六話
半年に一度訪れる大聖堂からコルネリアと共に馬車に揺られ、レイナウトは城へ帰り着こうとしていた。四角い窓から外を眺め、流れて行く建物や街路樹の景色を見ていた。
「……母上、あれは何?」
息子が指差す先をコルネリアは窓に近付いて見てみる。
「……あの行列のこと?」
「はい。何であんなに人が並んでるの?」
街路樹の奥には、城のほうへと続く老若男女の並んだ一本の列ができていた。
「あの民達は城へ陳情に来ているのよ」
「ちんじょう……?」
「生活する中で、自分達が困っていること、お願いしたいことを役人に頼むのよ」
「じゃああの人達は皆、困ってる人なの?」
「まあ、置かれている状況は様々でしょうけど、自分だけではどうにもできないことを抱えているのでしょうね」
レイナウトは視界の外へ消えていく行列をじっと見つめる。
「あんなに困ってる人っているんだ……どんなことに困ってるんだろう」
「さあ……それを聞くのは担当する役人だから、わからないわね」
市井で暮らした経験などあるはずもない王族に、民の困り事を知る由もなく、また想像する材料も持ち合わせておらず、レイナウトは気になりながらも、モヤモヤした気持ちを抱えるしかなかった。
それから数日が経っても、レイナウトの頭にはあの長い行列の光景が残り続けていた。民は一体何に困って並んでいるのだろうか――そう考え出すと簡単には止まらなかった。周りにいる者に聞いても、王子がお気になさることではないと教えてくれはしない。そうなるとますます知りたい気持ちが高まった。
そんなある日に、レイナウトは行動に出ることにした。
この日は両親揃って昼間から外出しており、暮らしている離れにはレイナウトと数人の侍女しかいない。その数人の侍女も、大半は屋内外の仕事で忙しくしており、レイナウトの側にいるのは実質一人だけだった。
「……レイナウト様、何をなさっておいでですか?」
彼の部屋の片隅で静かに控えていた侍女イエッテは、レイナウトが突然衣装ダンスを開けて探り始めたのを見て聞いた。
「着て行くものを探してる……これでいいや」
そう言って取り出したのは、フードの付いた灰色のマントで、レイナウトはそれを広げて背中に羽織った。
「着て行くとは、どこかへ行かれるので?」
胸元の留め具でマントを固定すると、レイナウトは笑顔で侍女を見た。
「陳情の行列を見に行く。イエッテも一緒に来てくれる?」
瞬時には理解できず、イエッテは思わず眉をしかめた。
「陳情の、行列……とは、あの、城の前で見られるもののことでしょうか?」
「そうだよ。暇なら一緒に来て」
レイナウトは侍女の手を取り、そのまま部屋を出てスタスタ歩いて行く。
「お、お待ちを! なぜ陳情の列などに……」
「困ってる民が何に困ってるのか、僕すごく知りたくて。だから行ってみたいんだ」
「あのような場所に、レイナウト様が行かれる必要はないかと……」
「でも皆、聞いても教えてくれないでしょ? 僕が行って聞くしかないんだもん」
「お教えしないのは、レイナウト様のお耳にお入れするようなことではないという判断をされたからで、その、ご興味があるのはわかりますが、ご予定にない外出をなさっては、コルネリア様にお叱りを――」
「母上が戻る前に帰るから大丈夫だよ。イエッテも内緒にしてね」
「それは……お、お待ちください!」
レイナウトに強引に手を引かれ、二人は玄関扉を出て行く。と、庭先で掃き掃除をしていた庭師の男性が、飛び出して来た王子に挨拶した。
「レイナウト様、お出かけでございますか?」
「そう。陳情の行列を見に行くんだ」
「へ? 陳情……?」
いぶかる庭師にイエッテは慌てて付け足す。
「そのっ、城のほうまで、散歩に行くということよ」
「ああ、そういうことですか。晴れておりますからね。気持ちのいいお散歩になるでしょう。お気を付けて行ってらっしゃいませ」
