十話
離れの自室――そこにある文机の前でじっと座り、レイナウトはその時を静かに待っていた。机の上にはペンとインク、まっさらな紙と数冊の参考書が置かれ、すでに準備は整えられている。側にある窓からの景色を眺めながら、間もなく来るはずの教師を待ち続ける。
レイナウトは王子として様々なことを学び、身に付けるため、踊りから馬術から剣術と、それぞれの教師から日々教わっているのだが、そのうちの一人、王国の歴史や知識を教える教師が、高齢を理由に教師を引退することになり、学べなくなってしまったのだ。後任の教師捜しはすぐに行われたのだが、相手が王子とあってか、その後ろにいる国王を恐れ、皆丁寧に断りの返事をした。普通なら名誉なことと喜んで引き受けるものだったが、誰だって名誉より自分の命のほうが大事だ。意図せずとも王子にもし無礼を働いてしまえば、それだけでヴェンデルは怒り、どんな罰を与えてくるかわからない。実際王子を教える教師が厳しい罰を受けたことはないのだが、ヴェンデルが王子を溺愛していることはすでに広く知られており、そこに日頃の短気で恐ろしい印象が重なって、一度でも失敗すれば処刑されると連想してしまうのだ。なのでいくら名誉な仕事でも、命には代えられないと誰も引き受けようとはしなかった。
そんなことが数週間続いた先日になり、ようやく新任の教師が見つかって、レイナウトは学ぶ時間を得た。それが今日この時だった。新しい教師が来るということで、一体どんな人なのか、今からワクワクしつつも、母に言われた通り静かに待ち続けること二十分、部屋の扉が叩かれた音にレイナウトはすぐさま顔を振り向けた。
「待たせたわね。先生をお連れしたわよ」
扉を開けて入って来たコルネリアは、その後ろにいた教師を中へ招き入れた。
「ニールス・エフモントと申します。このたびはレイナウト様にお教えできる任を預かり、大変光栄であると共に、その責任に身の引き締まる思いでもございます」
緊張気味に、丁寧に挨拶したエフモントは、ひげの生えた口元にニコリと笑みを見せた。その見た目はいかにも教師らしく真面目そうで、年齢は王子の父ヘインと同じぐらいの三代半ばほどか。前任の教師が高齢だったせいか、三十代でもレイナウトには大分教師が若返った印象を与えた。
「そんなに硬くなっては教えづらいでしょう。もっと気さくに話しても構いませんよ」
コルネリアに言われてエフモントは恐縮したように頭を下げた。
「恐れ入ります。何分、王族の方と接するのは初めてなものでして、その、程度がわかっておらず……」
「あなたは教師で、この子は生徒、そのつもりで接してくださればいいわ。王族などという肩書きはここでは忘れてください。だからこの子がいけないことでもしたら、躊躇なく叱ってやってください」
「王子を叱るなど、恐れ多いことですが……まあ、注意ぐらいはさせていただきます」
「甘やかさず、ぜひそうしてください。……レイナウト、先生にご挨拶をして」
母に促され、レイナウトは椅子から下りて教師と向き合う。
「今日からお願いします! エフモント先生って呼んでいい?」
「ええ。好きなように呼んでくれていいよ。こちらこそよろしく」
「では頼みますね。……先生からしっかり学ぶのよ」
コルネリアは笑顔で二人に言うと部屋を出て行った。パタンと扉が閉まるのを見届けると、レイナウトは再び椅子に戻る。
「それじゃあ早速、授業を始め――」
「ねえ、エフモント先生はどこに住んでるの?」
身をよじって聞いてきたレイナウトに、エフモントはにこやかに答えた。
「家は、城下町の南にあるよ」
「生まれたのもそこ?」
「いや、生まれはまた別でね」
興味を持ったのか、レイナウトは身体の向きを変え、椅子の背もたれを抱える姿勢で聞く。
「どこで生まれたの?」
「隣国の、田舎の村だよ。……私の話などつまらないだろう。授業を始めてもいいかな?」
「待って。もう少しエフモント先生のこと知りたいよ。会ったばっかりだし、いいでしょ?」
予定の時間通りに授業をするつもりだったが、初日でもあり、王子と打ち解けるにはいいかと、エフモントは笑って頷いた。
「特に話して面白いことはないけど……」
「隣国って、ダーメル王国のこと?」
「ええ。そうだよ」
「やっぱりそうだったんだ……ちょっと違うように見えたんだよね。だから聞いてみたんだ」
ジュスクムント王国とダーメル王国、それぞれに住む民の容姿はほぼ同じで、掘りの深い顔立ちと黒や茶の髪の者が多い。一見するとどちらの国の民か見分けがつかないが、当事者同士だと、その顔立ちの微妙な違いや雰囲気でわかるものだった。
「ダーメル人なのに、どうしてこの国に来たの?」
「妻がこちらの人間でね。私はダーメルでも教師をしていたんだけど、なかなかいい条件のものがなくて、妻にジュスクムントで探そうと言われて、思い切って引っ越して来たんだよ」
「仕事のために来たんだね。いつ来たの?」
「二年ほど前だよ」
「もうこの国に慣れた?」
「ええ。妻の助けもあって暮らしにはすぐに慣れたよ。あと、こちらの伝統料理の、サケの煮込みのスープ、あれは今じゃ好物になってるよ」
「僕も好き! 夕食に時々出てくるんだ。美味しいよね。あと肉のクリーム煮のパイも好き」
「ああ、パイは確かにそうだね。ダーメルのものより美味しいかもしれない」
