第9話 臨時秘書仕事開始
家出 2日目。
目覚めると見知らぬ天井に由華里ゆかりは眉根を寄せた。
―おはようございます由華里様。お目覚めのお茶をお持ちいたしました。
見知らぬ女性がにこやかに微笑みながら、起き上がった由華里の背にクッションを手際よく入れ、目の前に薫り高いお茶が置かれたトレーをしつらえる。
…何?これ?
由華里は額に手を当てた。
―えええと・・・えーと…クラリサ?
―はい!クラリサです。名前を覚えていただけ嬉しいですわ!
クラリサが、にこやかに朝の挨拶と共に微笑みながらカーテンを開けた。その非日常的な光景を見ながら、由華里は朝からどっぷりと疲れが出るのを感じ嘆息した。
―あのー、お茶は嬉しいけど…私、バスルームに行きたいの。
―まあ!失礼いたしました。
さささっとトレーを下げるそばから、ぴょんと由華里はベッドから降りるとダッシュでバスルームに駆け込んだ。ドアを閉めようとした瞬間、ばしゅ!と手が入り込み、ぎゃあ!と由華里はドアを締めるのを止めた。
―危ないじゃない!
にこやかに笑いながらクラリッサはドアをこじ開けようとする。
―何するのよ!
―お支度を…
―シャワーくらい自分でできるわ!昨夜みたいに洗おうとなんてしないで!
―タオルをおそばに…
―タオルは十分あるから!手を!手を離して!あ!木暮さん!
叫んだ瞬間にクラリッサの視線と意識がそれ、由華里はスキを逃さずドアを締めて鍵をかけた。
夕べは散々な目に遭った。
問答無用でバスルームに連れ込まれた後は、殆ど二人の連係プレーで服を脱がされ、バスタブに押し込まれた。
体を洗うと腕まくりする二人に必死に抵抗して、なんとかバスルームから叩きだしたが、次に着替えだと下着を持ち外で待っていたのにはぶっ倒れそうになった。
それもなんとか下着を取り上げ、着替えて部屋に戻ると、今度は断固として笑っちゃうくらい巨大なドレッサーの前に座らされがっちり身支度させられた。
どこの王族よ!!
そしてよろよろとダイニングルームに行くと、どこが軽い食事なんだ!!と、思わず叫んでしまうほどのフルコースの料理が用意されていて、由華里はブチ切れてしまった。
「夜遅くにこんなに食べれるわけないじゃないの!!!」
でもアニカの悲し気な顔に、由華里は結局しぶしぶ夕食を一緒に取る事にし、もうヤケで飲んんだワインが回って…
あとは記憶がない…。
だがいつの間に寝間着に着替えているという事は…
サーーーーッと青くなりながら、由華里はこれ以上失態は起こせないと身構え、そして手早くシャワーを浴びて準備を整え、用意しておいた着替えに手を伸ばしたが…
無い!!!
愕然とし慌ててバスローブを着てバスルームを出てくると、既にそこにはクラリサとマギーがスーツ等の準備を整えにこやかに微笑んでいた。
由華里は半分悲鳴に近い声を挙げた。
「今朝も着替えごっこする気なの!?」
日本語で叫んだのに、二人はにっこりと微笑みにじり寄る。
―仕事ですので。
由華里も英語で返す。
―私の下着を返して!着替えくらい自分でできるわ!
―ですが私達の仕事ですので。由華里様。
―いいから返して!!下着だけでもいいから!
二人は焦る由華里の言葉ににっこりと笑うと、ピンクの籠に綺麗に並べられた(商品みたいに人の下着を並べるな!)下着を差し出した。
それをひったくるように受け取り、バスルームで身に着けていると、ばたん!とドアが開き二人が洋服を手に持ち侵入してきた。
悲鳴を挙げる暇もなく、由華里は問答無用で再び彼女達に掴まってしまった。
まるで誂えたかのようなスーツだ。
由華里は大きな鏡の前に映る完璧なスーツ姿にめまいを起こしそうになった。いつの間にこんなの用意したの?私の持ち物じゃないわ!!
―由華里様、これをアー…ええと…コ…コグレ様から朝食前に目を通しておくようにとのことでございます。
問答無用で座らされてたドレッサーの上にある、金色のバラ模様のトレーの上に乗せられたA4サイズのタブレットを受け取り目を通した。
「な!!!なんなのこれ!!」
最後のピンを髪に留めているマギーに、ありがとう!と叫んで由華里は部屋を飛び出した。廊下に出ると、待っていた別のメイドがダイニングルームへ案内をとお辞儀をする。
一体何人メイドがいるんだろう!?