納得してくれたのか、庭師は笑顔で二人を見送った。その前を通り過ぎながらイエッテは若干の後悔を感じる。本当のことを言うべきだったろうか。庭師と共に王子をお引き止めするべきだったろうか。しかし無理にお引き止めして機嫌を損なわせたくはなかった。王子付きの侍女となってまだ日も浅く、厳しくしたことで不満を買い、仕事を変えられてしまうかもしれない。そんなことにはなりたくない――イエッテは人としての道徳と、自らの損得を比べた結果、後者を選んだ。王子もすぐに帰ると言っているし、散歩と呼べないことでもない。きっと大丈夫だろうと不安な気持ちを覆い隠し、レイナウトに従って城へ向かうのだった。
普段は馬車で通るだけの、城に面した広い道まで二人はやって来た。この辺りはどの道も石畳になっており、馬や荷車が通るたびにカツカツガラガラと大きな音が響き渡る。だが城にほど近いせいか、歩行者はまばらだ。ほとんどの民は城になど用はないから、この辺りまで来る理由もないのだろう。
しかし、城の正門に差しかかったところでは、老若男女の民が長い列を作る光景があった。ざっと見ても人数は百人を超えている。それを見たレイナウトは、まるで遊具でも見つけたかのように駆け寄って行った。
「レイナウト様! お一人で行かれては……」
イエッテの声など耳に入らないのか、レイナウトは行列の最後尾に並ぶ高齢の女性に話しかけた。
「こんにちは。ちょっと聞いてもいい?」
突然見知らぬ子供に話しかけられて、女性は一瞬驚くも、すぐに微笑みを浮かべた。
「なあに? 迷子にでもなったの?」
「そうじゃなくて、これって陳情の列だよね?」
「ええ、そうよ。ボウヤのお父さんやお母さんも並んでるの?」
「ううん。並んでない」
「そう。じゃあボウヤが聞きたいことって何かしら?」
「あなたは何に困って並んでるの?」
意外な質問に女性は思わず眉をひそめる。
「それは……ボウヤに言っても、よくわからないことだと思うわよ」
「そうなの? ……イエッテ、こっちに来て!」
小走りで追って来たイエッテは呼ばれるままにレイナウトの横に並んだ。
「な、何でしょうか」
「この人の困ってること、僕がわからなかったら説明してほしいんだ」
「え? 説明、ですか?」
「頼んだよ。……わからないことはイエッテに聞くから、困ってること、教えてくれる?」
そう言われた女性は怪訝な目をイエッテに向けた。
「あの、あなたは、このボウヤのお母さんなのかしら……?」
「いえ、私は――」
王子の侍女、と口に出しかけて咄嗟に留めた。大勢の民、しかも陳情に来ている民の前で、この子はレイナウト王子だと明かすことは危険に思えた。政治経済とはまだ無関係とは言え、それを取り仕切っているのは王家であり、その一員であるレイナウトに的外れであっても悪い感情を抱いている民がいないとも限らないのだ。身の安全のためにも、王子だと知られることは避けるべきとイエッテは考えた。
「……お世話を、させていただいている者です」
「確かに、使用人のような服装ね……散歩でもさせているの?」
「ええ、そ、そうなんです。最近、わ、若様は、一般の暮らしや社会全般に対して、とてもご興味がおありで――」
「若様って何? いつもみたいに名前で――」
「ででですから、勉強のためにも、どうかお付き合いしていただき、お話をお聞かせ願えませんでしょうか?」
女性は複雑な顔を見せたが、レイナウトの期待する眼差しを受け、仕方なさそうに言った。
「まあ、隠し事でもないし、ボウヤが社会勉強したいなら……」
「ありがとうございます! それで、本日はどのような陳情でいらしたのですか?」
「長年住んでた土地から、いきなり立ち退けと言われて困ってるのよ」
「家から出てけってこと? 誰に言われたの?」
「もちろん領主からよ。土地の持ち主は領主だからね。でも契約期限はまだきてないのよ。私も契約に違反するようなことはしてないし、何十年と平和に暮らして来たのに、それが立ち退けだなんて、あまりに一方的過ぎるでしょ?」
