第8話 花嫁は光の中を降りてくる
最後のピンをとめ、裾回りやベールを直し、一歩下がって全体をチェックしたスタイリストは、完璧!と自画自賛して後ろを振り返った。
淡いグリーンブルーのドレスアップしたラーナも満足げに、美容師やそのアシスタント達に完璧よ!と、頷く。周りのメイド達からは感嘆とも羨望ともつかない溜息が漏れ、そして続き部屋のドアを開けた。
隣室で待っていた平野家の面々は、緊張した面持ちで立ち上がり、隣室に入った。彼等は思わず、戸口で足をとめた。
花々で埋め尽くされた部屋の中央で、真っ白な絨毯の上に、窓からの光を受けた純白のウエディングドレスの姿の由華里が、ベール越しに顔をゆっくりと挙げて微笑んできた。
ベールは胸元まで長い繊細なレースが施され、後ろに長いトレーンを霞の様に広げている。トッドが積んだ白いバラは可憐なラウンドブーケに纏められ、柔らかな胸元の上で握りしめられていた。
その姿に泰蔵は真っ赤になって身動きができなくなった。華代は涙ぐみ、泰男は軽く口笛を吹いた。
「すげえや姉さん。そのベールの下から、僕らの顔は見えるの?」
由華里は真っ白なベールの下で笑い、上質で豪奢なそれを持ち上げようとして、慌てたラーナに止められた。
「いけません由華里様!それお持ち上げるのはアーネスト様だけです!!」
「なんだか息苦しいわ、ラーナ」
「結構な事ですわ!少しは初々しい花嫁を演出できます!」
「私、初々しくない?」
「お式の朝から、朝食を全部食べきってしまう花嫁のどこが初々しいんですか!」
「あら、だって友達が結婚式は体力勝負だから、しっかり食べないとだめよ!って言っていたわ」
「ごもっともですが!お腹がすいてぶっ倒れてくるるような可憐な花嫁になっていただきたいですね!」
朝っぱらから走りまわされ疲労困憊のラーナは喧嘩腰だ。まあまあと、メイド達が宥める。華代と泰男が側により、一礼してラーナは下がる。泰蔵は真っ赤になったまま棒立ちしている。
由華里はベール越しに華代の黒留袖を見て苦笑した。
「やっぱりそれを着たのね?お母さん」
「もちろんですとも。日本の由緒正しい伝統衣装ですからね。貴女の分もちゃんと誂えて一式持参してあるわ。訪問着等も後から送るつもりだから、管理はきちんと自分でなさいな」
ありがとうと、由華里は華代に笑い掛ける。華代は少しベールを直しながら嬉しそうに微笑んだ。
「素敵なベールとドレスね。まるで誂えたみたいじゃない」
「誂えたんだってば、お母さん。パリからデザイナーを呼んでね。物凄い大騒ぎだったのよ。私はもっとこう…裾の短いのとか着たかったんだけど、宗教上で花嫁は教会では肌を余りみせてはいけないらしいの。他にも色々制約事があって、あーでもないこうでもないとデザイナーとアニカやキャスーン叔母様達の間で物凄い駆け引きだったのよ」
その騒動を思い出し笑いしながら、由華里は豪奢なレースのベールに内側からそっと手を当てた。
「このベールもね、とても細密で精巧なデザインと細工の凄いレースだけど、不思議にとても軽いのよ。それに肌触りもいいの。素敵でしょ?」
「ええ素敵ね。アンティークぽいけれど…もしかしてこれはどなたかのベール?」
由華里は感のいい華代の言葉に微笑んだ。
「これは、木暮のお母様が結婚式の時に使われた物なの。素敵なアンティークレースでしょう?」
長いトレーンを引く優雅なシルクレースに触れながら華代は本当にと優しく頷いた。
「ええ、ええ…とても素敵だわ。このベールは大事にしなさいね。由華里にとっても、これから産まれてくる子供達にとっても大切な大切な物なのですからね」
由華里は静かに微笑み頷いた。ひょいと華代の後ろから覗きこんだ泰雄がにやにやしながら軽口を叩く。
「姉さん、まるでショールームのカーテンみたいだよ!」
「泰男!」
泰男のお尻を、華代はぎゅっと握ると、彼は大笑いしながら引き下がった。華代はくるりと、後ろに控えるラーナに振り返った。
「キーソン夫人?お願いがあるんですけど」
「はい、なんで御座いましょう?華代様」
「その…。これ以上は由華里の花嫁衣装の装飾は変更はできませんかしら?」
ラーナは一瞬怪訝な顔をしたが、華代が手にしている箱を見て瞬時に理解した。
「いいえ。ベールやブーケ、ドレス等の変更はできませんが、その他のアクセサリーはまだ変更可能です。何か?お持ちになられたのですか?」
華代はラーナの言葉に嬉しそうに微笑むと、由華里に向き直り、手にしていた茶色のビロードの箱を開けて見せた。
そこには大粒の真珠のネックレスが虹色の輝きと美しい光沢を放って輝き現れた。そのかなり上質で高価なネックレスに目をやり、その蓋に刻印された銀座の日本で一番高級な宝飾店の名前に目を見はった。
「お母さん…これ…」
スタッフが急いで由華里のダイヤのネックレスとイヤリングを外し、華代の大粒の真珠のネックレスとイヤリングを取り、そっとその細い首に付けた。
