八話
「母上、僕、城下町へ行ってみたい」
昼下がり、離れの庭に面した部屋で紅茶を飲んでいたコルネリアは、横で本を読んでいたレイナウトに突然そう言われて聞き返す。
「城下町へ? またどうして?」
「お祖父様が皆のために税を元に戻したでしょ? それでもう困ってないか気になるから、見に行きたいんだ。駄目?」
コルネリアは丸い目で息子を見つめた。最近のレイナウトが民の暮らしに興味を持っていることを彼女は日頃から感じていた。何気ない会話の中で民を引き合いに出すことがあったからだ。いずれ国を統べる者として、民に関心があることはいいことだとコルネリアは思っていたが、自らの目で見てみたいほど高まっていたとは知らず、少々驚きもあったが、思えば以前、陳情の列を見に黙って出かけたりもしており、それを考えればさほど驚くことではないのかもしれない。
「どうしても行きたいと言うの?」
「はい。ここにいても、誰も教えてくれないし、馬車で通っただけじゃよくわかんないし」
王族が城下町へ行くことはあるが、その場合は馬車移動が基本であり、自分の足で歩いて見て回ることなどまずない。それは警護や防犯上の問題もあるが、そもそも王族に長い距離を歩かせること自体がはばかられるという意識があるからだ。しかしコルネリアには城下町を自分の足で長く歩いた経験があった。それはレイナウトと同じ幼い頃、母ノールと共にお忍びで城下町の中を見て歩いたことがあり、そこで初めて知ることも多かった。そんなことをしたのはそれきりだが、彼女の中では新たな世界を垣間見れたようで、今もいい経験として残っていた。
馬車を使わず徒歩でお忍びで行くなど、周りの人間は絶対に反対するだろう。ヴェンデルに至っては話し終える前に怒鳴り出すかもしれない。だがコルネリアには自らの経験があり、それはいい思い出だった。いいことならば息子にも経験させたいと考えるのが普通で、レイナウトからの思わぬ頼み事ではあるが、母として断る気持ちはまったくなかった。
笑みを見せるとコルネリアは言った。
「では、行ってみる?」
予想と違う答えに、レイナウトはきょとんとして言う。
「……行っていいの?」
「だって行きたいのでしょう? それなら行ってみましょう」
了承されたとわかると、レイナウトは読んでいた本を放って飛び跳ねながら喜びを見せた。
「ただし、このことは陛下に言っては駄目よ。止められてしまうでしょうから。行く日まで、私達だけの秘密にするのよ?」
「はい! 誰にも言わない! それで、いつ行くの? 明日? それとも今から?」
「そう急がないの。予定を確認したら教えるわ。それまで待って」
レイナウトは待ち切れない様子ながらも、放った本を拾ってソファーに戻った。そんな息子に笑顔を向けると、コルネリアは早速予定の確認を始めるのだった。
眉をひそめる侍従を説得し、どうにか予定を立てたコルネリアは、三日後の午後に行くとレイナウトに伝えた。二人だけで行ければいいが、安全上そうもいかないので護衛兵を一人付けることにした。が、それでは心もとないという侍従に懇願され、二人に増やされて、計四人で行くことになった。お忍びなので少人数が好ましいが、許してくれた侍従のために、コルネリアはそこは妥協するしかなかった。
そして当日――昼食を済ませた二人は護衛兵を連れて、早速城下町へと繰り出した。
空は薄曇りで日差しは弱めだったが、雨が降るような気配はなく、気温は暑くも寒くもない。歩き回るにはいい日和とも言えた。
二人の前後を護衛兵に挟まれる形で歩き進むと、やがて前方に町の入り口が見えて来た。馬車でなら何度か通っている道だが、徒歩だとまた違う景色のように見えて、レイナウトはもうすでにワクワクしていた。
「人が、いっぱいだね」