「領主の人には言ったの?」
「言ったけど、決めたことだの一点張りで話し合ってもくれないのよ。もう体力もお金もない私じゃ、新たに住める土地を探すのは大変なの。今いる土地に骨を埋める覚悟だったのに、死に場所まで取り上げるだなんて、ひどい仕打ちよ」
女性は顔に刻まれたしわをさらに深くし、二人へ苦しい現状を伝える。
「領主の人は何であなたを出て行かせたいのかな」
「理由は教えてくれなかったけど、近所の噂じゃブドウ畑を作りたがってるとかで、私の住む土地まで広げたいそうよ。定かじゃないけど、領主は大のワイン好きらしいから、そんな理由もあり得るかもしれないわ」
「だとしたらひどい話だね。畑を作りたいなら別の場所に作ればいいのに。どうしても決めた場所じゃなきゃ駄目なら、家を出てってもらう代わりに、新しい家を用意するべきじゃない? 何も悪いことしてないんだからさ」
「そうなのよ。私もそう言ってるんだけど、ずっと門前払いで、最後はここに来るしかなかったのよ。……ボウヤ、まだ小さいのによくわかってるわね」
「追い出せば、あなたが生活できなくなるってわかるはずなのに、何でそんないじわるするんだろう」
「私が何の力もない、ただの庶民だからよ。強く出れば黙って引き下がると思ってるのよ。だから、領主よりも力のある国王様にお頼みするしかないの」
「お祖父様、助けてくれるかな」
これに女性の片眉が上がる。
「……おジイ様って、ボウヤの? 私を助けてくれる力があるの?」
「多分。だってお祖父様は――」
「若様! お話は聞かれましたし、もうそろそろ……」
イエッテがすかさずさえぎると、レイナウトは怪訝な目を向けた。
「だから、その若様って何? いつも通りに呼んでよ。何か変だよ」
「申し訳、ございません。ですがお話は済みましたよね? コル……母上様が戻られる前に、私達も帰らなければ……」
「まだ一人しか聞いてないよ。もっといろんな人に聞かなきゃ。……こんにちは! ちょっと聞いていい?」
レイナウトは再びイエッテを無視して列に並ぶ人に話を聞き始めた。何だかまずそうだと感じるも、王子の口を塞ぐわけにもいかず、イエッテは側で見守るしかなかった。
陳情の内容は多岐にわたる。先ほどの女性のような土地に関する問題や税、地域の治安、商売でのやり取りなど、問題は大小様々あった。
「五年分の、多く取り過ぎた税を未だに返してもらってなくてね。返す気がないなら、その分来年の税から引いてくれって頼んだんだが、何の返事もないんだ」
「あたしは服なんかの生地の卸問屋をやってるんだけどね。最近安過ぎる価格で卸してる業者が出て来てさ。それでも質はうちのほうがいいから放っておいたんだけど、その業者、大量に売りまくるもんだから、うちみたいな老舗の問屋にも影響が出てき始めちゃって。そういうの取り締まってもらえないもんかね」
「他は知らないけど、俺の住む地域はとにかく治安が悪いんだ。スリに追い剥ぎ、強盗なんかもある。巡回してる兵士は一応いるが、サボってばっかで全然役に立ってない。この現状を伝えて、もっと真面目な兵士をよこしてもらいたいんだよ」
話してくれた者達は皆真剣で切実だった。自分の生活に関わる問題のため、早く解決してほしいと陳情に来るのも当然だろう。レイナウトは民がこういった困り事を抱えているのだと初めて知ったのだった。
だが知ったことはまだある。聞いた者達の半数は、陳情に来るのは初めてではないというのだ。二度、三度と訪れている者もいれば、今日で十度目という者もいた。なぜそんなに来るのかと聞けば、ある者は適当にあしらわれた結果、問題解決には至らず、ある者は役人に話す前に応対時間が終わったと告げられ帰らされたからだという。確かに、この長い行列の人数を一日で応対するのは難しい。それで並ぶ途中で帰らされるのはわかる。しかし役人と話せても解決してもらえないというのは何とも解せない。それでは民は何のために並んでいるのか。問題は陳情を受け付ける城側にもあるとレイナウトは気付いたのだった。
