【驚愕】無力なオッサンが異世界に迷い込んだ結果
「はぁ……」
深夜。
蛍光灯だけが煌々と照らす、安アパートの六畳一間。俺、青山拓人、32歳、独身、フリーランスのWEBデザイナー。
目の前にはとっくに締め切りを過ぎた仕事の見積書。そして、手付かずで冷めきったコーヒーと、コンビニ弁当の残骸。完璧な詰み状態だ。
「マジで、やる気スイッチどこ行ったんだよ……」
力なく呟き、惰性でスマホを手に取る。通知を確認するついでに、自分のI TUBEチャンネルを開いてみた。チャンネル名は「デザインと日常のマイクロワールド」。登録者数は……「1,024人」。
「……増えてる。けど」
ようやく、本当にようやく収益化のラインを超えたというのに、この体たらくだ。
新しい動画のネタなんて浮かばないし、更新ももう何週間止まってる? 燃え尽きるって、こういうことか。デザイナーとしても、配信者としても、俺はもう終わってるのかもしれない。
「いや、まだだ。まだ終わってたまるか」
自分を無理やり奮い立たせ、気分転換も兼ねて別の作業に取り掛かる。
クライアントから依頼されている「古代遺跡」をモチーフにしたウェブサイトのリサーチだ。
カチカチとマウスをクリックし、検索結果を眺めていると、ふと見慣れないサイト名が目に留まった。
「……エテルネット?」
なんだこれ。
聞いたことないな。
好奇心に駆られてクリックすると、画面いっぱいに神秘的な文様と、見たこともない風景写真が広がった。
鬱蒼とした森に埋もれた石造りの建造物、空に浮かぶ巨大な結晶体……。まるで、どこか別の世界の写真みたいだ。
「お、これ……いい雰囲気じゃん。サイトデザインの参考に……」
夢中で画像をスクロールしていく。その時だった。
『エテルネットアプリをインストールします』
「は? おい、勝手に!?」
画面にポップアップ通知。
慌ててスマホのホーム画面を確認すると、見慣れないフォルダとアイコンが追加されている。フォルダ名は……「エテルネット」。
「なんだよこれ、ウイルスか? ……まぁ、あとで削除すればいいか」
不用意だった。
本当に、どうかしていたんだと思う。
そのアプリのアイコンをタップしようとした、まさにその瞬間――。
「うわっ!?」
スマホの画面から、目も眩むような強烈な白い光が迸った。
咄嗟に手放そうとするが、遅い。
光は奔流のように俺の全身を包み込み、意識は急速に薄れていった。最後に感じたのは、体がバラバラになるような奇妙な浮遊感だけだった。
「……っつ……」
頭が割れるように痛い。重い瞼をこじ開けると、視界に飛び込んできたのは、見慣れた安アパートの天井……ではなく、どこまでも広がる真っ青な空だった。
「……は?」
慌てて体を起こす。
柔らかな草の感触。
そよ風が頬を撫で、聞いたこともない鳥のさえずりが耳に届く。
周囲には、見たこともない奇妙な形の木々が生い茂っていた。
「ここ……どこだよ……?」
状況が全く飲み込めない。手のひらを見ると、例のスマホがしっかりと握られていた。
画面には「圏外」の表示と、バッテリー残量「88%」。電波が届かない? 近所でそんな場所あったか? いや、それよりもこの景色は……。
まさか。
「……異世界、転移?」
フィクションでしか聞いたことのない単語が、脳裏をよぎる。
漫画やアニメじゃあるまいし、そんな馬鹿な。夢だ。これはきっと疲労が見せた悪夢に違いない。そう思って、思い切り自分の頬をつねってみた。
「いっ……てぇ!!」
ジンジンと熱を持つ痛み。これは、紛れもなく現実だった。
「マジかよ……32歳、無職同然のオッサンが異世界転移って……どんな罰ゲームだよ……」
頭を抱え、しばし呆然とする。だが、いつまでもこうしてはいられない。パニックになったところで、腹が膨れるわけでも、安全な寝床が現れるわけでもない。
「落ち着け、俺。こういう時は、まず……」
そうだ、大学時代に一度だけ参加したアウトドアサークルの合宿。あの時、先輩が言っていた。サバイバルの基本は優先順位だ、と。あとは、暇つぶしに見ていたサバイバル系のドキュメンタリー番組の知識を総動員するんだ。
「ええと、まずは『水』の確保。次に『食料』と『避難場所』。それから『火』……だよな。スマホの充電? そんなもん後回しだ。……いや、でも、これしか文明の利器がないんだ。壊さないようにしないと」
スマホを大事にパーカーのポケットにしまい、周囲を見渡す。少し離れたところに、小高い丘が見えた。
「よし、まずはあそこに登って、周囲の状況を確認しよう。水場が見つかればラッキーだ」
そう決めて歩き出そうとした、その時。
ザザッ!