町に一歩入ると、目の前の光景を眺めてレイナウトは呟いた。幅広の道には四方へ行き交う人々がせわしなく歩いている。その間を馬や荷車が音を立てて走り抜ける。その足下を見れば城周辺のような石畳ではなく、土がむき出しの道で、多くの人が通るせいでどこもデコボコになって非常に歩きにくそうに見えた。雨でも降ればもっとひどいことになるだろう。
「奥様、どちらへ向かわれますか?」
前を行くひげの護衛兵がコルネリアに聞いた。奥様という呼び方は身分を隠すためで、事前に決めたことだった。ちなみにレイナウトのことはお坊ちゃまと呼ぶことになっている。
「そうね。この子の勉強のために、生活感の見える場所へ行こうかしら。どこか心当たりある?」
「お任せください。それならば居住区へご案内いたします」
先導する護衛兵に付いて二人は町の奥へ進んで行った。
表の通りと比べると人通りがまばらな居住区は、古い石積みの民家が立ち並ぶ静かな場所だ。ところどころで住人が立ち話や、軒先で洗濯している姿が見られるが、その風景は至って平和そうだった。
「皆、普通に暮らしてるみたいだけど、何か困ってることってあるのかな」
人々の様子をキョロキョロ見ながらレイナウトが独り言を言った時だった。道の奥から二人の子供が走って来たと思うと、前を走る女の子が地面につまずき、顔からベタンと派手に転んでしまった。もう一人の男の子が駆け寄り、心配そうに声をかけるが、女の子は身体を起こすなり大泣きし始めてしまった。それに周囲の大人達は気付くが、他人の子だからか、近付いて慰めようとする者はいない。
「……母上、あの女の子、可哀想だよ。どこか怪我して泣いてるのかもしれない」
「そうね……仕方ないわね」
お忍び中にあまり民と関わりたくはなかったが、少女が泣いているのを無視できるほど冷淡にもなれないコルネリアは、息子の言葉に後押しされるように少女の元へ歩み寄った。
「大丈夫よ。そんなに泣かないの。さあ、顔を見せて」
知らない女性に声をかけられると、少女は驚いたのか泣き声を止め、その顔をじっと見た。コルネリアは取り出したハンカチで頬を伝う涙と共に泥を拭ってやる。
「鼻の頭が少し擦り剥けているけど、他に怪我はなさそうね。綺麗な水で洗えばすぐに治ってしまうわ」
少女を立ち上がらせ、服や足に付いた泥も払ってやる。
「大きな怪我がなくてよかったね」
レイナウトが笑顔でそう言うと、女の子は横にいる男の子と戸惑う顔を見合わせ、次には駆け出して逃げるように去ってしまった。それを母子は呆然と見送った。
「……何にも言わないで行っちゃったね」
「知らない私達を警戒したのかもしれないわ。でも無事ならいいのよ」
ハンカチをしまい、先へ行こうとすると、民家から出て来た老人が不意に話しかけてきた。
「ああやって転ぶ子供は毎日のようにいるんだよ」
護衛兵の二人が鋭い目を向けてさえぎろうとしたが、コルネリアはそれを止めて聞いた。
「見ていたのですか? ならば助けてくれてもよかったのに」
「毎日のことだからなぁ」
「けれど、小さな子が泣いているのですから……」
「様子を見に出て来たら、もうあんたが助けてたんだ。見ての通り、俺は足を悪くしてなぁ」
そう言う老人の右手には杖が握られている。一歩前に出るだけで身体はふらついていた。
「そうでしたか。それは失礼を……」
「さっきの子供と同じで、俺もこの道で転んだんだよ。そうしたらこんな足になっちまった。この町の道はどこもかしこもデコボコで、悪路しかない。子供と年寄りは足を取られるし、荷車を引けば荷物が落ちる。馬車に乗っても尻を痛める始末だ。そんなのが日常茶飯事だから、誰も見向きもしなくなったんだよ」
「歩きづらい道なら、直せばいいんじゃないの?」
レイナウトに言われ、老人は苦笑する。
「ああ、もちろん直したことはあるよ。近所の人間と協力してな。でも所詮素人のやったことだ。大雨が降った次の日には元に戻ってた」