「皆、遠くから来て並んでるのに、話もできないで帰らされるなんて……皆の話が聞けるように、役人の数を増やせばいいのに」
そうすればもっと多くの民の困り事や願いを聞いてあげられる――思い付いた単純な方法をレイナウトが呟くと、それを聞いていた陳情に並ぶ男性が言った。
「そりゃいい考えだ。ボウズもここに並んで、それを言ってみたらどうだ?」
男性は明らかに冗談の口調だったが、言われたレイナウトは真に受けるとハッとした表情を見せた。
「そうか! 僕も並んで陳情すればいいんだ!」
そう言うと行列を後ろへ辿り、再び最後尾まで来たレイナウトは、最初に話を聞いた高齢女性の後ろに付いた。それを見たイエッテは唖然とする。
「ま、まさか、本当に並ばれるおつもりですか?」
「ここにいる皆が困ってるんだ。もっとよくしてもらわないと」
「しかし、わざわざお並びになられなくとも、レイナ……若様なら直接申し上げることもできますでしょう」
「お祖父様は毎日忙しいから、陳情を聞く役人に言ったほうが早いと思うんだ。そうすればすぐ直してくれるでしょ?」
「そうかもしれませんが……今から並ばれますと、先頭にたどり着くまで数時間は要するのでは? その間にコル……母上様がお戻りになってしまいます」
「母上は夜に帰るって言ってたから、まだ時間はたくさんあるよ」
頭上は青空が広がり、清々しいそよ風が吹いている。時刻は正午で、確かに時間はまだまだあった。だが行列に並ぶとなると、一体どれだけの時間を使うのか。イエッテはいろいろなことが心配でたまらなかった。
「すぐに戻られると仰ったではないですか」
「皆が困ってるんだよ? イエッテはそれを無視して、何も言わないで帰ってもいいの?」
まるで薄情だと言わんばかりの目で言われ、イエッテがそれ以上口を開けるわけもなかった。王子の正義感は誰よりも強い。それを知っているから一緒に並ぶ他に選択肢はなかった。
「あらボウヤ、並ぶなら私の前に来ていいわよ」
高齢女性はレイナウトの背中を押すと、自分の前へ来させる。
「順番は守らないと……」
「いいのよ。こんな後ろじゃボウヤも話をできないかもしれないけど、ちっちゃな子の陳情ぐらい届けさせてあげたいから」
「それなら、私の前に入れてあげるわ」
レイナウトの前にいた若い女性が振り返って言った。
「僕は後から来たから……」
「子供が遠慮なんかしなくていいのよ。……ねえ、この子前に入れてあげてくれないかな?」
女性の呼びかけに並ぶ数人が振り返り、レイナウトを自分達の前に並ばせる。そしてその人達がまた前に並ぶ人に呼びかけ、レイナウトを列の前へ送る――子供への慈しみと善意が陳情までの順番を大幅に早めてくれた。その一人一人に感謝しつつレイナウトは列の中ほどに並ぶ。それでも前方にはまだ何十人と民がいた。亀よりも遅い足取りで、それでも確実に前へ進むこと二時間――レイナウトの目の前にようやく役人の姿が現れた。
「……はい、次ぃ」
城の前庭の片隅、そこに置かれた簡易机に両肘を付きながら、気だるそうな態度と口調で中年の役人が椅子に座っていた。この人が話を聞いてくれるのかとレイナウトは意気軒昂に歩み寄る。その後ろをイエッテも付いて行く。
「こんにちは」
「はいはい……小さな子を連れてとは珍しいな。陳情はお母さん?」
役人に見られてイエッテは慌てて首を横に振る。
「いえ、私は親ではなく、お世話をさせていただいている者で、陳情をなさるのはこちらの……」
手で示すと、役人は表情を曇らせてレイナウトを見やる。
「……ん? 話があるのはこっちなのか?」
「そうだよ。お願いしたいことがあるんだ。いい?」
「あ、ああ、まあ、言うだけ言ってみろ」
役人は頬杖を付き、はなから真面目に聞こうとしていない。それにレイナウトはムッとして思わず言った。
「あのさ、人の話を聞くんだから、もっと真剣に聞いてよ」
