第16話 呼ぶ声とインドネシアの苦々しい思い出
誰かが呼んでいる…。
由華里は目を覚まし、ベットの上に起き上がった。静かな夜。波の音と静かな風の音…そして木々の外れの音がまるで夢の様に響いてくる。もしかしたら夢なのかもしれない。由華里はぼんやりとした感覚の中でそう思った。
開く掌に写る青い月の光も、隣で規則正しいく寝息を立てているアーネストの寝顔も、なんだか不確かな夢の様な気がする。夢かもしれない。南の島の凪が打ち寄せては消えるように寄せる夢…。
誰かが呼んでいる。
由華里は自分をしっかりと抱くアーネストの腕を外して、ベットから降りると白いレースのカーテンが揺れるテラス窓へと出た。広いテラスは海に向かい楕円形に広々と広がっている。
白いクッションが置かれた籐のソファーのヘリに手を置いて、由華里は蒼い静かな月の光に揺らめく夜の海を見つめた。
誰かが呼んでいる…。誰を?私を?誰を?
遥か沖の瞬く波間の白い輝き。潮風にのって囁き木々と花々の囁き声が心の奥に響いて行く。不安な感じではない。
何か懐かしい感じ。優しい声。
それでいてどこか…悲しい声。
低く優しく響く声…。
「由華里さん?」
アーネストの声に由華里は目を覚ました。薄い月明かりの闇の中で、アーネストの金茶の瞳が心配げに見下ろしている。
「え?ど…どうしたの?」
優しいキスの後に、アーネストの指が由華里の頬に伝わる冷たい物を拭った。
「え?泣いていたの?私?」
不思議そうな顔をする由華里に、アーネストはほっと安堵して抱きしめた。
「魘されていた?」
「いいえ。随分と昏々と泣いていたのでどこか具合でも悪いのかと心配しました」
「…私…夢を見ていたの」
「夢?どんな夢ですか?」
遠くから聞こえる潮騒の音の耳を済ませながら、由華里は首を傾げるようにしてアーネストの胸の顔を押し付けた。
「…わからない。何か少し…悲しい夢。誰かが呼んでいたような気がする」
「誰が?」
「…わからない。誰か…優しい声の人。とても切ない声で誰かを呼んでいた。違う…何かを語りかけていたような…そんな感じの声に悲しくなったの」
ふうと溜息を着いてアーネストは由華里の長い黒髪を撫でた。
「疲れがでたのでしょう。この4か月間様々な事で駆け抜けるように走ってきましたからね。昼間の暑さと、ここの解放感で気が緩んだのかもしれませんね」
「…そうかも…あのね、木暮?」
「はい?」
「明日…朝の海に出ていみたいな」
瞬間にアーネストの身体が強張るのを感じ、由華里は今自分が何を口を付いて出したのかに気付いてぎょっとした。
なぜそんな事を口を着いたのか自分でもわからなかった。言わない様に考えていたのに。上手く切りだそうとしていたのにどうして唐突に?
あの呼び声のせい?