「では、土木の専門家に依頼をしたらどうですか?」
「俺らには無理だよ。そんな金はない。出し合ったところで短い距離しか直せないだろうよ。だからもっと上の、城の役人に頼んでやってもらいたいんだが――」
「あっ、それなら陳情すればいいよ! 道が悪くて困ってるって言えば――」
「もうやったんだ。けどな、町中の道を直す予算なんか組めないって、自分らでどうにかしろと追い返された。向こうは住人のために金を出す気はないらしい。税は絞り取ってるくせになぁ。それはどこへ消えてるんだか……」
老人は深い溜息を吐く。
「大っぴらには言えないが、前の王様も、今の王様も、庶民の俺らのことを全然考えてくれてないよ。無関心なんだろうなぁ。城の中のことしか見えてないのかもしれない。そんな王様の国に住んでる俺らは不幸だよ」
「不幸、ですか……」
「ああ。あんたはそう思わないか? ……いや、あんたは庶民じゃなさそうだな。それとも異国の人か?」
老人は母子の、質素だが気品のある服装を見て言った。
「え、ま、まあ……」
「じゃあここで数日過ごせばわかるよ。住人は生活するだけで一杯一杯だし、その苦しみを役人達は知ろうともしない。警備をしてる兵士達も役立たずで、治安は一向によくならない。そんなの不幸としか言えないだろうよ」
「きっと民のことをよく知らないだけなんだと思うよ。だから僕がお祖父様に――」
レイナウトが気持ちのまま話し始めたのを、コルネリアは咄嗟に口を塞いで止めた。それを老人は怪訝な目で見る。
「……ん? どうかしたのか?」
「いえ、何でも……お話、続けてください」
「ふむ、で、何だったか……ああ、不幸だと言ってたんだな。だがそんなことばっかりじゃない。最近、小さな希望になる話も聞いた。王女の子の幼い王子が、それはそれは利発だと評判になってるらしい。何でも、俺ら民に混じって陳情の列に並んだっていうんだよ」
「あっ、それ僕――」
反応したレイナウトの口を、コルネリアは再び手で塞いだ。
「それで役人側の対応を改善しろって言ったらしいんだ。本当にそんなことしたのか知らないが、実際、陳情に行ったやつが役人の数が増えてたって言ってたから、まったくの嘘じゃないんだろうな。祖父さんである王様とはえらい違いだよ」
コルネリアは、ただ黙って聞くしかなかった。
「皆言ってるんだ。早く王子の世になってくれないかってな。民を思ってくれる人間が王様になったらどれだけ暮らしが変わるか……まあ、その前に俺はあの世へ旅立ってるだろうがな」
ヘヘッと笑った老人は、無表情で聞くコルネリアを見た。
「ここの人間じゃないあんたにはつまらない話だったな。引き止めて悪かったなぁ」
「い、いえ、興味深いお話を聞けてよかったです。では私達はそろそろ……」
「ああ、何にもない町だが、楽しんで行ってくれ」
老人は杖をつきながら、ゆっくり家の中へ戻って行く。それを見送り、コルネリア達もその場を離れた。
「……母上、お祖父様って町の皆に嫌われてるのかな?」
道をとぼとぼ歩きながらレイナウトは寂しげに聞いた。
「どうなのかしらね……でも、レイナウトのことは褒めていたわね。皆のことを考えてくれているって」
「そうだけど……僕はお祖父様のことを嫌ってほしくないな。怒りっぽくてすぐ怒鳴っちゃうけど、本当はすごく優しい人なんだって知ってもらえたらいいのに」
