い板が目に入った。

 ツルツルしていて、冷たく光っている。すくなくともエルフの里ではこんなものは見たことがない。


「この板……魔道具じゃないみたい。エテルニアの物とも違う感じ……。なんなんだろう……?」


 古代の遺物だろうか、という考えも頭をよぎる。あるいは全く未知の……?

 すごく気になったが、今は男の手当てが最優先だ。フィーラは好奇心をぐっと抑え込む。


「……このままじゃ良くない。小屋に運ばなきゃ」


 近くに、薬草を管理している小さな小屋がある。そこなら安全だ。

 フィーラはエルフだから、見た目より力はある。

 それでも、意識のない大人の男を運ぶのは、かなりキツかった。


「……っ、重い……!」


 つい声が漏れる。

 なんとか男の体を担ぎ上げ、湖畔の砂を踏みしめながら、ゆっくりと小屋へ向かう。


 ようやく小屋に着いて、木のベッドに男を寝かせると、どっと疲れが出た。思ったより大変だった。

 フィーラは額の汗を拭う。

 もう一度男の様子を見る。


「呼吸……まだ浅いけど、少し落ち着いたかな。熱も、ちょっと下がったみたい……。薬草、効いてきたのかも」


 フィーラは小屋の中を見回し、追加の薬湯を作る準備を始めた。師から教わった、より効果の高い調合を試す時だ。


「よし、もうちょっとちゃんとした薬湯を作らないと」


 乾燥させた薬草をゴリゴリとすり潰しながら、さっきの黒い板のことを考えていた。


(あれは一体……? 人間の道具? それとも……もっと別の世界の?)


 そして、この男は誰なんだろう? なんで、こんな場所に倒れていたんだろう?


「……今は、この人を助けることに集中しないと。薬師見習いとして、全力を尽くすだけ」


 フィーラは出来上がった薬湯を木の器に入れると、決意を込めて頷く。そして男のそばに静かに座り、その寝顔を見つめた。


 そのエルフの少女の緑色の瞳には、目の前の命を救うという、ひたむきな使命感と、未知への好奇心の光が宿っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