すぐ近くの草むらが不自然に揺れたかと思うと、そこから、とんでもないモノが這い出してきた。
「――ひっ!?」
巨大な、ゲジゲジ? いや、ムカデ? とにかく、おびただしい数の足を持つ、節くれだった蟲型の生物。体長は……1メートルは軽く超えているだろう。艶めかしい黒光りする体表が、陽光を反射してぬらぬらと輝いている。
「うわああああああああああッ!? なんだコイツ! キモい! キモすぎる!!!」
腰を抜かしそうになりながら、全力で後ずさる。もともと虫は大の苦手なんだ! ゴキブリが出ただけでも大騒ぎする俺が、こんな巨大ゲジゲジなんて耐えられるわけがない!
反射的に近くにあった大きな木の陰に飛び込み、荒い息を整える。心臓がドラムのように激しく脈打っていた。
「やばい、やばいって! マジで死ぬかと思った……! なんなんだよこの世界は! あんなのが普通にいるのかよ!?」
恐怖で震える足を叱咤し、丘を目指して歩き出す。何度も後ろを振り返り、あの黒い悪夢が追ってきていないか確認しながら。ぜぇぜぇと息を切らし、額から噴き出す汗を袖で拭う。
「くそっ……運動不足が祟ってる……! デスクワークばっかじゃなくて、もっと体力つけとくんだった……!」
自嘲気味に悪態をつきながら、ようやく丘の頂上にたどり着いた。そして、目の前に広がった光景に、俺は息を呑んだ。
眼下には広大な森と、遠くにきらめく湖。そして、空には――。
「うおっ……!? な、なんだ、あれ……島? 島が……浮いてる!?」
信じられない光景だった。大小いくつかの岩塊が、まるで重力なんて存在しないかのように、悠々と空に浮かんでいる。ファンタジー映画でしか見たことのない、非現実的な絶景。
「これが……現実……? いや、現実なんだけど、ファンタジーの世界にいるわけで……でも、今ここにいるってことはやっぱり現実で……あれ? 俺、何言ってんだ?」
混乱で頭がぐちゃぐちゃになっていく。自分の髪を掻きむしりながら、意味不明な独り言を繰り返す。だが、そんな混乱とは裏腹に、心のどこかで、ふつふつと好奇心が湧き上がってくるのを感じていた。「この世界をもっと知りたい」と。
しかし、感傷に浸っている場合ではない。喉がカラカラに渇き、胃がきりきりと痛む。日が傾き始めているのを見ると、夜の寒さも心配になってきた。シェルターも必要だ。
浮かぶ島の神秘は後でいい。今は、生き延びること。それだけを考えろ。
「サバイバルの基本は、水だ……」
改めて湖の方向を見据える。太陽の光を反射して輝く青い水面。距離は……歩いて1時間くらいか?
「よし、まずはあの湖を目指そう。水さえ確保できれば、なんとかなる……はずだ」
丘を下り始めようとした、その瞬間。
カサッ。
再び草むらが揺れた。
今度はさっきのゲジゲジほど大きくはない。トカゲに似た、小型の爬虫類のような生き物だ。だが、その背中には小さな膜状の翼が生えている。そいつは俺の姿を認めると、一瞬身を低くし、口からフシュッと微かな煙のようなものを吐き出した。
俺が驚いて一歩後ずさると、それを好機と見たのか、素早く身を翻して草むらの奥へと消えていった。
「……今のは、逃げていったな。危険じゃない……のか?」
少しだけ安堵しつつも、警戒は怠らない。見たこともない植物、奇妙な鳴き声の鳥、そして時折姿を見せる未知の生物。五感をフル稼働させ、周囲の情報を記憶に刻み込みながら、俺は湖へと向かって歩き続けた。
一時間後。ようやく湖畔にたどり着いた俺は、その水の透明度に目を見張った。湖底の砂地や揺らめく水草、そして色とりどりの魚が泳ぐ姿まではっきりと見える。
「綺麗だ……」
恐る恐る湖に手を浸し、水を掬い上げる。匂いを嗅いでみるが、特に異臭はない。少量を口に含んでみると、ひんやりとした感触と、ほのかな甘みが舌に広がった。
「……うん、飲める。大丈夫そうだ」
ごくごくと喉を鳴らして渇きを癒し、近くの岩に腰を下ろして深く息を吐く。ひとまずの危機は脱したか。安堵感が全身に広がると、ふと、ある考えが頭をよぎった。
「そういえば……異世界転移モノのお約束といえば、チート能力だよな?」
都合よく強力なスキルや魔法を手に入れて、無双する展開。俺にも何か、そういう特殊な力が備わっているんじゃないだろうか?