残念そうにうつむく息子の頭をコルネリアは撫でる。現在のヴェンデルのやり方では、民に嫌われるのも当然と言えた。庶民の暮らしぶりを知ろうともせず、必要だからと税率を上げる。ではその他で民のためにやっていることがあるかと言えば、特に見当たらない。商業、農産、学業、医療など、民の生活に関わるそれらの制度や決まりは何十年も昔に定められ、もはや時代遅れのものもあるが、見直す動きはこれっぽっちもない。そんな見向きもしない国王を民が慕うわけもないのだ。血を分けた娘ではあっても、正直な民の声には何の反論もないのがコルネリアの気持ちだった。しかしレイナウトは違うようだ。可愛がってくれる祖父の姿こそが本当のヴェンデルだと思っているのだろう。彼は九歳と幼い。あの笑顔は彼だけに向けられていることをまだ知らないのだ。民がヴェンデルの笑顔を知る機会は、おそらく永遠にないだろう。
「奥様、どういたしますか? まだこの辺りを見て回りますか?」
先導するひげの護衛兵に聞かれ、コルネリアは隣のレイナウトに視線で聞く。するともう少し見たいと返事があって、コルネリアはそう指示した。
しばらく歩き続け、住人達の普段の様子を眺めながら居住区の端まで来た時だった。
「――早くどけと言ってるだろうが」
男性の怒る声にレイナウトの足が止まる。表通りへとつながる道の端――そちらへ目を向けると、王国軍兵の制服を着た男性二人が、壁に寄りかかって座り込んでいる男性に何か言っている光景があった。怒った声を上げているのはどうやら兵士のほうらしい。何か揉め事だろうか――気になるレイナウトは道をそれてそちらへ向かった。
「……あっ、どこへ行くの?」
すぐに気付いたコルネリアは護衛兵と共にレイナウトを追い、その肩をつかまえた。
「勝手に離れては駄目よ」
「母上、あの人、何で怒られてるの?」
少し距離を取った場所から母子は様子を眺めた。
「あれは、町を巡回している兵士かしら」
「兵士は皆を守るんでしょ? でもあの人のこと怒ってるよ」
「そうね……」
状況を知ろうと二人は兵士達の声に耳を傾けた。
「――手間をかけさせるな。これで何度目だ!」
兵士が怒鳴ると、座っている男性は縮こまって言う。
「で、でも、他に、行くところがなくて……」
「そんなのは理由にならないんだよ。許可なく通行の妨げをする物、人は即排除する決まりになってる。もう何度も説明してるよな?」
「そうですけど、でも、僕、帰る家もなくて……」
「だから! 理由にならないって言ってるだろが! 家に住みたいなら真っ当に働け」
「そうしたいのは、やまやまなんですけど、僕、持病があって、そのせいで、どこも雇ってくれなくて……」
「だから可哀想な自分を見逃してくれと? もっと可哀想な人間はごまんといる。物乞いできるだけお前はまだ恵まれてるよ」
兵士の見下した口調が男性を怯えさせている。その男性をよく見れば、確かに服装は粗末で、茶の髪もボサボサで、体形も痩せ細っている。兵士が指摘した通りの生活をしているのだろう。
「またあの男を注意してるよ」
背後から聞こえたヒソヒソ声にレイナウトは振り向く。そこには近所の住人と思われる中年の男女がいた。
「物乞いぐらい見逃してやればいいのに」
「あの人、表通りでも見かけわよね……」
「追い出されてこっちに来て、同じ目に遭ってるな。可哀想に」
「通行の邪魔だって言うけど、大して人通りのない道なのに……嫌がらせにしか見えないわね」
「それでも規則だって言うんだろ。まったく、弱い人間より、犯罪者をどうにかしてくれってんだ」
不快な表情を浮かべたまま、通りすがりの男女は歩き去った。人々もレイナウトと同じように、怯える男性に同情的な気持ちのようだった。
「母上、あの人は困ってあそこにいるだけみたいだよ? 助けてあげられないかな?」
袖を引かれ聞かれたコルネリアは、見上げてくる息子に困惑の顔を向ける。
「気持ちはわかるけど、助けることまでは……」
ここで出しゃばって兵士と揉めるなど、何か問題を起こすわけにはいかないのが現在の状況だ。何せ今はお忍び中。気になることがあっても深入りしないようにするのが賢明なのだが、そんな母の気持ちなど、純粋な正義感を持つ子供に理解できるわけもない。
