十三話
数日前からダーメル王国との国境で戦が始まっていた。何の大義もない戦い……そこに国王は兵士と資金を大量に注ぎ込んでいた。どうなれば戦の勝利と言えるのか、その目標も曖昧なまま、ただひたすらにダーメル兵との戦闘を繰り返す。徴兵で働き手を奪われた町村は仕事が停滞し、稼ぎが大幅に減った。ダーメルが敵国となったせいで商品の取り引きもできなくなり、民の暮らしは日に日に行き詰まっていった。だが誰も文句は言えなかった。もし言えばたちまちスパイ扱いされ、家族もろとも処刑されるのだ。戦はしたくないと呟くことすら許されない。町を見回る警備兵がスパイ捜しと同時に民の言動を見張っていた。国中がヴェンデルへの恐怖で染め上げられていた。かつての穏やかな時間は、もうどこにもなかった。
レイナウトは城の自室で一人でいることが多くなった。部屋から出ても、周りでは臣下達が駆け回り、怖い顔の兵士がぞろぞろと歩く。そんな落ち着かない雰囲気の中で中庭に出て遊ぶ気にはなれなかった。だから部屋で静かに読書することが習慣になりつつあった。けれどまだ九歳の少年だ。時には身体を動かして遊びたくもなる。そんな気持ちを察した侍女達は代わる代わる王子の遊び相手になった。追いかけっこやかくれんぼ、英雄ごっこなどをしてレイナウトを束の間楽しませた。部屋を一歩出れば憂うばかりの状況が広がっている。それを今だけでも忘れていただきたいと、皆笑顔で精一杯接した。時にはレイナウトからの誘いで一緒におやつを食べたりし、互いに親しみを深めていった。
戦が始まって数週間後のこの日も、レイナウトはいつも通り部屋で過ごしていた。ソファーに座り、開いた本に視線を這わせている。
「……ねえヘルタ、理想郷って何?」
視線を上げると、レイナウトは壁際で控える侍女のヘルタに聞いた。
「理想郷とは、誰もが想像する、理想的で完全な世界のことです」
「完全な世界? すごくいい世界ってこと?」
「はい。苦しみ、悲しみのない、人間が幸せに暮らせる世界です」
「そっか……じゃあ、この国は理想郷じゃないんだね」
「レイナウト様……」
残念そうにうつむいた王子を見て、ヘルタは側に歩み寄った。
「残念ながら、今はそうとは言えませんが、いずれ……レイナウト様が王位を継がれた暁には、理想郷へと近付くかもしれません」
「何で? お祖父様だってできてないのに、僕ができるわけ――」
「いいえ。ヴェンデル陛下は戦を始めてしまわれましたが、レイナウト様はそんなことはなさらない。でしょう?」
「戦は……僕は、やりたくない」
これにヘルタはニコリと笑んだ。
「平和を愛するレイナウト様なら、いつか、いえ、必ずこの国を理想郷へ導けることでしょう」
「そうかな。お祖父様も、戦をやめればできると思うけどな」
「お優しいのですね……」
するとヘルタは口元に笑みを残しながらも、視線を真面目なものに変えて聞いた。
「ところで、近頃はヴェンデル陛下にお会いする機会が減って、寂しくはございませんか?」
「寂しいし、ちょっと心配してる。遊んでる時、たまにぼーっとして何にも聞いてないことがあるんだ」
戦を始めてからというもの、ヴェンデルはその指示と戦況把握に集中し続けており、孫との時間は大幅に削られていた。それでも週に一度はレイナウトを呼びはしたが、その表情は疲労が表れ、傍目にも休みが必要そうに見えた。
「でも、お祖父様はたくさんやることがあるから、寂しいのはしょうがないよ」
「戦のことで多忙を極めておいでなのでしょう。陛下の御身、確かに心配ですね。しっかり栄養は摂られているのでしょうか……」
「わかんない。昼食会も開かなくなっちゃったし……」
月に一度、家族だけの昼食会……その幸せな光景を思い返すたびに、レイナウトの胸は締め付けられ、泣きたい感覚に襲われたが、グッと奥歯を噛んでこらえた。
「……レイナウト様、しばしお待ちいただけますか?」
そう言われて、よくわからないままレイナウトが頷くと、ヘルタは小走りに部屋を出て行った。待つこと五分――同じように小走りで戻って来たヘルタは、真っすぐレイナウトの側まで来ると、右手に持ったものを差し出した。
「これは、私が作ったドライフルーツです」
言って布袋の口を開けて見せた。途端に甘い香りが湧き上がる。中にはリンゴ、イチゴ、アプリコット、ブドウなど、様々な種類の果物が乾燥させた姿で入っていた。
「昔から好物で、家で作った物を同僚達と食べようと持って来ていたのですが、次にレイナウト様が陛下とお会いなさる時に、これを持って行かれてはいかがですか?」
