渇きと悪寒の狭間で
どれくらい眠ったのか。
意識がゆっくりと浮上してきたのは、体の芯まで凍えるような、強烈な悪寒のせいだった。
「……っ、さむ……!」
ガタガタと歯が鳴る。自分の体じゃないみたいに、勝手に震えが止まらない。
洞窟の中は、昨日よりは少し明るい。どうやら朝になったらしい。外の雨音も……弱まっているようだ。
だが、そんなことより、自分の体の異常がヤバかった。
悪寒だけじゃない。頭がガンガンと割れるように痛む。そして、胃のあたりが気持ち悪くて、吐き気が込み上げてくる。
(……マジかよ。最悪だ……風邪、ひいた……?)
昨日、雨に少し濡れたのと、このジメジメした不潔な洞窟で寝たのが原因か。連日の疲労とストレスで、完全に免疫力が落ちてたんだろうな。
「……っ、くそ……」
体を起こそうとするが、全身が鉛のように重く、力が入らない。
寝返りを打つだけで、頭痛と吐き気が増す。視界がぐらぐらと揺れて、平衡感覚がおかしい。
(熱、絶対あるだろ、これ……)
体は熱いのに、体の芯は冷たい。最悪のコンディションだ。
薬なんて、あるわけがない。ポカリもない。
(このままじゃ……本当にマズい……!)
なんとかしないと。このままじゃ動けなくなって、それこそ終わりだ。
そうだ、薬草! この世界の植物には、薬効があるものもあるかもしれない!
俺は震える手でスマホを取り出した。こいつの機能に頼るしかない!
画面を点灯させると、まず目に入ったのは右上隅のバッテリー表示だ。
「うわっ……! もう28%!? ヤバいな……!」
昨日の探索や動画チェック、隠し部屋でのライト使用で、思った以上に消耗していたらしい。充電手段がない今、この残量は生命線だ。これも時間との勝負だ。
(クソっ、早くなんとかしないと……!)
焦りながら、カメラアプリを起動し、写真モードにする。
動画モードはバッテリーを食う。今はそんな余裕はない。
朦朧とする意識の中、洞窟の入り口付近に生えている苔にカメラを向け、シャッターを切る。ピッ。
画面に『植物図鑑』の情報が表示される。
『イワダレゴケ - 食用:不可 / 用途:なし』
「……だよな」
すぐに画面をオフにしてバッテリーを節約。
次は壁にこびりついているカビっぽいもの。撮影。ピッ。
『カビ(種別不明) - 毒性:中 / 食用:不可』
画面オフ。
落ちていた枯れ葉も念のため……。撮影。ピッ。
『枯れ葉(混合) - 用途:燃料(乾燥時)』
画面オフ。
ダメだ。こんな洞窟の中に、都合よく薬草なんて生えてるわけないか……。
この動作だけでも、頭痛と吐き気がひどくなる。
(水……水が飲みたい……!)
喉が焼けるように渇いている。熱のせいか、意識が朦朧としているせいか、異常なほど水分を欲していた。
そうだ、せめて綺麗な水を飲めば、少しはマシになるかもしれない。
昨日採ったファイアベリーは……ポケットを探ると、潰れた一粒しか残っていなかった。これを舐めても、気休めにもならないだろう。
俺は最後の気力を振り絞り、壁に手をつきながら、なんとか体を起こした。
足元がおぼつかない。一歩踏み出すたびに、頭に激痛が走る。
「……外に、出るしかない……」
この洞窟にいても、状況は悪くなる一方だ。
嵐が止んでいるなら、外に出て、綺麗な水場を探すんだ。
ふらつく足取りで、洞窟の入り口へ向かう。
外の光が眩しい。雨は……完全に止んでいた。嵐の後の、湿った空気と土の匂いがする。
(水場……どっちだ……?)
方向感覚が鈍っている。だが、耳を澄ますと、遠くから微かに、滝のような水の音が聞こえる気がした。あっちか……?