ためらう母に見切りを付けたレイナウトは、なおも男性を怒る兵士達を見ると、おもむろに口を開いた。
「やめてあげてよ! 可哀想だよ!」
急に大声で言った息子にコルネリアは止める間もなく驚いた。そしてちらと兵士達のほうを見れば、しっかり聞こえていた二人がこちらへゆっくり振り返るところだった。
「……今言ったのは、お前か?」
黒髪の兵士が眼光鋭くレイナウトを見て言った。
「そうだよ。その人を怒らないでよ。困ってるんでしょ?」
臆さずに言う子供を見て、もう一人の小柄な兵士は笑顔を浮かべながら言う。
「困ってるのは我々のほうなんだよ。同じ注意をしてるのに全然直してくれない。だから怒って言うしかないだろ?」
「直してくれない理由をその人は言ったでしょ? それを聞いてあげればいいと思うけど」
普通の子供らしからぬ言葉に、兵士二人は顔を見合わせる。そしてまじまじと母子を見てから言った。
「……なかなか賢そうなお子さんだ。家柄もよさそうだ」
黒髪の兵士は口では褒めるが、表情はいかにも鬱陶しそうだった。
「この町の人間ではなさそうだが、ここへは何しに?」
半ば睨むような目がコルネリアに聞く。
「私達は、その……見物しながら散策を……」
「見物か。つまり、この町の決まりなどはよく知らないってことだな。簡単に言えば部外者だ。そんな人間に我々の仕事へ口を出してもらいたくないね」
「部外者じゃないよ。僕はこの町に住んでないけど、母上と一緒に――」
また何か言い出したレイナウトの口をコルネリアは咄嗟に塞いだ。これに兵士は眉間にしわを寄せて見やる。
「いくら賢くても、しつけはしておかないと。そうでしょ?」
静かだが威圧的な言い方にコルネリアは押し黙る。その様子にひげの護衛兵がそっと近付いて聞く。
「この兵士の態度は目に余ります。一言――」
「それは駄目。穏便に、やり過ごすのよ」
「奥さん、その人は雇った護衛かな? 二人で何のヒソヒソ話だ?」
嫌な視線を受けて護衛兵はすぐに下がり、コルネリアは笑みを作った。
「いえ、何でもないわ。仕事の邪魔をしてしまって悪かったわ。私達は失礼するので……」
「そうかい。じゃあ気を付けてな」
面倒事に触れたくないコルネリアは踵を返そうとしたが、それをレイナウトは引き止めた。
「母上、あの人を助けてあげないの?」
悲しそうに見てくる息子に迷いは感じつつも、兵士の目から遠ざかりたいコルネリアは息子を見つめて言った。
「ここは、あの兵士に任せましょう」
「任せたらまた怒るよ。そうしたらあの人が可哀想だよ」
「可哀想な人を助けていたら切りがないわ。だから――」
「さっき転んだ女の子は助けたよ? 何であの人は助けないの?」
「さっきは、目の前で転んでいたから……」
「あの人だって目の前で困ってるよ? 母上、助けてあげようよ」
レイナウトはコルネリアの腕を引き、行かせないように粘る。
「手を離しなさい。可哀想でも行かないと――」
「さっきからグズグズと何してる? 目障りだからさっさと行かないか」
追い払おうと近付いて来た小柄な兵士に、レイナウトは振り向いて言った。
「行くところがないって言ってるのに、無理矢理どかそうとするのは可哀想だよ。困ってる人を助けるのも、兵士の仕事じゃないの?」
諦めずになおも言ってくる子供に、小柄な兵士は辟易した溜息を吐く。
「我々の仕事は、この町の治安を守ることだ。それを乱したり妨害する者は、たとえ子供であっても許さないぞ」
「その人は悪いことしてないよ? それなのに怒るなんて変だ」
「悪いことはしてる。決まりを守ってないだろ。だから――」
「困ってるから守れないんだよ。守れるように助けてあげ――」
「聞いてなかったのか? 子供であっても、妨害行為は許さないぞ。連行する!」