「美味しそうだけど、ヘルタが作ったものなら自分で食べたほうが――」
「お気遣いは必要ございません。家へ帰ればまだたくさんありますので」
「でも、好物なんでしょ? お祖父様にあげてもいいの?」
「もちろんです。陛下のお気に召されればの話ですが。ドライフルーツはこう見えても栄養価が高いと言われております。ご多忙な陛下に少しでもお元気を取り戻していただきたいのです。たとえ食欲がおありでなかったとしても、これなら少量をつまんで召し上がれますので」
レイナウトは考える。ヴェンデルはクッキーをよく食べるぐらいだから甘いものは嫌いではないだろう。ただ今は戦のせいで忙殺されている。持って行ったところで食べてくれるのか、それが気がかりだった。
「……本当に、食べてくれるかな」
「レイナウト様からの差し入れならば、陛下は喜んで召し上がるでしょう。……お持ちいただく前に、味見をなさってみますか?」
「え、いいの?」
「はい。いくらでもどうぞ。なくなればまた家から持ってきますので。さあ、どうぞ」
勧められ、レイナウトは袋をのぞき込む。甘い香りに食欲を刺激されながら、突っ込んだ手は薄切りにされたリンゴをつまみ上げた。
「これ、どんな味かな……」
期待しつつ口に入れた。カリコリと小気味いい音を立てて咀嚼すると、次第に柔らかくなったリンゴから甘味が漏れ出し、レイナウトを笑顔にさせた。
「美味しい! ドライフルーツってこんなに美味しいんだね。知らなかった」
「それはよかったです。私が好物なのもおわかりでしょう。好きなだけお召し上がりください」
美味しさを知ってしまったレイナウトは、ヘルタに言われるままに食べ続けた。その結果、袋の三分の二ほどを食べてしまい、これはさすがに食べ過ぎたと思ったレイナウトはそこで自制した。けれどヘルタはこれに喜び、次に陛下にお会いする時までに補充しておきますと、一旦袋を引き取った。
数日後――ヴェンデルに呼ばれて部屋へ遊びに行くことになったレイナウトは侍女に付き添われながら廊下を歩いていた。その右手には前日にヘルタから受け取った、ドライフルーツの詰まった布袋が握られていた。
「お祖父様、遊びに来たよ!」
ヴェンデルの部屋の扉を叩き、声をかけると、中から入れと低い声がした。侍女が扉を開けると、レイナウトだけが部屋に入った。
「今日はいいものを――」
言いかけて思わず言葉が止まる。いつもなら二人だけの部屋なのに、目の前には見慣れない男性が立っていた。ソファーに全身を預けて座るヴェンデルの傍らで、その男性は国王に心配そうな眼差しを向けていた。
「……お祖父様、この人は誰?」
聞かれたヴェンデルは重そうに顔を向けた。
「こやつは医師だ。わしは平気だと言っているのに、ずっと側を離れようとしなくてな」
「どう見ても平気ではございません。陛下は今すぐご静養が必要な状態です。疲労は万病の元なのですよ?」
辟易した目が孫に訴える。
「……こんな調子だ。お前と過ごす時間ぐらいは離れてくれと言ってくれないか」
「お祖父様が心配なの? じゃあ、一緒に遊ぶ?」
レイナウトにそう聞かれると、医師は苦笑いを浮かべた。
「お二人の憩いのお時間のお邪魔はできません……では、私はひとまず下がらせていただきます」
「呼ぶまで下がっていても構わないぞ」
ヴェンデルの言葉に丁寧に会釈をして、医師は静かに部屋を後にする。
「……やっと離れたか。心配性な医師というのは、まったく厄介なものだ」
「だけど、本当に大丈夫なの? お祖父様、前の時より痩せたみたいに見える……」
ヴェンデルに歩み寄ったレイナウトは、その顔をのぞき込む。確かに頬はほっそりとして、表情にも以前ほどの覇気は感じられない。医師が気にするのも無理はない変化がそこにはあった。
「痩せたのは食事をする時間がなかったからだ。そんなことをする暇があるなら、ダーメルより早く情報を入手し、部隊を指揮しなければな」
「でも食べないとお腹が空き過ぎて元気になれないよ? 僕、今日はいいものを持って来たんだ」
「ほお、一体何だ? 楽しみだ」
レイナウトは布袋を開け、中を見せた。
「これ、ドライフルーツだよ! お祖父様のために持って来た!」
ちらとのぞいたヴェンデルは目を細めて笑う。
「お前がこんな土産を持って来るとは珍しいな。どうやって手に入れたのだ?」
「侍女のヘルタが自分で作ったのを貰ったんだ。お祖父様に、これを食べて元気になってほしいって言ってた」
これにヴェンデルの表情がわずかに曇る。