朝から由華里はクラクラしだした。
テーブルには既に朝食の用意がなされており、アニカが眩しいほどの笑顔で朝の挨拶をすると、にこやかに椅子を引く。
「あ…ありがとう。アニカ!それより木暮さんは?」
「アー…Mr木暮はまだお支度中かと。何かありましたか?」
メイドが料理を並べて行く間に、由華里はタブレットをアニカに差し出した。
「これ!どういうこと?!」
「は?あー、これは由華里様の雇用契約書ですね。英語で記載されているので読めませんか?」
「読めます!だから聞いているの!」
「なにか問題が?」
「この報酬額!!おかしいじゃない!!!」
叫ぶ由華里の後ろから、涼しい声が聞こえてきた。
「報酬額が足りませんか?」
振り返るときっちりとした仕立てのいいと一目でわかる高級スーツを着込んだ木暮雅人が現れた。
アニカが立ち上がり一礼する。由華里も立ち上がり彼女に習う。木暮はぎゅっといきなり由華里を抱きしめると、「おはようございます」と頬にキスをして、由華里の席を引いた。
「何するの!!いきなり!」
由華里は頬に手を当て、ひきつった。
「おはようございますの挨拶がそれですか?」
おかしそうに言う木暮雅人に、由華里はむっとしながらもにこりと微笑んだ。
「おはようございます。御機嫌ですね」
後半は嫌味を込めて言い放った。
「ええ、今朝もいいお天気ですね。由華さんは如何ですか?先ほど貴方の部屋のほうから何か珍獣の雄叫びみたいな声が聞こえましたが?」
ククククッとアニカが笑うのを、じろっと睨んで由華里は憮然と彼が引いた椅子に座りなおした。
「で?雇用契約書に不備でもありましたか?」
「あるもないも!この報酬額は異常です!」
二人は契約書をしげしげと読み返した。そしてキョトンとしたように言う。
「「日本の雇用基準では時間給3万円では足りないでしたか?」」
由華里は開いた口が塞がらなかった。そしてはあああ~~と嘆息して額に手を当てた。
「木暮さん…アメリカの雇用基準がどれくらいかは知りませんが…日本では時間給3万円はありえません」
「10万円なら標準ですか?」
「なんで三倍以上に跳ね上がるんです!!多すぎると言っています。こういう場合は桁が一つ多すぎます」
「なるほどわかりました。では後で金額を修正させましょう。まずはここにサインをしてください」
「3万のままですけど!」
「我々は構わないのでいいではないですか?」
「そういう問題!?」
「とりあえずです。私はお腹が空いていますし、給仕の者達が困っています。それに衆目の前で朝からお金の話などいかがなものですかな?」
後ろに銀のトレーを掲げて控える給仕たちを示すように視線を向け、木暮雅人はにっこりと笑う。
ダメだ。これは話を進展させる気が向こうに全然ない。
由華里は嘆息し、ちゃんと言いましたからね!と言いながら、椅子に座りなおした。
アニカは後ろを向いて笑いっぱなしで、木暮雅人は上機嫌で給仕達に合図を送る。
「由華里さんはスクランブルエッグがお好きですよね?」
「そうですけど…なぜ知っているんですか?」
「昨日話しましたよ?」
目の前の出されたふわふわのスクランブルエッグににこりと微笑みながら、由華里はそんな話をしたっけ?と、はたと考え込んだ。
「記憶にありません」
「貴女は酔っぱらっていましたからね」
ぐうの音も出なかった。
「どうしましたか?食事はお口にあいませんか?」
「いいえ。とても美味しいです」
(Fホテルのルームサービスの朝食よ!美味しくないわけないじゃない!)
「それは良かったです。では早速ミーティングをしてしまいましょう」
流石、少しの時間も無駄にしないのねと感心しながら、由華里は渡されたタブレットに再び目を通しながら、紅茶を置いた。
「お話を遮るようですみません。先に呼び方を。木暮様でよろしいですか?」
「雅人で」
にこりと言う雅人に、アニカが後ろを向いて笑いをこらえる。なんで笑うのか不可解に思いつつ、由華里もニコリと微笑み返す。
「木暮さんで?」
ふむと、彼は顎に手をかけ考え込んだあとに、にこりと笑って言う。
「この際ですからいいましょう。私の名前は木暮雅人ではありません」
「は?でも車の中に名刺が…」
「あれは違う名刺です。私の名前は…正式にはアーネストです」
ああ!と、由華里は急に合点がいった。昨日から周囲の人たちが「ア…」と言ってから「木暮雅人」と言い直すことに。
「日本では木暮雅人さんの名前で通されているんですね?アーネストと言う名前が一般的ではないので?」
アニカと木暮雅人は視線を合わせ、そしてゲラゲラと笑い出した。
「な…なんなんですか???」
「なんでもありません。あー…まあ…そうですね。今は、木暮雅人で統一しています。(貴女の)混乱がないように」
「はあ?」
「なので、周囲でも私の事をアーネストと呼ぶものも出ますでしょうから、お気になさらないように。また由華里さんも好きな方で好きなように呼んでください」
由華里は小首を傾げて言う。
「では…木暮さんでいいでしょうか?もうそうインプットされているので」
木暮とアニカは了解したと頷いた。
「それで、私は木暮さんのお仕事内容を伺っておりません。先の(とんでもない)契約書によると、アメリカのウィルバートン・グループの子会社の一つである、Hグループの臨時秘書としての契約内容となっていますが、細かい仕事内容を聞かせていただいてよろしいでしょうか?」