確証はない。でも、今はそれに賭けるしかない。
俺は、その音が聞こえる(気がする)方角へと、足を引きずるように歩き始めた。
森の中は、昨日の嵐でめちゃくちゃになっていた。折れた枝が散乱し、地面はぬかるんでいる。歩きにくいことこの上ない。
「はぁ……っ、はぁ……っ……」
息がすぐに上がる。視界が霞む。
頭痛と吐き気、悪寒が断続的に襲ってくる。
何度も木の幹に寄りかかり、嘔吐きながら、それでも足を止めなかった。
喉の渇きが、もう限界に近い。
唾を飲み込むことすら辛い。
その時、足元のぬかるみに、雨水が溜まってできた小さな水たまりが目に入った。
泥水に近い、濁った水だ。木の葉や土も混じっている。
普段なら絶対に飲もうとは思わない。
だが、今の俺には、それが命の水に見えた。
(……飲むか……? これを……?)
本能が危険信号を発している。こんな汚い水を飲んだら、腹を壊すどころじゃ済まないかもしれない。
でも、喉の渇きは耐え難いレベルに達していた。意識が朦朧として、正常な判断ができない。
(……そうだ、一応、写真……撮って……)
震える手でスマホを取り出し、水たまりにカメラを向ける。
これで何か情報が……。ピッ。
画面に表示されたのは、特定の図鑑情報ではなかった。無理もない、水専用の図鑑なんてないんだから。
だが、センサーが何かを検知したのか、簡素な分析結果のようなものが表示された。
『液体サンプル - 成分:水(H2O)、土壌粒子、有機物(腐敗物含む)、微生物多数 / 毒性:微少(推定) / 飲用:非推奨』
「……毒性、びしょう……?」
頭がうまく働かない。非推奨……でも、猛毒じゃない……? 微少って、どれくらいだ?
腹痛くらいで済む……のか? いや、でも……。
(……もう、どうでもいいか……)
思考が放棄される。目の前にあるのは、ただの水。喉を潤すもの。
腹痛? 下痢? ……上等だ。今、この渇きで死ぬよりはマシだ。
俺は、ほとんど無意識のうちに、その泥水に顔を近づけていた。
わずかに残った理性が「やめろ」と叫んでいる気もするが、もう聞こえない。
両手で濁った水をすくい、口元へ運ぶ。土の匂いが鼻をつく。
そして、覚悟を決めて、それを一気に飲み干した――!
「……うまい……。まさか泥水をご馳走に感じる日がくるなんてな……」
自嘲気味な呟きが漏れる。喉の渇きは、ほんの一瞬だけ和らいだ気がした。
だが、体が求めている水分の量には、到底足りていない。根本的な渇きは、まったく癒えていなかった。
(死ぬ……こんなところで……死ねるか……っ!)
生への執着が、再び俺を突き動かす。
もっと綺麗な水がある場所へ……! あの滝の音がする方へ!
意地だけで、ふらふらと歩き続ける。
ザアァ……ザアァ……
滝の音が、だんだん大きく、はっきりと聞こえてきた。
近い! もうすぐそこだ!
「はぁっ……はぁっ……!」
最後の力を振り絞って、ぬかるむ地面を進む。
木々の切れ間から、光が差し込んでいるのが見えた。開けた場所に出る!
そして――。
「……あ……」
森を抜けた瞬間、目の前に広がった光景に、俺は息を呑んだ。
穏やかな湖。太陽の光を浴びて、キラキラと輝く水面。
求めていた、清らかな水がそこにあった。
「みず……きれいな……みず……」
渇望していたものが、すぐそこにある。
俺は、もつれる足を必死に動かし、水辺へと歩み寄った。
ザブン、と岸辺に膝から崩れ落ちる。
目の前には、透き通った水面が広がっている。
助かった……! やっと、綺麗な水に……!
そう安堵した、まさにその瞬間だった。
プツン、と意識の糸が切れた。
限界を超えて動き続けた体は、もう動かなかった。
ぐにゃり、と視界が歪み、俺の体はゆっくりと岸辺に倒れ込み……。
(……みず……)
最後にそう思ったのを最後に、俺の意識は完全にブラックアウトした――。