目を吊り上げた小柄な兵士は、口が減らないレイナウトの腕をつかもうと手を伸ばした。がその瞬間、護衛兵二人が割って入り、レイナウトをかばうように立ちはだかった。
「なっ……邪魔だ。どけ!」
「お坊ちゃまに触れさせるわけにはいかない」
二人は壁となり、背後のレイナウトをきっちり守る。それは立派な仕事ぶりではあったが、側で見ているコルネリアは焦り、困惑する。こうなってはもう穏便に済みそうになかった。周りを見てみれば、数人の通行人が何事かと足を止めて見ていた。大きな騒ぎになる前にさっさと立ち去るのが最善と考え、コルネリアは言った。
「本当に、もう失礼するので……さあ、行くのよ」
レイナウトの手をつかみ、逃げるように去ろうとした時だった。
「待て! 帰れると思うのか?」
二人の兵士が母子に詰め寄ろうとして来て、すかさず護衛兵は立ち塞がった。その二人を睨み付けながら小柄な兵士が言う。
「お前らもこの子供と同様、我々の仕事を妨害した行為で連行する」
「妨害って、何をしたというの?」
「こうして護衛を使い、連行するのを邪魔してるだろうが」
「そもそも子供を連行だなんて……この子は思ったことを言っただけよ。妨害ではないわ」
「言葉だけだって立派な妨害になるんだよ。だからしつけはしておくもんだな。……ほら、どけ。全員詰め所へ連れて行く!」
母子に近付きたい兵士と、それを阻止したい護衛兵、二対二の小競り合いが始まってしまう。実力のある護衛兵なら、兵士二人ぐらい簡単に制圧できるのだが、コルネリアの意を汲み、力を使わずに収めようと努力していた。しかし怒りを見せる相手は容赦なくつかみ、腕力で排除しようとしてくる。それに耐え続けるのも辛く、ひげの護衛兵は背後のコルネリアに目で訴えた。どう収拾すればいいのか――方法を求められ、コルネリアは迷う。問題を作った張本人であるレイナウトは、大人達の小競り合いに少し怯えた表情で母の後ろに隠れていた。息子をさらに怖がらせるわけにもいかず、かと言って兵士に従うことは絶対にできない。けれどここまで来ると、もはや逃げることも無理だろう。周囲には騒ぎに気付いた野次馬が徐々に集まり出していた。人前では避けたかったが、もう他に解決できる方法が思い浮かばないコルネリアは、意を決して声を張り上げた。
「無礼者! 静かになさい!」
突然の大声に、小競り合いはすぐに止まり、二人の兵士は怪訝な顔でコルネリアを見やった。
「……無礼者? 我々を妨害しながら何を言って――」
「ジュスクムント王国国王ヴェンデルの娘であるこの私に、そのような口を利くなど、それこそ許されないことよ」
「はあ? 国王の、娘……? おいおい、何を言い出したかと思えば……」
兵士達は半笑いでコルネリアを見ている。
「王族を騙ることは大罪だぞ。罪を増やしたいのか?」
「罪を増やしているのはお前達のほうよ。言いがかりで連行するなど、あるまじき行為だわ」
毅然とした態度と強い口調で言っても、兵士達に信じる様子は微塵もない。
「そうかい。じゃあお前が王女だってことを、ここで証明して見せてくれよ」
「本物の王女なら、それぐらいはできるはずだよな? もしできなければ、牢を経由して処刑台行きだぞ。それはわかってるんだろうな」
口の端を歪ませて、兵士達は得意げな顔を見せている。王女なわけがないと確信しているのだろう。だがそれは大きな間違いであると、コルネリアは懐に手を入れる。
「いいでしょう。ならばよく見なさい。これが証拠よ」
取り出したのは泥で汚れたハンカチ――転んだ女の子を拭いた時のものだった。
「……布切れ? 汚いな。それの何が証拠なんだ」
余裕そうに言う兵士に、コルネリアはハンカチを広げて見せた。
「この刺繍を見なさい。我が王家にしか許されない二対の聖槍の紋章よ」
