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海を越えた梢の花とウィルバートン家の呪い  作者: 高台苺苺
第3章 いつもと同じ朝を貴方達と共に・・・
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第13話 ロスの遺言


 キーナの街とラディナの一件以来、由華里は変わった。


 瞬く間にウィルバートン夫人の鎧を纏い、笑顔を顔に張り付けるように浮かべて微笑む。感情の無い瞳で。

 もう社交界の付き合いに参加するのを嫌だとは、我儘も文句も一言も言わない。黙って義務として淡々とこなす。


 無感情に。言われたままに。人形の様に。全ての感情を殺して。人々が望むウィルバートン夫人らしく堂々と振舞う。


 それを自分が望み強制した事の結果とはいえ、アーネストは心中激しく苦しんだ。


 由華里は自分を覆い包むウィルバートンの名の力の大きさに畏怖し怯え、その気持ちすら封印してしまったかのように感情を出さない。


 笑わない。


 ロスのバースデー・パーティーではエレノア達と談笑していたが、その後は気づくとぼんやりと窓の外を眺めるだけの由華里だった。


 話しかけても、少し怒らせるような事を言っても、微笑を浮かべた無表情な顔を向けるだけ。


 こんなに苦しむ由華里を見たかったのではない。全てを諦めたかのような由華里の姿に胸が掻き毟られる。その苦しみから解放する術を誰よりも理解していながらも…


 アーネストはそれを選ばない。選べない。選ぶことはできない。

 まるで退路を断たれた袋小路に追い詰めらた現状打破を彼は思案し続けた。


 ふと庭を見ると、とぼとぼと歩いていく由華里の姿が見えた。まるでそのまま庭の消えてしまいそうなほどに影が薄い。アーネストは自分の執務室の窓を開け、由華里に声を掛けようとしたが、ドアをノックする音に振り返った。



 久しぶりのオフに、一人で街に出た由華里はサロンで知り合いの夫人達に捕まり談笑をしていた。他愛無い噂話、興味を引かないゴシップ。そして御多分に漏れず、自分に関わるゴシップの質問。


 下らない…。


 薄く笑う由華里の耳元に、一人の夫人がそっと囁く。アンナとアーネストの間に経つ噂を。意地悪く。


 それを由華里は右から左に流して笑う。下らないと笑う。それを可笑しそう一蹴する…笑う自分が


 酷く嫌だった。


 アンナとアーネストの噂が流れ始めたのは、キーナの一件とほぼ同時だった。まるで罰を与えられたかのように。多分罰なのだろう。今まで我儘にウィルバートン夫人としての責務から逃げていた自分への。


 誰かに罰を課せられた方が気が楽だ。

 そう思うせいなのか、雑誌やタブロイドにネットに流れる、親密そうに抱き合う二人の写真に、由華里はなんの感慨も湧き起こらない自分に驚いていた。


 自分の心が酷く乾いて干からびていると…それが辛く感じるだけ。

 なんだか…全てがどうでもいいような気がする。

 自分がどう思うが怒ろうが悲しもうが、そんな事お構いなく全ては淡々と進んでいく。


 そう…自分がいようがいまいが…物事は変わらない。


 帰宅をしても部屋に戻る気がせず、そのまま庭に出てゆっくり歩く。こうして庭に出るのも、トッドの元に向かうのもなんだか久しぶり。


 だが、温室には誰もいない。誰も。彼の小屋のドアを叩くが出ない。まるで彼自身が最初からいなかったかのように。


 とぼとぼと屋敷に戻ると、テラスにアーネストが立っていた。彼は沈痛な面持ちで由華里を見た。


「こんな時間に…どうして家にいるの?」


 不思議そうに見上げながら尋ねる。アーネストは苦しそうに言う。


「そのままでいい。直ぐに出かけます」


 またウィルバートン夫人として?薄く由華里は笑う。


「支度をしてくるわ…」


 由華里の腕を掴み、アーネストは顔を自分の方に向ける。感情のない瞳がアーネストを真っ直ぐに見る。その目を見下ろして静かにアーネストは言う。


「連絡が入りました。ロスが死の淵で…貴女を呼んでいます。急いで。時間が無い。そのままでいい。行きましょう」

 


 遠雷が遠くで鳴った気がした。


 アーネストの声が…遠くから響く。不安な黒い影を連れて。足が震えだし、身体を抱きしめて由華里はエントランスに走りだした。


 ああ!なんでこんなに悪い事は続くのだろう?