期待に胸を膨らませ、俺は立ち上がった。まずは身体能力のチェックからだ。
「いっちょ、跳んでみるか!」
軽く助走をつけて、エイヤッと全力でジャンプ!
「ぐっ……!」
着地の衝撃が、運動不足の膝にダイレクトに響く。
「……うん、知ってた。いつも通りだ。むしろ、32歳のせいか、昔より跳べなくなってる気がする……」
次に、両手を前に突き出し、それっぽいポーズをとってみる。
「いでよ、炎! ファイアボール!」
シーン……。
「水よ来たれ! ウォータージェット!」
シーン……。
「光よ! ライトニング! 癒やしを! ヒール!」
次々と、思いつく限りの魔法名を叫んでみるが、虚しく風が吹き抜けるだけ。何の変化も起こらない。
「ま、まぁ、いきなり魔法が使えたって面白くないしな! ハハハ……」
乾いた笑いが湖畔に響く。虚しい。あまりにも虚しい。
気を取り直して、目を閉じ、精神を集中させてみる。周囲の気配、音、匂い、風の流れ……。何か特別な感覚は……ない。
「……やっぱり、普通の俺のままかよ……」
全ての試みが徒労に終わり、俺はその場にへなへなと座り込んだ。
「これじゃただの……何の力もない、しがないオッサンが、危険なファンタジー世界に放り込まれただけじゃないか!!」
情けない自分の現状に、思わず頭を抱える。ため息をつきながら、時間を確認しようとスマホを取り出した。転移してから、もう4時間近く経っている。空は少しずつオレンジ色に染まり始めていた。夜が来る。その事実が、改めて俺の置かれた状況の深刻さを突きつけてきた。
ふと、スマホの画面に目を落とした時、今まで気づかなかったアイコンが視界に入った。例の、勝手に追加された「エテルネット」フォルダだ。そういえば、まだ中身をちゃんと見ていなかった。
フォルダを開くと、そこにはいくつかの不思議なデザインのアプリが並んでいた。
「『共鳴録画』、『星座航海』、『魔力計測』、『知恵の書庫』……それに、『エテルナビ』?」
ナビ……ってことは、説明書か何かなのか? 恐る恐る『エテルナビ』のアイコンをタップする。すると、画面に神秘的な星空のような背景が現れ、古代文字なのか現代文字なのか判別しがたい、奇妙なフォントのテキストが表示された。
『エテルネットアプリへようこそ』
「うわ、なんか……すごいデザインだな……」
表示された説明文を読み進めていく。
『現在、あなたは "エテルニア" と呼ばれる世界にいます。この世界は、あなたが元いた世界とは異なる物理法則、そして "魔力" と呼ばれる未知のエネルギーによって構成されています。どうぞ、この素晴らしい景色と、まだ見ぬ冒険に満ちた世界を楽しんでください』
「……楽しんでください、だと? さっきの巨大ゲジゲジに襲われかけといて、楽しめるか! ふざけんな!」
思わず悪態をつく。なんだか妙に馴れ馴れしい文章だ。眉をひそめながらも、続きに目を通す。
『このアプリ群は、古代エテル文明の遺産である次元間通信技術と、あなたの世界の技術が融合したものです』
次元間通信? まるでSF映画だな……。
『共鳴録画:高性能カメラ機能と、次元共鳴による映像通信機能を提供します』
次元共鳴……? 何のことだかさっぱり分からん。
『星座航海:星空の情報を元に、現在位置を特定し、地図を作成します』
これは……かなり役立ちそうだ。
『魔導制御:魔導の力で『預け』『引き出す』ことのできる機能。』
預けて使う……てきな何かか?。便利そうな機能だが……これも今は謎だな。やっぱり、魔法が存在する世界なんだ。
説明によると、これらのアプリは使い込むことで機能が拡張されたり、新たな機能が解放されたりするらしい。そして、説明文の中には、何度か「支持者数」という謎の単語が登場していた。
「支持者数? 誰の支持者だよ……。意味わかんねえ……けど、まあ、使えるものがあるだけマシか?」
情報を整理し、これからの行動を考え始めた、その時。
「……いや、ちょっと待てよ!」
俺はガバッと立ち上がり、空を仰いだ。
「普通! 普通さぁ! 異世界転移モノって言ったらさ! 女神様とか、なんか偉そうな神様とかが出てきてさ!『勇者よ! お前に世界を託す!』とか!『特別な力を授けよう!』とか! そういうのあるだろ! 普通!!」
