拐われた先
*
ゴト、ゴトと激しく揺さぶられる感覚がして、アリゼは目を覚ました。
目を開けると……何故だか辺りには真っ暗闇が広がっていた。
「何……?」
思わず声を上げると、淡いランプの光がアリゼの方を向く。
その光の奥に……あの人の顔が見えた。
「ベッティーニ辺境伯……」
淡い光の向こうに見えたのは、ディエゴの顔だ。
「まさか丸一日目を覚まさないとは。正直焦ったぞ」
彼ははん、と鼻で笑うような顔をする。
アリゼが上を向くと、そこには窓が見えた。
窓からは一瞬だけ赤い光が差すが、すぐに森の雑踏に隠れ真っ暗になる。
朝焼けか?と思ったが、丸一日と言っていたから夕日だろうか。
体を起こそうとするが、頭を上げた瞬間──クラクラとした目眩が襲う。
頭がチカチカ弾けるように痛いのは、寝不足のそれだけではないはずだ。
「……何か盛りました?」
「ただほんの少し眠ってもらう予定だったが……すぐ目を覚まさないのは予想外だった。それに関しては詫びよう」
やはり何かを盛られたらしく、しかも三日間寝てないのが仇となったらしい。
「本当は王都の屋敷で終わらせる予定だったが、まぁ……あまりにも目を覚まさないから、少し移動させてもらった。悪く思わないでくれ」
いや、充分悪者やないか!と心の中で激しく突っ込む。
言い返してやろうと思うも、口も、体もうまく動かない。
しばらくすると馬車は止まり、従者がドアを開ける。
ディエゴが手を差し出すが……ここで手を取ってたまるもんかと自力で起き上がり立った。
馬車の外に出ると、辺境伯領の騎士だろうか。武装した人達が並んでいる。
「こっちに来い」
囲まれ逃げられないと判断し、アリゼはディエゴの後ろに続く。
重々しいレンガの壁と鉄のドアがすぐそこにあり、ドアを開けて建物の中に入ってゆく。
中はランタンの淡い光のみだが、だだっ広い丸い空間と螺旋階段が上に続いているのは辛うじてわかった。
「一応この棟は客間として機能している」とディエゴは付け加える。
確かに目を凝らして見ると、奥にはソファーなどの最低限の調度品はあるようだ。
「それで、どうしても私はアリゼと二人で話がしたかった……いつも逃げられてしまうからな」
そらそうだと心の中で突っこむ。
アリゼはずっとディエゴから逃げていたのだから当たり前だ。
「先日ストルティー帝国からインリアの捕虜が大量に逃げ出しているという報告があった。……君も何処にいるか知っているのだろう?」
インリアの捕虜──思い当たることは、勿論あのヨエルの元で働く、マキシム達のこと。
ぐっと口をつぐむと、見透かしたようにディエゴは嫌な笑みを浮かべる。
「もしも捕虜がうちの国に……しかも『公爵』が匿ってるというのが耳に入ればどうなるか?頭のいいあなたならわかるだろう?」
「あんな非道なことが認められるはずはありません。他国の事情でありますが、世界的に見ても立派な人権侵害です」
きっとこれはゆすりだ。そうアリゼは確信している。
だから毅然な態度で、ディエゴに対抗する。
「まさか君は平和的に解決できるとは思っていないだろうね?もし戦争になった時の最前線はどこになる?」
むぐ、っと息を飲み込む。
それは隣接する、ベッティーニ辺境伯領だからだ。
「まさか…私が寝返らないという保証はどこにある?」
アリゼははっとした。
(まさか……この人、戦争となったら寝返る気で……?)
押し黙る様子を見て、はははっと高らかな笑い声を上げるディエゴ。「そう簡単に寝返る気はないがな」と付け加えるが、信用できない。
もし彼がまるごとひっくり変えると……我が国リーベルタスは大損害を被る。戦争の最前線としての守り機能が丸ごと失われ、国事態が滅亡の糸を辿るだろう。
「そう言えば…君たちは知らないだろうなぁー」
「何ですか?」
「君たちはストルティー帝国の皇室の血を引いている。知らないだろう?」
「えっ……」
思いがけない言葉に、思わず息を呑んだ。
「代々インリアはストルティーの王家と婚姻関係を結ぶことで戦争を回避してきた。そのなかでも君たちの祖母、オレーシャの父親は帝国の元皇子だった。現皇帝からするとイトコの孫、が君達にあたるというわけだな。まぁ近くは無いが、遠くともない関係だ」
正直、あり得ない話ではないとは思う。
でもアリゼは今まで生きてきた中で一言も、自分がストルティー帝国に関係があるなんて聞いたことはない。
「なぜあなたは知っているのですか?」
「いや、私達世代は皆知っておるぞ。君達子供は知らなくて良い話なのだから」
そう言われると、なるほどと納得する。
「いざと言う時の駒……」
「そう、駒は駒らしく勝手に動いてもらっては困る。だがそろそろ動いて貰わねば」
ディエゴはアリゼへ向かい一歩踏み出し、睨むような視線を送る。
「帝国からすると、皇室の血が入った者がいる土地が戦場になるなんて避けたいだろうなぁ……そう思わないか?言ってることはわかるだろう?」
「つまり、私があなたと結婚しろと?」
すると──気味の悪い笑みを浮かべ「そうだ」と頷いた。
「それにそうだなぁ……石炭」
その言葉に、アリゼははっとする。
ベッティーニ辺境伯領は、有数な石炭の生産地だったはず。
「アングラード公爵領から石炭の大量の買い付けがあったけどなぁ……。最近出荷できる量も減って、私も困っておるのだが」
わざとらしい困り顔をしては、アリゼを見つめてまた気味の悪い笑みを浮かべた。
「あとそうだなぁ。先日旧友の孫から蚕の仕入れの件で色々聞かれたことがあるなぁ。インリアから仕入れた蚕の管理は隣接するうちの仕事だが、蚕も所詮『虫』で生き物だから、管理が大変なんだよなぁ……」
クロビスが狙っている養蚕業の拡大の件も持ち出すとは……だけどこれら全ての行為は、領地の損害に繋がる身勝手な私利私欲の他ならない。
「あなたはこれでいいのか?」
厳しく詰め寄るが──ディエゴは涼しい顔でこう言った。
「あなたが手に入るなら、何でも構わない」
ちっとアリゼは心の中で舌打ちする。
(拗らせた初恋が……)
一瞬祖父のことを詰め寄ろうかとしたが、それこそ逆鱗に触れる恐れがあるので舌を噛み殺し、押し黙る。
「どうせ暗くて馬車は動かせない。翌朝までに選んでくれ。王都に帰るか、私と一緒に来るか」
そしてディエゴはアリゼの前に立ち──手の甲にキスする。
一瞬にして嫌悪の感情が広がり、ブルッと震えた。
「聡明な君の判断を、楽しみに待っているよ」
カチャッと鍵の閉まる音が聞こえ、振り向きもせずにディエゴは去っていった。