だが、直ぐにアーネストの優しい声が囁くように言う。
「…朝の海は大変美しいです。いいですよ。朝日を見に行きましょう?」
その顔を月闇が影を落すように隠した。
「ホントに?」
「ええ」
携帯電話をサイドテーブルから取り上げ、直ぐに彼は翌朝の船の手配をした。その手際の早さに由華里は驚いた。
「誰に電話したの?」
「ここは私達の島ですからね。24時間全て私達の為に動けるようになっています」
「…なんだか凄い事言うのね。映画か何かに出てくる物凄い富豪みたい」
ハハハハと月闇の部屋にアーネストの笑い声が響いた。
「だから私は富豪ですよ」
心地よい笑い声を聞きながら由華里もくすっと笑う。暖かなアーネストの香りに安心して瞼を閉じる。遠くから子守唄の様に潮騒が響いてくる。とても静かで穏やかな夜だと…由華里はアーネストの腕の中で微笑む。
「そうね…それで私は…その富豪の…」
「?由華里さん?」
急に腕の中で静かになり、ずしっと重くなたったのに嫌な予感を感じて、由華里を見下ろした。完璧に熟睡していた。
「由華里さん?」
先程までの苦し気な哀しい顔でいたのとは打って変り、安堵した健やかな寝顔で由華里は寝入っている。アーネストは額に手を当てると、はああ…と深いため息を付き、苦笑しながら由華里を抱き寄せた。
「お義母様の呪縛は強力ですね」
アーネストは薄い闇の中で苦笑しながら由華里を抱きしめた。そして時計をみる。
深夜の2時だ。
そういえば…と、彼は苦笑した。華代からの嫌がらせのコールが、この4か月間の間に初めて無かった事に気付いたのだった。
4か月前、婚約発表と同時に日本を発ち、インドネシアに着いてすぐに二人は由華里の両親に今回の結婚の経緯についての電話を改めて掛けていた。
だが、父親の泰蔵はしょっぱなから由華里と激しく言い争い、アーストには「申し訳ない」と訳の分からない謝罪をするばかりで、意思疎通が敵わなかった。
華代は違った。
自分の夫の遥か上の上司に当たるアーネストを、自分の娘の一般的な結婚相手として子供に諭すかのように扱ってきたのだ。この娘にしてこの母かと、アーネストはおかしく思った。
華代は、大切な娘を殆ど拉致の様に国外に連れだし、
事後承諾で結婚話を進めた事に大層立腹し、
分別ある貴方がどうしてこんな大騒ぎになる方法を取らざるを得なかったとのか?と
淡々としながらもきっぱりと糾弾してきたのだ。
この私をだ!
そして、
「本気で由華里のコトを愛していると言うのならば、誠意を見せて欲しい。旧式的な考えとは重々承知しているが、幸いにも由華里は婚前交渉の経験がない。ならば、けじめをつけて正式に結婚式を挙げて世間的に認められるまで、きちんと距離を保ってほしい」
つまりは婚前交渉するなと!由華里に手を出すなと!言い切って来たのだった。
だが、なんだか面白いゲームでも仕掛けられたようで、アーネストはおかしくなり、二つ返事で承諾した。恐らく母親がこうなら、娘の由華里もそう言う考えである可能性もある。
別に急ぐ必要はない。
由華里はいずれ必ず自分の妻になるのだし、結婚準備を進めて式を挙げてしまえばいいだけの話しなのだから。まあその短い期間のゲームと思えばいいだろうとアーネストは軽く考えていた。
が、それは華代のしかけた過酷なゲームと言うことに直ぐにアーネストは気づき、激しく後悔することになる。
要は自分は浮かれていたのだ。判断を誤るほどに。由華里を手に入れたことに、浮かれまくり現実から目を背けていたのだ。恋は盲目とは言うが、まさか自分も陥るとは夢にも思っていなかった。
アーネストの敗因は、由華里の「威力」を見誤った事。彼女が自分の心を掴んだということは、自分以下の有象無象の男共にも影響力があるということを忘れていたのだ。
そう。事実、東京のパーティーで由華里が自然に大勢の男達に声を掛けられ、それを追い払うのにアニカ達が苦慮していたのを見て理解し不愉快に思っていたのにもかかわらず…
由華里と婚約できた途端に忘れていたのだ。
その結果が、インドネシアで招待されたパーティーに参加した時の大惨事だ。アーネストは由華里を抱き寄せながら、その時の事を思い出し不愉快そうに眉間に皺を寄せた。