誰もいない湖畔に、俺の叫び声だけが虚しく響き渡る。
「チート能力もなけりゃ、まともな説明もなしかよ! こんな胡散臭いアプリ任せってどういうことだ!? 神様だかエロい女神様だか知らねえけど、もっとちゃんと仕事しろよ!!」
両手を広げ、天に向かって力の限り叫んでみる。……もちろん、返事なんてあるはずもない。
「はぁ……むなし……」
がっくりと肩を落とし、再びスマホの画面に目をやる。とりあえず、今夜を越すための寝床を作らなければ。
幸い、湖の周りには手頃な太さの枝や、大きな葉を持つ植物がたくさん生えている。重い丸太を運ぶのは早々に諦め、運べそうな細い枝を拾い集める。だが、ほんの数往復しただけで、息が上がり、汗が噴き出してきた。
「はぁ……はぁ……情けねぇ……。デスクワークばっかりだったツケが、こんなところで回ってくるとは……」
何度か休憩を挟みながら、柔らかそうな葉っぱを大量に集め、なんとか風雨をしのげそうな、簡易的なシェルターの骨組みを作っていく。
力仕事は苦手だが、こういう構造を考えたり、効率を求めたりするのは嫌いじゃない。最小限の労力で、最大限の効果を。デザイナーとしての経験が、こんなところで役立つとはな。
ようやく作業を終え、疲労困憊の体を引きずって湖のほとりに腰を下ろした頃には、太陽は西の地平線へと大きく傾いていた。
空が、燃えるようなオレンジ色に染まっていく。俺は、思わず息をのんだ。
目の前に広がる夕景は、今まで地球で見てきたどんな夕焼けよりも、圧倒的に美しかった。空には、いつの間にか二つの月が淡い光を放ちながら浮かんでいる。大きな銀色の月と、少し小さな赤みがかった月。それらが湖面に映り込み、空に浮かぶ島々のシルエットと相まって、まるで幻想的な一枚の絵画のようだった。
「すげぇ……。こんな景色、日本じゃ……いや、地球じゃ絶対に見られない……」
無意識のうちに立ち上がり、ポケットからスマホを取り出す。さっき読んだアプリの説明を思い出し、「共鳴録画」のアイコンをタップした。バッテリー残量は……80%。まだ余裕はある。
「これは……撮っておかないと……」
衝動的に、動画撮影を開始した。震える手でスマホを構え、カメラをゆっくりと動かす。燃える空、二つの月、静かな湖面、そして、空に浮かぶ神秘的な島々へ。
「えー……と。今日、は……2024年の、9月15日、だったか? 多分。俺、青山拓人、32歳。……どうやら、異世界、って場所にきちゃったみたいです。森で目を覚まして、変な蟲に追いかけられて、なんとか水場を見つけました。それで……今、目の前には、信じられないくらい綺麗な夕焼けと、月が、二つ……。あと、空に島が浮いてます。……こんな景色、本当に、見たことない……」
言葉を探しながら、必死に目の前の光景を伝えようとする。声が少し震えているのは、感動のせいか、それとも不安のせいか。数分間、俺は夢中でシャッター……いや、録画ボタンを押し続け、様々な角度からこの幻想的な光景を記録した。
撮影を終え、録画停止ボタンを押す。改めて、目の前の絶景に見入る。夕陽が湖面を黄金色に染め上げ、空に浮かぶ島々が神々しいシルエットを描き出していた。
「もし……もし、この映像を誰かが見たら、きっとCGだって思うんだろうな……。でも、これが、今の俺が見ている、現実なんだ……」
その時だった。
俺の手の中のスマホが、ふっと静かに短く振動した。
画面の隅に、『アップロード中…』という小さな文字が一瞬だけ表示され、すぐに消える。
続いて、『アップロード完了しました』と。
だが、俺の目は、ただひたすらに異世界の空を映していた。息をのむほどの美しさに心を奪われ、スマホに起きた小さな異変には、まったく気づいていなかった。
「この景色……誰かに、見せられたらなぁ……」
そんな、叶うはずもないと思っていた俺の切ない願いが、皮肉にも、この瞬間に実現していたことなど、知る由もなかった。
地球のどこか。
誰かのデバイスの画面に、今まさに、異世界の幻想的な夕暮れが映し出されている。
俺がまだ知らないところで。俺の、32歳からの異世界サバイバルという、新しい物語の歯車は、静かに、そして、確実に回り始めていた――。