「あん? 聞こうとしてるだろ。ほら、早く言え」
机にはペンとノートが置いてあったが、そこには何も書かれておらず、役人もペンを握って民の声を記そうという素振りをまったく見せない。何十人もの陳情を記憶できるのなら納得もするが、この役人に非凡さは感じられない。不満を覚えつつも、促されたレイナウトは要望を伝えた。
「陳情を聞くあなたみたいな人を、もっと増やしてほしいんだけど」
いつもとは違う陳情に、役人は怪訝な顔で動きを止める。
「……は? それが、お前の頼みたいことなのか?」
「長い行列に並んだのに、話を聞いてもらえない人もたくさんいるんだ。だから何度も並ばなくちゃいけなくて、皆大変なんだよ。僕も今日初めて並んだけど、全然前に進まなくてイライラした。それをなくすには話を聞く人を増やせばいいと思うんだ。そうすれば待つ時間も短くなるし、話を聞いてもらえない人もいなくなるでしょ?」
真っすぐ見つめて言ってくる子供に、役人は半笑いで言う。
「そりゃいい案だな。検討しておく。……はい、次ぃ」
「だから! 真剣に聞いてよ!」
レイナウトが食い下がると、役人は面倒そうに顔をしかめた。
「あのなぁ、そんなことできたらとっくにやってるよ。こっちにはもっと人員を割かなきゃならない仕事が山ほどあるんだ。お前達の話を聞いてる余裕なんて――」
「それって、皆の困り事なんかどうでもいいってこと?」
「そうは言わないが、優先事項じゃない」
「皆を見捨てるの? 助けられるのはあなた達だけなのに、頑張ってくれないの?」
役人は茶の頭をかき、苛立ちを見せる。
「ったく……人員を増やす話は前にも出たが、上が現状維持を決めたんだよ」
「じゃあもう一回言ってよ」
「無駄だ。決まったことは変えられない。話は終わりだ」
寄り添うことなく、一方的に終わらそうとする態度に、レイナウトは口を尖らせ、不満をあらわにする。
「何でこんなに話を聞いてくれないの? 城にいる人って皆冷たいの?」
これに役人は鋭い目付きになって言った。
「おい、それは国王陛下に対する侮辱にもなるぞ。子供だからって許されると思うなよ」
「そう思ったから言っただけだよ。陳情を真剣に聞いてくれないってお祖父様は――」
「若様! もう帰りましょう。これ以上続けても聞いてもらえるとは――」
割り込んで来たイエッテを押し退け、レイナウトは続ける。
「ちょっと静かにしてて。……お祖父様はあなたや並んでる皆のこと知ってるのかな。知ったらきっと真面目にやれって怒ると思うよ」
「そのお祖父様がどれだけ偉いのか知らないが、庶民が城の仕事に口出しできるわけがないだろ」
「できるよ。だってここの王様だもん」
「若様っ……!」
イエッテは大声を上げたものの、少し遅かった。王様という言葉に役人は眉根を寄せ、レイナウトの後ろに並ぶ民達もわずかにざわめいた。そんな不穏な空気を感じ、イエッテは焦りながら役人に言った。
「い、今のは、あくまで冗談ですので、本気には――」
「本当のことだよ。何言ってるの? イエッテ」
すかさず覆され、イエッテはもう頭を抱えるしかなかった。
「つまり何か? お前のお祖父様は、この国の国王だって言うのか?」
「そうだよ」
「へえ。となると、お前は国王陛下の孫……王子ってことか?」
「そうだよ」
淀みなく答える子供に、役人は腕を組んで鋭い視線を向けた。
「小さいから犯罪や法についてまだ知らないだろうが、民が王侯貴族と偽り騙ることは大きな罪になるんだ。早死にしたくなかったら二度と嘘を言うな」
「嘘じゃないよ。僕の名前は――」
「名乗られる必要はございません! 早く帰りましょう」
イエッテは正体がばれる前に離れようと、ためらいつつもレイナウトの両肩をつかんでやんわりと誘導しようとした。しかし嫌がったレイナウトは犬のように身体を振って手を振りほどくとはっきり名乗った。
「僕は、レイナウト・ヨス・マルト・ベルクハイデだよ」