鮮やかなバティックのドレス姿でアーネストにエスコートされ、同じく色違いのヴバティックドレスで南国風に着飾ったアニカやキャスーン達という華やかな集団に、会場の者達は一瞬で目を奪われた。
だが、彼等が一番に目を奪われたのは、誰もが振り向き虜になる由華里の破壊力ある笑顔だった。(本人は自覚が全くない)
あれだけセンセーショナルに全世界に婚約発表をしたに関わらず、少しの隙をついて由華里に言い寄ろうとする害虫を追い払うのがどんなに大変だったことか。
最後にはアニカがブちぎれて、怒りのオーラ全開で害虫駆除をしていたのが凄かった。もちろん、自分もその倍したが。
だが、翌日どころかパーティーから引き揚げた部屋には、沢山の由華里宛の花やプレゼントが届き、翌日もとどまることがなく全部破棄させた。
悪夢のような婚約初日のパーティーだった。
(由華里自身は無頓着で全然気づいていなかったが)
それは翌日も続き、アーネスト達は由華里を隔離すべく、ロンボク島にあるコテージ風ホテルを買い上げ移動した。由華里の無頓着さは婚約の自覚のなさや、恋愛経験のなさ故と判断し、部屋をスイートの同室にした。由華里をみんなで丸め込んで納得させて。
まあ…どうこうしようとかいうのはなかったが…(由華里はさっさと安心して寝てしまうし)
だが、その深夜2時…少し寝顔を見ていて少しほんの少し邪な気持ちを抱いた瞬間に、由華里の携帯電話がコールした。
―アーネストさん、私は貴方を信用していますのよ。お約束、違えなきようにお願い致しますわね。
ペナルティ…。
まさしくその通りだった。
バリ滞在中の間、夜は直ぐ横で眠る由華里は甘い花の香りを無意識の内に香らせ誘惑をしてくるのに、まるで監視しているかのように華代が釘を刺すコールをしてくる。
まるでどこかで見ているかのように。
それはNYに戻っても延々と続いた!
とにかくこの蛇の生殺し状態と周囲の大混乱と由華里の無自覚を打破すべきと、NYで待っている混乱を予測して、アーネストは名実共に由華里をウィルバートンの者にすることに決めた。
これにはキャスーンもアニカ達も大賛同してくれた。
(全くそれに由華里が気づいていない事には気づいていたが)
とはいえ、既成事実は華代から厳禁されているので(忌々しい!)、書類上的に進めていくことにした。
由華里にも説明したが(諸事情や届け出上の都合を考えてと言うことにして)殆ど聞いていなかったのは明白だったが構わなかった。要は彼女が説明を聞き、納得したうえでサインすれば問題ないのだ。
(大喧嘩になったが)
だが悪夢は続いた。インドネシアの数倍の惨事がアーネスト達を婚約披露パーティですら起こり、本当に怒りを通り越してうんざりした。
キャスーンとエレノアの提案で、両家に花嫁、社交界修行と言う名目で、彼女達をお目付け役にして隔離したのだ。
結局…自分もあの父親の平野泰蔵と同じように由華里を籠の中に入れたのだ。まあ…今ではあの父親の気持ちも分からないでもないが、わかりたくもない。
あの能天気な由華里を御する能力に長けた有能な秘書。
あの由華里と共に行動して違和感のない存在となり、由華里も抑えられ守れるボディーガード。
そして屋敷の中で彼女を確実に守りサポートするスタッフの必要性。
全てを整え…やっとこうして正式に自分の妻として由華里を手に入れられたと言うのに…。
無邪気な寝顔で腕の中で眠る由華里の頬をむにゅっとアーネストは苛立たしげにつまんだ。
このまま襲ってやろうか?いやいや、意思に反した事をしようものなら、凄まじい反撃と拒否が起こるのは目に見えている…。ハネムーンでそんな醜態は演じたくない。
アーネストは短く舌打ちすると、ぐっすり眠る由華里を抱き寄せると不承不承自分も深い眠りに落ちる事にした。
まあいい。時間は確かに沢山あるのだからとなんだか自嘲気味に笑いながら。
ふと薄く目をあけ、静かな潮騒の音が聞こえるテラス窓の方を見た。
由華里は何故急に朝の海に出たいと言い出したのだろうか…。
そしてなぜそれを自分は許可したのだろうか。
穏やかな笑みを浮かべて寝入る由華里を見おろしながら、アーネストは何か不可思議な物を感じてまた由華里を抱きしめた。