ハンカチの角、そこには白一色の糸で見にくくはあるが、翼を広げた鷲の下に交差した二本の槍がある紋章が細かく刺繍されていた。当然ながら本物であり、その繊細な仕事は一流の職人にしか果たせない出来で、兵士達も目を凝らして見ながら、次第に表情を引きつらせ始めた。
「これを見ても、まだ自分達を無礼者と認めないつもり?」
二人は顔を見合わせると、数歩後ずさり、青ざめた顔になって言った。
「そ、その、まさか、このようなところへ、高貴なお方が来られるとは、露ほども思わず……」
「お許しください! 我々は、ご尊顔を拝する機会というものがなく、想像でしか知り得なかったもので、このような無礼な態度を取ってしまいました。このことは大いに反省をいたします。なので、どうかお許し願います!」
兵士は肩をすくめ、頭を下げながら賢明に懇願してくる。この様子にレイナウトは、以前自分に起こったことと同じだと思いながらコルネリアに言った。
「母上、謝ってるから許してあげよう? その代わりに、あの人を助けてもらおうよ」
指差した先では、痩せ細った男性が地べたに座って、ぼーっとこちらを見ていた。
「……この子がそう言っているけど、できる?」
コルネリアの視線を受け、兵士達は勢いよく頷いて見せる。
「ご命令とあらば、ただちにそういたします!」
「西の教会に、困窮者に対する奉仕活動を長年している司祭がいるので、まずはそちらで相談してみることにします」
「そう。では頼むわよ。あの者がまともに暮らせるまで面倒を見てあげてちょうだい」
兵士達は背筋を伸ばして敬礼すると、先ほどまで怒鳴っていた男性の元へ小走りに向かって行った。手のひらを返したように態度が変わった兵士に、男性は戸惑いの表情を浮かべていたが、これでもう邪魔者扱いはされないだろう。
「……では、行きましょうか」
コルネリアが息子の手を引き、踵を返すと、道にはいつの間にか多くの野次馬達が集まり、王女親子の騒ぎを見物していた。
「母上、次はどこへ行くの?」
周りのことなど気にしていないレイナウトは、まだお忍び見物を続けるつもりのようだったが、これではもはやお忍びとは言えない状況だった。王女と王子が町に来ていると話が広まれば、また余計な問題が起きないとも限らない。だがそれよりもコルネリアは、父ヴェンデルに知られることのほうが心配だった。お忍び行動がばれれば、おそらく激怒しながら説教するに違いない。それでも治まらなければ最悪、レイナウトを引き取ると言い出しかねない。ヴェンデルならそんなこともあり得るだろう。そんな事態は絶対に避けねばならない。
「今日はもう終わりよ。騒がしくし過ぎてしまったわ」
「えー? もっと見たいのに」
「次は馬車に乗って見に来ましょう」
「馬車だとよく見られないよ。次も歩いて来たいな」
「わがまま言わないの。馬車のほうが安全なのだから」
「コルネリア王女、万歳!」
その時、野次馬の中から大声が上がった。驚いた母子がそちらへ顔を向けると、また別の声が上がった。
「レイナウト王子、万歳!」
ぽかんとする王女親子の前で、その声は徐々に他の野次馬にも広がって行く。
「レイナウト王子、万歳! コルネリア王女、万歳!」
ざわめいていた人々の声が、少しずつ揃って二人をたたえる声に変わる。
「あ、ありがとう。でも、できれば静かに……」
目立たず去りたいコルネリアだが、そんな気持ちも知らずに万歳の声は次第に風が渦を巻くように大きくなっていく。もうお忍びどころではない状況に、護衛兵の二人が静まるよう人々に言って聞かせるも、昂ぶった思いはすぐに治まらないのか、万歳は辺りに響き続ける。もう無理だと察したコルネリアは、レイナウトの手を握って足早にその場を立ち去るしかなかった。遠くなる王女親子の姿へ、人々のたたえる声はしばらく送られ続けていた。