アニカがビジネスの顔で笑みを向ける。
「由華里様は」
「様?」
「いえ、由華里の仕事は主に木暮雅人様のサポートです。この国の流儀に不慣れな小暮様のサポートをしていただきます。
確かに日本語も堪能で基本的なマナーもご存じですが、やはり細かい所で差異が出ますので、その補正をしていただきます。
また、ア、木暮様の秘書が来るまでの私のサポートも」
「ブレーンのアニカのサポートを?私が?」
「私は完璧に日本の事に不慣れですので」
「成程。了解しました。あと、後から来る秘書の方達は何時頃こられるのですか?つまりは大体の雇用期間をしりたいのです。私も来月から新しい仕事場で仕事をしますので」
アニカと木暮雅人はちらりを目くばせを交わし、そしてアニカがにこりと説明する。
「アー、木暮様の直属配下に4人のブレーンがいることは説明しましたね」
「はい」
「ウイル、ニック、デニスと私の4人。他にも専門部門のブレーンはいますが、アー、木暮様をトップに私達4人、以下配属の者達でカンパニーを支えている感じですね」
「木暮さんはCEOなのね」
「そうですね。複合的カンパニーになりますので、どの分野のというカテゴリーには分けられません」
「わかりました。特に特殊なことはなく秘書の延長の認識で大丈夫ですね」
「大丈夫です」
「期間は彼らが来るまでの間、もしくは我々が離日する日まで。日本滞在は10日~2週間を予定しています」
「長いんですね」
「本来はMr木暮は休暇で来日いたしましたので。休暇期間としては短いでしょう。ですが、まあ、どうしても仕事も入りますからね。昨晩のように」
成程と由華里は頷いた。よくある話だ。
「なので、Mr木暮は秘書などを同行していませんので、それで由華里と私で臨時秘書をします。スケジュール調整は私達がしますので、由華里はそのサポートということです」
「わかりました」
では、よろしくお願いいたしますと、3人は立ち上がり握手を交わす。
そして由華里はニコリと二人に笑みを向けてきっぱりと言う。
「ではもう一つの質問を。あの二人はなんなのでしょうか?契約書には記載されていませんでした」
「二人?」
「クラリサとマギーです」
「ああ、貴女付きのメイドですね」
「私は私付きのメイドなどお願いしていませんが?それに秘書にメイド付きってあり得ないでしょう?」
「そうですか?」
「そうです。じゃあ、アニカにも専属メイドがいるのですか?」
「私?いませんよ。身の周りの事は一人でできますから」
「そうですよね!!なのに何故?」
かちゃりとコーヒーカップをソーサーに置き、静かに木暮雅人が言う。
「私が指示しました」
「ではその指示を外してください」
「それは出来かねます」
「何故ですか?」
「彼女達の仕事ですから」
「貴方のメイドでしょ?」
「ええ。当家のメイドです。ですが今は由華里さん専属です」
「私も一人で着替えができますから不要です」
「着替えだけでなく様々な世話をするのが彼女達の仕事です。他にもできますので命令してください」
由華里は朝から血管がブチ切れそうになった。
「ここ…ホテルですよね?」
「そうですね」
「部屋のクリーニングもサービスもホテルでしてくれますよね?」
「そうですね」
「だから二人は不要だと私は思います」
「では」
木暮雅人はにっこりと笑う。
「ご自身で仰ったら如何ですか?二人に不要だと」
バン!!!と由華里はコーヒーがひっくり返りそうな勢いでテーブルを叩いた。
「そんな事言えるわけないじゃない!!!」
「どうしてです?」
「雇用主は私ではありません。あなたでしょう?」
「彼女達には貴女の指示に従うようにいってあります。なので貴女が言うべきでしょう」
「あなたの言っている事の訳がわかんないですけど!!」
―英語で言いましょうか?
―ドイツ語でも英語でもフランス語でもおんなじです!!!
―アハハハハハハハハ
―笑っている場合!?
「あのー?」
睨みあう二人の間に入るように、アニカはおかしそうに言う。
「本日の予定を申し上げたいのですが?時間がないので」
由華里は席に座りなおした。アニカはおかしそうに笑いを堪え、そして予定を読み上げ始めた。
「由華里さ…由華里には本日から秘書としての仕事をしていただきますので、簡単に本日のアー…木暮様の予定を説明しますね」
アニカは淡々と時系列に分刻みの様な予定を述べていく。由華里は驚きながらも、一つの事実に気付いて愕然とした。
「待って!午後6時30分にH国大使館でパーティー?つまり…今夜もディナーをしないという事!?」
引っかかるのはそこか…と、木暮雅人とアニカは苦笑した。
「もちろんです。普通、パーティーの後にディナーはしませんよね?」
由華里はむっとした。
「それは昨日聞きました!!」
アハハハと木暮雅人はおかしそうに笑う。
「各会議の資料はそれぞれファイルごとに分類されています。由華里のアカウントも追加してありますので、後でパスワード等変更してください。やり方はそのファイルに。
ええ、それです。」
次々とされるアニカの指示と説明についていくのが必至で、由華里はにこにこしながら上機嫌で二人の様子をみている木暮雅人の様子を見る余裕もなくなっていた。