フィーラ・アリオン
大霧の森
早朝。エルフが住まう「大霧の森」の境界付近は、夜の間に降りた霧がまだ木々の間を漂っていた。
薬師見習いのフィーラは、森の湿度を好む特定の苔や薬用キノコの生育状況を確認するため、見慣れた小径を静かに歩いていた。ここは森の奥深くではないが、エルフ以外の者が容易に立ち入るべき領域ではない。
「……よし、こっちの『霧雫茸』は大丈夫そう。師匠にもちゃんと報告できるかな」
苔むした古木に生える小さなキノコを観察し、フィーラは小さく頷く。彼女の日課であり、重要な学びの機会だ。薬だけでなく、森全体の生態系を把握することが、優れた薬師への道だと師は説いていた。
一通り観察を終え、次の場所へ移動しようとした時だった。
ふと、普段はあまり動物も通らないはずの場所に、不自然な痕跡を見つけた。
地面がぬかるんでできた、汚い水たまり。その周りの泥が、何者かによってかき混ぜられたような跡がある。
「……なにこれ? 動物の跡……? うーん、それにしては変な感じがする……。」
フィーラは首を傾げる。動物が水を飲んだにしては、泥の乱れ方がどこか不自然だ。まるで人が手を入れたかのようにも見える。
「そんな…まさかね…」
そんな疑念を抱きつつも、フィーラは水たまりの先に続く見慣れない足跡に気づいた。
「もしかして...誰かいるの?」
辺りに他に変わった様子はないか、フィーラは注意深く視線を走らせる。森の音に耳を澄まし、気配を探る。
足跡は少し先にある湖の方角へと続いていた。
「でも、この跡……様子がおかしい……」
フィーラは足取りをたどりながら、険しい表情をする。
それは引きずったような跡や、何度も膝をついたり、座り込んだりしたような跡も混じっていたからだ。
「何かに苦しみながら……? それとも痛みに耐えながら……? それでも湖を目指したのかな。何か大変なことがあったのかも」
薬師としての知識と、森で培われた観察眼が、足跡の主が相当危険な状態にある可能性を示唆していた。
フィーラは腰のポーチを確認する。
「よし、とりあえずの材料はそろってる。」
そして足跡を慎重に追い始めた。エルフの掟は気になるが、この痕跡を残した者を放ってはおけない。
エルフの鋭敏な感覚で、乱れた足跡、地面を掻いたような指の跡、木の幹に残されたわずかな泥汚れなど、微細な情報も見逃さない。
足跡は、徐々に霧が薄れていく森の出口へと向かい、やがて視界が開けた湖畔へと続いていた。
そして――いた。
湖の岸辺近く、水際に。黒い服を着た男が倒れている。
さっきの足跡の主だ。湖の水を求め、最後の力を振り絞ってここまでたどり着き、力尽きたのだろう。
「大丈夫ですか!?」
フィーラは急いで近づく。
男は泥と水でびしょ濡れになっていた。息は浅く、顔は真っ青だ。
一目で危険な状態だとわかる。
「これは……ひどい状態……!」
フィーラは男の状態をつぶさに観察する。
「でも、どうしてこんな所に人間が……? この辺りは人間が迷い込むような場所じゃないはず……。もしかしたら森の幻術に何かあったのかも……?」
可能性を考えつつも、今は憶測に過ぎない。
エルフにとって、人間は大抵めんどくさいことの元だ。警戒心が頭をもたげる。
だが、目の前の命は、今にも消えそうだ。
「……仕方ない。薬師として、見過ごせないし」
フィーラは小さく決意を呟く。そして額に手を当てた。
「わっ、すごい熱……!喉も腫れてる。なにか変なものでも口にしたのかも」
症状を確かめた彼女は腰のポーチから、手早く薬草をいくつか取り出した。手順を思い出しながら、素早く、正確に。
熱を下げる「霜降り葉」
解毒効果がある「清流根」
栄養をつける「陽だまりの実」
持っていた石のすり鉢で素早く潰し、綺麗な水で湿らせる。手慣れた動きには無駄がない。
まずは霜降り葉の湿布を、男の額にそっと乗せた。
次に、清流根と陽だまりの実の汁を水で薄めて、男の口元へ、ゆっくりと流し込む。
「……少しだけ、我慢してくださいね。薬が効けば、楽になるはずですから」
意識のない相手に、そう優しく語りかける。
その時、男の手元に落ちている、変な黒い板が目に入った。
ツルツルしていて、冷たく光っている。すくなくともエルフの里ではこんなものは見たことがない。
「この板……魔道具じゃないみたい。エテルニアの物とも違う感じ……。なんなんだろう……?」
古代の遺物だろうか、という考えも頭をよぎる。あるいは全く未知の……?
すごく気になったが、今は男の手当てが最優先だ。フィーラは好奇心をぐっと抑え込む。
「……このままじゃ良くない。小屋に運ばなきゃ」
近くに、薬草を管理している小さな小屋がある。そこなら安全だ。
フィーラはエルフだから、見た目より力はある。
それでも、意識のない大人の男を運ぶのは、かなりキツかった。
「……っ、重い……!」
つい声が漏れる。
なんとか男の体を担ぎ上げ、湖畔の砂を踏みしめながら、ゆっくりと小屋へ向かう。
ようやく小屋に着いて、木のベッドに男を寝かせると、どっと疲れが出た。思ったより大変だった。
フィーラは額の汗を拭う。
もう一度男の様子を見る。
「呼吸……まだ浅いけど、少し落ち着いたかな。熱も、ちょっと下がったみたい……。薬草、効いてきたのかも」
フィーラは小屋の中を見回し、追加の薬湯を作る準備を始めた。師から教わった、より効果の高い調合を試す時だ。
「よし、もうちょっとちゃんとした薬湯を作らないと」
乾燥させた薬草をゴリゴリとすり潰しながら、さっきの黒い板のことを考えていた。
(あれは一体……? 人間の道具? それとも……もっと別の世界の?)
そして、この男は誰なんだろう? なんで、こんな場所に倒れていたんだろう?
「……今は、この人を助けることに集中しないと。薬師見習いとして、全力を尽くすだけ」
フィーラは出来上がった薬湯を木の器に入れると、決意を込めて頷く。そして男のそばに静かに座り、その寝顔を見つめた。
そのエルフの少女の緑色の瞳には、目の前の命を救うという、ひたむきな使命感と、未知への好奇心の光が宿っていた。