第17話 お母さんはお母さん
ぼんやりと自分のサロンのカウチから庭を眺めていると、携帯電話が鳴った。母親の華代だ。電話に出ると華代が明るい声で出た。
―由華里?元気そうね。
由華里は苦笑した。
ガーデンパーティー事件、ラディナ事件は瞬く間に地球の裏側の日本にまで瞬時に広がった。由華里を心配した母親の華代は、こうしてほぼ毎日のように電話をかけてきくてれる。
華代も忙しいだろうに、時間を見つけては電話をしてくれる母の愛に感謝をした。
「ありがとう、おかあさん。今日も無事に家でのんびり庭を眺めているわ」
―きちんと食事はとっている?
昨日のニュースでどこかの富豪の葬儀に出ているあなたをみたけど、少し瘦せたわね。
由華里はくすっと笑う。みんな、食べろ食べろと煩く言う。そんなに痩せたかなあと思いながら、なんの気なしに腹部を撫でた。
「食べてます。そりゃあ、ラーナの管理は徹底しているし、アーネストもマークもうるさいし。外にたまーに出れば、初対面の人でも、食べろ食べろと煩いからね。お母さんがメイルに送ってくれた懐かしい和食レシピのお陰で、最近は食が進んでいるのよ」
―それはいい事だわ。みなさんに感謝しないとね。
「そうね。お母さんもありがとう」
二人はひとしきり他愛ない近況を話す。
たった1日や2日足らずの間の事だが、華代は相変わらず忙しそうに動き回っているらしく、父親も弟もお手伝いの安子さんも元気だという。
暫く話して、ふと会話が途切れた時、華代は少し黙り、そして優し声で言う。
―由華里
「なあに?」
―家でごろごろしているのなら…日本に1度里帰りすれば?
「え?」
―あなた、去年にアーネストさんと駆け落ちしてから、とんと日本に帰ってきていないじゃない。忙しかったので言いませんでしたけど、暇なら戻ってきたら?
由華里は唖然とした。
「そんな簡単には」
―あら、今は自由時間が沢山あるのでしょう?
ラーナさんに頼めば、あっと言う間に時間を作ってくださるわ。
いい機会だから、戻ってらっしゃい。
日本に。
桜はもう終わったけど、まだ残っている場所もあるし。見に行きましょう。
桜…
満開の薄紅色の可憐な花。枝いっぱいにたわわに咲き誇り、風に揺られて舞い散る美しい…桜…夢のようなあの光景。
「見に行きたい…」
そうつぶやいた自分にぎょっとして由華里は被りを振る。そんな事できるはずもない。それを見し越したように華代が言う。
―帰ってらっしゃい。
私達はあなたをいつでもまっている。
ここでまっているわ。心配しないで、
帰ってらっしゃい。
華代の優しい言葉は桜の花びらの様に由華里の心に降り積もり、由華里は目頭を押さえて、何度も「うん、うん」と呟き、ありがとうと言い電話を切った。
そして声を押し殺してカウチに顔を押し付け、号泣した。その由華里の上に優しい母親の言葉が桜の花びらのように降り積もる。
優しく優しく。
そのまま寝落ちしたらしく、カウチの上から由華里は身を起こした。
誰かが欠けてくれたらしい柔らかなラベンダー色のブランケットから、ふんわりと柔らかいラベンダーの香りがして顔を綻ばせた。
みんな自分を心配してくれている。いつまでも落ち込んでなんかいられない。少しづつでも前進しないと。由華里はそう思いながら、再び襲う眠気にあくびをしてまた横になった。
どこか開いている窓から、春から初夏に向かう風が流れてくる。
誰かが笑っている気がする。
誰かが…すぐそばで、くすくす笑いながら由華里を見上げている。
幸せな声。
くすくす笑いながら…囁いている。
ここだよ…ここにいるよと囁く。
どこ?と、伸ばす由華里の手は空を掴み、そして茫漠とした悲しみが胸に広がる。だけど声は囁く。
泣かないで…ここにいるよ…そばにいるよ…
だから泣かないで…
見つけて…。
不意に由華里は目覚めた。何か暖かな幸せを掴みかけて、手放したような寂しさが広がる。でも大丈夫と誰かが囁く。
大丈夫。僕たちはここにいるよ…
なんの声だろう?由華里は声を探しに、起き上がり、庭に出ると、森の方へと歩き出した。誰もいない森。トッドはまだ病院にいる。あそこに行っても誰もいない。
誰もいない。
茫漠とした悲しみが由華里の身を吹き抜ける。ただただ悲しみだけが吹き抜ける。
その後ろをマークとシーザーがそっとついてくるの気づかずに。
屋敷から、ずっと由華里を心配そうに見ているアーネスト達に気付かずに。