その瞬間、並ぶ民達がさらにざわめいた。王子の名がレイナウトだと知っているからだ。そしてもちろん、役人もその名を知っている。
「……そこまではっきり王子の名を騙ると、こっちは看過できないぞ」
睨む役人の目にも怯まず、レイナウトは堂々と言う。
「僕は王子なんだってば。信じてよ」
「言い張るのか……じゃあ仕方ないな」
おもむろに立ち上がった役人は机を離れてどこかへ行こうとする。
「あのっ、どちらへ行かれるのですか!」
イエッテが呼び止めると役人は顔だけを振り向ける。
「衛兵を呼んで連行してもらうんだよ。お前も保護者だから、一緒に連れて行く」
イエッテの焦りは極限に達した。すぐ戻るはずの散歩が、まさか犯罪沙汰になるとは。彼女はどうすべきか懸命に考えるが、どうしたって悪い結果しか待っていない。ならばせめて、王子が連行されることだけは阻止するべきだと、腹を据えたイエッテは遠ざかって行く役人に大声で言った。
「そちらの態度こそ、許されるものではありません!」
意味のわからない大声に、役人は足を止めて振り返った。
「……は? 何を言ってる」
心臓をバクバク鳴らしながら、イエッテはレイナウトを示して言った。
「このお方は、正真正銘、コルネリア王女のご子息、レイナウト王子ご本人様でございます!」
並ぶ民達がどよめいた。本当かと疑う声、もう生きられないなと呆れる声など様々な見方をする視線が二人に注がれる。だが役人は疑いも呆れも通り越し、笑っていた。
「すごいな。城を目の前にして堂々と王子だと騙るやつは初めてじゃないか? そんなに死にたいなら待ってろ。すぐに衛兵を――」
「根拠もなく、なぜ嘘だと決め付けるのですか!」
「なぜって、あり得ないからだ。王子が陳情の列に――」
「つまり嘘という確実なものはないのですよね? 短絡的な判断を下せば、あなたは後悔することになりますよ。それでもいいのですか?」
「何だお前、脅してるのか?」
「いいえ。忠告しているのです。レイナウト王子を連行などしてしまったら、あなたはおそらく陛下のお怒りに触れ、命を失われるかもしれません。そうなってはこちらの気分もよくないですから」
「自信ありげによく言う。それが作戦なんだろ。だがお見通しなんだよ。悪あがきはやめろ」
城へ向かおうとする背中にイエッテは続けて言う。
「本当にいいのですか? この瞬間は、あなたの運命の岐路だと気付いていますか?」
役人は再び足を止めると、そろりと顔を向けた。その表情には若干の迷いが見て取れた。
「王子なわけ、ないだろ」
「あなたはレイナウト王子のお顔立ちをご存知なのですか?」
「いや、知らないが……」
「ならば! レイナウト王子を知る方をここにお呼びください。そうすればこちらに嘘がないことが瞬時に判明するでしょう!」
表情を歪ませ、しばらく立ち尽くして迷っていた役人だったが、イエッテに目をやると、少し弱くなった声で言った。
「……わかった。じゃあ王子を見たことがある者を連れて来てやる。だからそこで待ってろ。絶対に逃げるなよ」
「嘘のないこちらが逃げるはずもございません」
イエッテを一睨みして役人は城の通用門の奥へ消えて行った。レイナウトは何の心配もしていない様子だったが、イエッテはそうもいかない。王子本人だとわかってもらえても、その後のことを考えるとやはり憂鬱になった。こんな事態を起こしてしまい、コルネリア様にどんな処分を下されるか――イエッテの視界は暗かった。
並ぶ民の好奇な目にさらされながら待つこと五分。城から役人が出て来て二人のほうへやって来る。その後ろには白髪交じりの男性の姿があった。
「……事務長、この者です。この子供が――」
「王子! なぜこのような場所におられるのですか!」
役人が説明を終える前に、彼の上司である男性はレイナウトを見るや否や、瞠目して声を上げた。これに役人は怪しんでいた表情を一変させ、驚愕する。
「え……ええっ? 事務長、こ、この者は、本当に……」