「侍女が持たせたものというのか……お前は、これを食べたのか?」
「はい、食べたよ。すごく美味しかったから、たくさん食べちゃった。お祖父様も食べてみて。どれも美味しいから」
「うーむ、そうか……」
ヴェンデルは甘い香り漂うドライフルーツを見つめる。彼が食事時間を削ったのは何も忙しさだけが理由ではない。スパイの侵入に神経を尖らせるヴェンデルは、当然城内でも警戒を怠らない。知らぬ間に侵入されていることも想定し、自分の口に入れるものにも細心の注意を払っていた。なので安全と思えたものしか食べることはなく、突然差し出されたものを食べるなどあり得ないことだった。
しかしこれは孫が食べてほしいと持って来たもので、出所は侍女とは言え、本人が食べて味は確かめている。普段なら払い除けているところだが、家族が持って来たものまで疑うことはレイナウトを傷付ける行為でもあり、ヴェンデルをためらわせた。
「確かに、美味そうだ」
袋に手を突っ込み、干からびたイチゴを一つ取る。可愛いレイナウトの善意を無下にはできないと、ヴェンデルは口に入れた。フニャっとした食感と共に、濃い甘味が舌の上に広がる。
「……ふむ、思った以上に甘いな。だが美味しい。老体に染み渡るようだ」
「よかった。気に入った? 他のも食べてみて」
祖父のいい反応にレイナウトはさらに勧める。ヴェンデルはさらに一つ取って食べた。問題がないとわかれば、もう疑う気持ちなどありはしなかった。
「どれも美味い。レイナウトよ、お前も一緒に食べたらどうだ?」
「僕はいいよ。たくさん食べちゃったから。これはお祖父様の分だし」
「子供は遠慮などするな。さあ」
言ってヴェンデルは取り出したブドウをレイナウトの口に近付けた。ニコニコと見つめてくる祖父に、レイナウトは仕方なさそうに口を開け、ブドウを食べた。モグモグと噛めば、口中に幸せが広がって行く。
「そら、もっと食べて――」
「もういい。僕が食べ続けたらお祖父様が食べられなくなっちゃうよ。これはお祖父様のために持って来たんだから」
正直、もっと食べていたいレイナウトだったが、そんな気持ちを抑えてドライフルーツの袋をヴェンデルに手渡した。
「遠慮はいらないと言うのに……そう言うのならば、これはわしがありがたく食べよう。お前にはそこにクリームタルトを用意してある。わしの分は気にせず、食べていいぞ」
「はい! これ、オレンジクリームだね。いい匂い」
ソファーに座ると、机に置かれたタルトを一切れつかみ、ガブッと口に頬張った。そこに浮かんだ笑顔を、正面に座るヴェンデルはドライフルーツをつまみつつ満足げに眺める。
それから二人は他愛ない話や、玩具で遊んだりして時間を過ごしていた。しかしそれは扉を叩く音であっさり終了を告げられた。
コンコンと音が響くと、ヴェンデルはアプリコットを口に入れながら返事をした。
「……何だ」
「陛下、おくつろぎ中、大変申し訳ございません。作戦司令室へお越しいただきたいのですが……」
「そうか……わかった。すぐ行く」
「お待ちしております」
扉越しの臣下はそう言って気配と足音を遠ざからせた。
「お祖父様、行くの?」
寂しそうに聞いたレイナウトに、ヴェンデルは力なく微笑む。
「ああ。こうのんびりしている間にも、やるべきことが溜まっていくからな。お前と遊んでいたいが、行くしかない――」
重そうな身体を立ち上がらせ、ソファーから離れようとしたヴェンデルだったが、その瞬間、まるで重力に引っ張られたかのように床にバタリと倒れ込んだ。それに驚いたレイナウトは瞬きを繰り返しながら、恐る恐るヴェンデルに近付いた。
「お祖父様……? どうしたの?」
立ち上がる素振りはなく、ただ転んだのではない様子に、脇にかがんでヴェンデルの顔をのぞく。
「……お祖父様!」
その顔は青白く、苦痛に歪んでいた。目の焦点はレイナウトに合わず、どこか虚空を見ており、額や首筋には大量の汗が流れていた。明らかな異常――九歳の子供にはこんな時、一体どうすればいいのかわからず、泣きそうな顔で呼びかけ続けるしかなかった。
「苦しいの? 痛いの? お、お祖父様……どうすればいい……?」
目の前でおろおろする孫を見かねたように、ヴェンデルは色を失った唇をわずかに動かす。
「……誰か……を……呼び……」
かき消えそうな声をかろうじて聞き取ったレイナウトは、わかったと言って弾かれるように部屋を飛び出した。まずは待っていた侍女に、そして侍女が医師を呼びに行った。その医師が慌てて部屋に来た時には、ヴェンデルはすでに意識を失っていた。