和やかに話していると、エフモントはじっと見つめてくるレイナウトの目と合った。
「……ん? どうかしたかい?」
「エフモント先生はダーメル人だけど、僕と同じだなって思って」
「国は違っても、二つの国は隣同士で、似た文化を持っている。共通することは多いだろうね」
「ダーメル人はいい人、だよね?」
「全員とは言い切れないけど、それはどの国でも言えることだ。少なくとも私はいい人であろうとはしているよ。……どうしてそんなことを聞くんだい?」
レイナウトは背もたれに顎を載せて言う。
「お祖父様がダーメルのことを嫌ってるんだ。油断するなとか、仲良くするなとか、僕にそう言ってくるんだ。他の皆はそんなこと言わないのに、お祖父様だけそう言うの。ダーメルが攻めて来るって」
「陛下が、そんなことを……?」
故郷への隠しもしない敵意に、エフモントは複雑な表情を浮かべる。
「ダーメルの人達は、本当にここに攻めて来るの?」
心配そうに聞くレイナウトに、エフモントは首を振って強く否定した。
「そんなことはあり得ないよ。争っていたのは昔の話だし、今は友好関係を築けている。ダーメルが戦を仕掛けるなんて考えられないことだよ」
「でもお祖父様はそう言ってるんだ。ダーメル人のエフモント先生がそう言うなら、攻めて来ないと思うけど、お祖父様は来るって思い込んでる。どうにかそれを直せないかな? ダーメルの人達はいい人で、仲良くしてくれるってわかってもらいたいんだけど……」
「陛下は、いつからそのようなことを口に出されて?」
「わかんないけど、母上が言うには、もう昔からダーメルのことは嫌ってたみたい」
「昔から、か……陛下はダーメルとの戦をご経験なされている。その影響があるのだろうね」
「今は仲良しなのに、何で今のダーメルの人達を見ないんだろう。悪いことなんてしてないのに……」
ふぅ、と小さく息を吐いて悩むレイナウトに、エフモントも悩む眼差しを向けて聞く。
「陛下のご気質は、巷でもよく耳にしている。真実かどうかはわからないけど……」
「皆は何て言ってるの?」
迷い、ためらいつつも、エフモントは言った。
「その、決断などはお早いものの、やり方は荒っぽく、少々恐ろしいと……」
気を遣い、かなり抑えた表現にしたが、レイナウトは疑問もなさそうに頷いた。
「そうかもね。民のことはあんまり考えてないし、よく怒鳴って怒るから怖いかもしれない」
「お気の短いお方なのだろうか?」
「だと思う。でも僕には優しいよ? 怒らないし、一緒に遊んでくれるし、全然怖くないよ」
「王子のことを深く愛しておられるからだろうね」
「皆にも、ダーメル王国にも、僕みたいに優しくしてくれればいいのに。……ねえエフモント先生、お祖父様と話してみてくれないかな? そうすればダーメル人はいい人だってわかってもらえると思うんだけど」
これにエフモントは苦笑いを浮かべた。
「私なんかが陛下とお話しするなんて、おこがましいことだよ。それよりも王子、あなたがお話ししたほうがいい」
「僕? 話して聞いてくれるかな」
「愛している王子の言葉なら、陛下はきっと聞いてくださるよ。これまで頼みや願いを言ったことはないのかい?」
「あるよ」
「それはすべて、聞いてもらえた?」
レイナウトはコクリと頷く。
「ならダーメルのことも、話せば聞いてくれるだろう」
笑いかけたエフモントに、レイナウトは首をかしげる。
「そうかな……お祖父様はダーメル王国のこと、敵みたいに思ってるんだ。僕の話だけでやめてくれそうにないけどな……」
敵と聞いて、エフモントの頭には嫌な想像が浮かぶ。
「私はダーメル王政に関わる人間じゃないけど、もし民の交流時や国境などで間違ったことが起これば、陛下はさらに敵意を強めるだろう。それが丸く収められなければ、最悪、戦が始まることも考えられる」
「戦? ダーメルと戦うの?」
不安げな顔のレイナウトにエフモントは微笑む。
「最悪の場合だよ。今はその可能性は低い。でも、陛下がダーメルを強く疑い続ける限り、その可能性は消えないだろう。戦など、両国の誰もが望まないことだ。しかしヴェンデル国王が決めれば、宣戦布告はいつなされてもおかしくない。その時、それを引き止められるのは、陛下に愛されている王子、あなただけだと思う。危険な未来を招かないために、今から陛下のお気持ちを変えて差し上げる必要があるだろう」
「ダーメルと、戦しないように?」
「ええ。このまま、お互いに友好関係を築けるように、過剰な警戒心を解いていただく……王子ならそれができるはずだよ。いや、ぜひそうしてほしい。ダーメル人として、陛下に敵とみなされるのは悲しいことだからね」
「そうだね。仲良くしたいのに、敵って思われたら悲しいよね……次にお祖父様と会ったら、ダーメルの人達と仲良くしてって言ってみるね」
「お願いするよ。友好を長く続けるために。……じゃあ、そろそろ授業を始めようか」
「はい。歴史だよね? 僕が教わったのは、この本の――」
レイナウトは椅子に座り直すと、机に参考書を広げ、横に来たエフモントに見せた。そうして始まった授業は休憩を挟んで二時間ほど続けられた。王子の家庭教師になるという大変な名誉は、エフモントを大いに意気込ませた。週に二度の授業は彼の教師意欲を高め、彼自身もこの時間を楽しみに日々を過ごしていた。
だが、それはあまり長く続くことはなく、突然の終わりを迎えるのだった。