「アーネストさんのお母様のベールほど価値があるかどうかはわからないけど…お母さん達が由華里にしてあげられるのは、今まで貴女の結婚用に貯めた貯金を全部はたいてこれを揃えさせるしかできなかったわ」
「私の為の貯金…全部?」
ベール越しのネックレスを確認して、華代は目頭を抑えた。
「ええそうよ。何時か嫁ぐ貴女の為にと、恥をかかない程度に持たせる花嫁道具の資金よ。本当は…様々な日本式の御道具を持たせたかったのだけれど…。事前にお聞きしたら、こちらで既に貴女の為に日本式調度品からお部屋までご用意されているとお聞きしたので他の物をと思ったのよ。
何か一つくらい…私達から貴女の華向けに何かを持たせたかったの。何時もお世話になっている銀座のお店に相談に行ったら、お店の方が自信を持ってと…これを店の奥から出してくださったの」
フフフフと華代はおかしそうに笑う。
「おかしいでしょう?由華里の花嫁道具が全部、それ一つに化けてしまったのよ…。小さなものだけれど、日本の真珠を持って幸せな花嫁になりなさい。
それだけしか…
もう私達は由華里にしてあげる事は無いのよ」
危うく涙をこぼしそうになり、俯いた由華里に、慌ててスタッフが駆け寄り目頭を拭いてくれた。暫く無言で俯き、肩を震わせていた由華里に手を添え、華代が見上げるようにして涙目を震わせた。
「花嫁は泣かないの。こんなおめでたい日に涙は禁物よ」
そう言われれば言われるほど、由華里は熱く切ない気持ちになる。華代の手を握りしめ、由華里は深々と頭を下げる。
「ありがとう…お母さん…」
そして、固まったままの泰蔵を見る。
「お父さん…ありがとうございます。今まで…我儘な私を育ててくれて…この結婚を許してくれて」
その言葉にスイッチが入ったように泰蔵が動き、由華里の前に立つと感極まったように何度も何度も頷いた。周りのスタッフやラーナも目頭を熱くして抑えた。
静かなノックの音と共に、オーソンがアーネストが教会に向けて出発をした事告げ、一同は最後のチェックに一斉に動き出した。
玄関フロアでは屋敷中の使用人達が、花嫁が現れるの今か今かと落ち着きなく待っていた。その一角の椅子に落ち着いた様子で座るマークは、そんな彼等を可笑しそうに見ていた。その他人事のように平然とした態度の彼に、オーソンは不服そうな視線を向けた。
「マーク・スタンナー、そろそろ由華里様がいらっしゃる。君もスタンバイして欲しい物だな」
「ええ分かっていますよ。ですが、この屋敷内に居る限り、僕のガードは必要はないでしょう?」
「それはもちろんだ。だが、少しは君もこの場の空気に相応しく緊張と言う物を…」
「いらしたぞ!」
誰かが大きな声で叫び、一斉にフロアに緊張と期待が広がりしんと静まりかえった。マークはゆっくりと立ち上がり、両翼に広がる豪奢で優雅な階段を見上げた。
純白のシルクドレスとベールに包まれた由華里が、光あふれる階段の踊り場に現れると、一斉に一同が感嘆の声を挙げる。窓からの光を浴び、美しいドレープの輝きと共に、ラーナに手を引かれた由華里はまるで夢の様にゆっくりと降りてくる。長いベールの下から、由華里がにっこりと微笑むと、オーソンは思わず目頭を強く抑えた。
これで…先代のウィルバートン夫妻にご報告をすることができる。この喜ばしい事を。
彼は心から安堵し、ふと、横に立つマークまでもが感慨深げに花嫁を見ているのに気付いた。
「どうした?君も感動をしておるのか?」
オーソンの言葉に、マークは静かに笑った。
「ええ…なんていうのか…」
それは不思議な感情だった。目の前を進む由華里の腕を掴み引き留めたい激しい衝動と掴みどころのない感情の波にマークは戸惑った。
なぜ?この気持ちは一体なんなのだろうかと、胸を締め付ける苦い苦しみに…
彼は目を伏せた。
「そう…なんとなく花嫁の父親の気分のようだ」
自嘲気味に言うマークに、オーソンは「その本物の花嫁の父が卒倒しそうだ」と耳に囁くのに顔をあげた。事実、花嫁の後ろから降りてくる泰蔵の顔色はまるで死人のような、怒り心頭の鬼の様な複雑な顔色をコロコロと変えていた。
「あれは…不味いんじゃないか?式の前にぶっ倒れるんじゃないか?」
「教会にスタンバイされているデニス様やウィル様達にご連絡をしておこう。君も倒れた場合は直ぐ補助をするように」
「yes sir!」
マーク苦笑しながら軽口叩いてオーソンに軽く手をあげて由華里達の先にエントランスに出た。
美しいバラの花々と輝くリボンに飾り立てられた白いウエディングカーのリムジンに、由華里は泰蔵と華代と共に乗り込んだ。次いでラーナとマークも乗り込む。泰雄達は別の車に乗り込むと、さっとオーソンが合図をし、一斉に居並ぶスタッフが頭を垂れる。
感無量の彼らを残し、警護の数台の車と共に、リムジンはアーネストの待つ教会へとウィルバートン邸を後にした。