「失礼な呼び方をするな! このお方は間違いなく、レイナウト王子であらせられる」
「ご本人、だったとは……!」
「だから言ったではないですか。レイナウト王子であると」
イエッテが胸を張ってそう言うと、役人は急に身を縮こまらせ、レイナウトに丁寧に頭を下げた。
「先ほどの非礼は、どうか、お許しください! どうか!」
「わかってくれたからいいよ。その代わり僕の話、今度はちゃんと聞いてくれる?」
「も、もちろんでございます! 誠心誠意、聞かせていただきます!」
「王子、お話をされるのであれば、城内のお部屋でぜひ。ただちにご用意させますので」
上司の気遣いにレイナウトは首を横に振る。
「ここで大丈夫だよ。他の皆と同じ、陳情だから」
「で、ですが、王子が民と同じ方法を取られる必要などないのでは?」
「皆が困ってることを話しに来たんだよ? それって陳情でしょ?」
「まあ、そうとも言えますが……わ、わかりました。ではここで私がお話を拝聴させていただきます。王子はこちらの椅子へ。粗末なもので申し訳ございませんが」
上司は役人が座っていた椅子を差し出し、レイナウトに座ってもらうと、膝を折り、真剣に耳を傾けて話を聞く。その後ろでは役人がこの世の終わりのような顔を浮かべて見守っていた。
「……うけたまわりました。王子のご要望はただちにこちらで話し合い、改善させていただきたいと思います」
この返答にレイナウトは満足な笑顔を見せる。
「お願いするね。そうすれば皆も大変じゃなくなると思うんだ」
振り返った先には、王子本人と知って距離を開けて恐縮する民達の姿があった。彼らも役人同様、その存在に畏怖して大人しくなっていた。
「このたびは本当に、お手間とご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした。この部下には厳しい処分を下しておきますので――」
「そんなことしなくていいよ。……次からは真剣に皆の話、聞いてくれるでしょ?」
「え、は、はいっ! 王子のご指摘を受け、これからは態度を改めて、心の通った対応に努める所存でおります!」
背筋を伸ばし、役人は必死に反省したことを主張する。
「だってさ。だからいいよ。それじゃあ僕達は帰るね」
「では馬車でお送り――」
「歩いて帰るから大丈夫。散歩の途中だしね。行こうイエッテ」
歩き出したレイナウトを追いながらイエッテは役人とその上司に会釈し、その場を離れた。
「あの、王子……」
行列の横を歩いていると、若い女性がおずおずと出て来てレイナウトに声をかけた。
「何?」
「私共の気持ちを察してくださり、さらには訴えてもくださったこと、心から感謝いたします。ありがとうございました」
深々と頭を下げた女性に、レイナウトは皆を助けたかっただけと笑う。そこには子供らしい純粋さと、将来を期待したくなる優しさがあった。イエッテはそんな王子の側にいられることに誇りを感じていたが、それも今日が最後かと思うと残念でならなかった。しかし王子の満足した様子を見ると、自分が後悔するわけにもいかなかった。きっとこれでよかったのだ――そう思うことにしたイエッテだった。
レイナウトは母が戻る前に帰り着いたものの、後日、城伝いで陳情の件が知られ、コルネリアには結局叱られることになった。イエッテも無断で外出させたとして、予想通り王子の側から離されることになってしまった。しかしクビにまではならずに済み、遠くからでも引き続き王子を見守れることに一安心したのだった。
城のほうはと言うと、レイナウトの願い通り、陳情を聞く役人は一人から四人に増やされた。その結果、長く伸びていた列は半分ほどまで短くなった。民の話も真面目に聞く役人が揃えられ、問題の解決に至る数は以前よりも増えていた。陳情での不満は減り、それは王子のおかげだという話が民の間でまことしやかに囁かれていた。しかしそれは、まだほんの一部に過ぎない。王子の存在は知られたばかりだ。