 なんで神様はこんなに過酷な試練をあたえるのか?


 ラスマス邸に向かう車の中で、窓に額を押し付けて由華里は震えていた。


 死なないで…ロス。


 だが、案内された寝室で、ロスは既に死神の手を取った事を由華里は悟った。

 数日前の誕生日パーティーで会ったロスとは思えない程にやつれた彼の手を取り、由華里はエレノアに促されるままに彼の傍らに座った。


 薄く、ロスが目を開けて笑う。微かに手を握る。


「由華里…きてくれたのか…すまないな…こんな老人の我儘を聞いてくれて…」


「ロス…何を言っているのよ。私達、結婚披露宴パーティーでシャンパンを振り回した仲間じゃない。なにつまんない事言うのよ」


 くだけた物言いの由華里の言葉に、ロスは懐かしそうに笑った。


「おお!おお!あれは楽しかった。いい余興だった」

「もお…ロスったら…あの後大変だったのよ。ラーナに怒鳴られ、アーネストに叱られ…」


 ロスの目が少し悲しげに光った。


「由華里…なんで…木暮と呼んであげない?」


 ロスの言葉に、ハッ!と胸を突かれた。優しい瞳でロスが見つめる。心配げに。


「由華里…自分の苦しみや悲しみに囚われるな…

 見失うな…

 大切な物を…失うな…

 由華里が悲しめば儂もエレノアも悲しい…

 由華里が苦しければ…等しく儂らも胸を掻き毟られる…

 儂ら以上に…

 由華里以上に…

 苦しみ悲しむ者を見失うな…」


「ロス?」


「…それだけが心配だったんだ…エレノアが…心配していて…エレノアを悲しませないでくれ。

 儂はもうエレノアを笑わせることができない…

 だから…

 由華里…

 エレノアに二人の子供を見せてあげてくれ…

 儂はそれを楽しみにしていた…

 もう見ることは敵わないが…

 エレノアが…


 後で教えてくれると約束してくれた…


 だから…」


 深く息を吸い、ロスは苦しげに息を吐いて、由華里の後ろに目を向ける。


「…後ろを…振り返って…見なさい…大切な者を…見失うな」


 ロスに促され振り返ると、そこには鎮痛な面持ちのアーネストがいた。いつもの彼。ウィルバートンCEOとしての凛とした彼。


 違う。

 そうじゃない。

 

 ダブるように見える本当の姿は、深い悲しみに暮れるアーネストが立っていた。

 まるで深い闇の森の中で蹲る子供のように不安と悲しみと苦しみに囚われた彼の姿。

 誰にも見せない…弱い彼。

 自分にしか見えない本当のアーネスト。


 その不思議な色の金茶の瞳が、苦しげに由華里を見ている。黙って。

 自分を見守り続けている。


 ロスの手を握りしめると、ロスは軽く指で由華里の手を叩く。それが限界だと言う様に。医師が由華里を立たせ、由華里とアーネストは別れの言葉をかける。ロスは微笑んで言う。


「いい人生だった…ありがとう由華里…

 ありがとう…アーネスト…由華里を連れてきてくれて…」

 

 二人はロスを抱きしめ、エレノア強く抱きしめ部屋を出た。

 それが…ロス・ラスマスとの永遠の別れとなった。


 数日後、稀代の大投資家ロス・ラスマスは大勢の子供と孫と最愛の妻、エレノア・ラスマスに看取られて…永遠の旅に出た。

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