ヒーローとヒロイン補正
その日の夜は、アリゼとクロビスは公爵邸に宿泊することになった。
アリゼは夕食を終えると、ゲストルームでのんびり本を読んでいた。ドアをノックする音が聞こえ返事をすると、ここのメイドがドアを開ける。
「失礼します。ヨエル様がお話しがしたいとのことですが、お時間よろしいですか?」
「はい、いいですけど……」
「じゃあ失礼してよろしいかな?」
そう間髪入れずに部屋に入ってくるヨエル。
おいそこに居ったんかい!と心の中で突っ込んだ。
「話がしたいのだが、メイドに席を外させてもよろしいか?」
「ええ…構いませんが………」
するとヨエルは「さっきクロビスを訪ねようとしたが仕事中と断られてしまってな」と部屋のドアを閉めた。
ということはクロビスは来ない。当然この部屋には二人きりだ。
(いやちょっと待て……!)
この状況は貞操の危機…いやでも、さすがになぁ……と思い直す。
「一応話をする前にこれを、君に」
「何ですか?」
ソファーに座ったヨエルは、テーブルに何かを置く。細長い何かだ。アリゼは手にするも、ずっしりと重さがあり驚く。
「まぁ私が襲いそうになったら、真ん中をカチッと回せば…」
言われた通り動かすと……思わず「ひぃ!」と声が上がる。先端に鋭利な刃物が出現たのだ。
万能ナイフかい!と目が点になる。
「いやいや、そんな大丈夫です大丈夫です!!」
「いや、大丈夫な保証は…」
「さすがにあなたはアングラード公爵の名前を傷つけることはしないでしょう!」
さすがにあの時みたいに合意(記憶がないので多分だが)ではないのに襲ったという噂が広まれば、公爵の立場は危ういだろう。もみ消すにもクロビスを味方につけれるとは到底思えない。
それにいくらなんでも、公爵の仕事を誇りに思っている彼はそんな不名誉なことはしないはずだ、とアリゼは確信している。
ヨエルは安心したように、ふっと口角を上げる。
その表情が何だか少し幼く見えて……一瞬アリゼの心臓はドキりと音を立てた。
無邪気な笑顔、反則すぎると。
「何の本を読んでいたんだ?」
「これですか?蚕の育成に関する本です。過去の文献を色々調べている最中なんです」
今回の視察に来た理由もそうだし、クロビスは一度は縮小した養蚕業の拡大を狙っている。つまみ細工の商会と連携したものが作りたいと思っているらしいのだ。
「やっぱり蚕の質はインリアが一番です。どうにかして大量の蚕自体の輸入ルートを構築できないかと模索している最中だったりします。お父様に協力を仰ぎましたが、あまり良い反応が得られませんでしたし……とりあえずお父様を納得させれる材料が欲しいんです。あとインリアとの中継地である辺境伯領にも協力が必要なので、どう協力してもらうかを考えているんですよね」
ペラペラと喋るアリゼを、ヨエルは感心したように見つめている。
「あなたは勉強熱心なんだな」
「そうでもないですよ」
「経営の補佐としてかなり活躍してると聞いているが」
「……まぁどちらかと言えば、お兄様の為ですけどね」
活躍だなんてとんでもない話だ。
一応クロビスの補佐という役目を貰っているからには、それを全うしようとしているだけだ。
「まぁお兄様が巷で『妹愛が行きすぎてる』と言われてますが、受け入れてる私も同じかも知れませんね。私達はたった二人の兄妹で、ずっと二人ぼっちだったんですから」
そうなんだ、とアリゼは改めて思う。
クロビスとは、ずっとふたりぼっちだったのだ。
最初は勿論、打算的な思いがあった。だけど今は……『一番大切な人』として慕っている。
それは長い間、二人で積み重ねてきたものが多かったからだ。
ヨエルは目を細めたかと思うと──視線を手元に落とした。
「羨ましいな、クロビスが」と呟いて。
(そういや、この人も弟亡くしてるんだっけ……)
もし弟のブエラが生きていたら…そんな『もしも』を重ねているのだろうか。
憂いを帯びた表情に、胸が締め付けられる。
「ということは、アリゼに認めて貰うには……クロビスの懐柔が必要不可欠というわけか……」
表情を変えずに呟くものだから、アリゼは思わずソファーからずっこけそうになった。
「いや、別にそう言うわけではないと思いますが」
「じゃぁ今まであなたが恋人が居なかった訳は?」
「そう言われると……うーん、勉強に夢中だった…?からですかね…?」
本当のところは……まぁぶっちゃけ、クロビスの前では、どんな人であっても霞んでしまうというのがある。
前世はボーイズラブに傾倒していたが、今はあのクロビスが側にいると、どうやっても他の人にときめけない。どんな物語でも……例えばクロビスが登場する物語を考えようとも、実物のアリゼへの愛のこもった視線がちらつき、それどころではない。ある意味ヒロイン補正の弊害か、とも思うぐらい。
だからアリゼがどんな形であれ、異性に心が動いたのはヨエルが初めてだったりするのだ。
「あのそれで、このナイフは…」
「差しあげよう。これはこうやれば、ペンチにもなるし、ここは栓抜きとしても使える」
「おお…万能ですね……」
「料理の時の栓抜きにも使えるし、何ならいざと言う時の護身用具として持ってて欲しい。あと、これをあなたに渡したかったんだ」
護身具って何やねん。そんな物騒な世界じゃないはずだぞと突っ込みつつ、アリゼは渡された包みを開けた。
「綺麗……」
その包みの中は──プルメリア柄の布だ。白ベースにピンクの淡く綺麗な花の色と、鮮やかな葉の色が映えている。
広げてみると、ちょうどストールサイズのようだ。
それと一緒に、プルメリアの形をした銀のブローチも同封されている。
「羽織ってみてもよろしいですか?」
「あぁ」
早速鏡の見える位置に立ち、ストールを羽織ってみた。
光沢のある綺麗な色がひときわ目立ち、遠くからでも目を引くほど。
すごい……と見惚れていると、ヨエルが前に立ちブローチでストールを留めた。
「なぜこの柄なのですか?」
「だってギルベール商会のメインはプルメリアの花飾りでしょう?あなたもプルメリアの髪飾りを付けていたし、ハンカチの刺繍もそうでしょう?」
いや、確かにそうなんだけど……良く知っていたな、と情報収集能力に感心する。
「うちの南の領地では、プルメリアの栽培も行われている。白だけでなく、ピンクやイエローの色とりどりの花が咲くから、それを是非あなたに見せてあげたいと思っている」
そしてまっすぐアリゼを見つめると──手を取って、そっとそこに唇を落とした。
「ここに着く前に枯れてしまうから、あなたに沢山の鮮やかな花を見せたいんだ」
まっすぐ見下ろす瞳。
キラキラと輝く、あの透き通る蒼い瞳。
──一瞬、あの時のことが頭を過る。
『私のものになってくれないか?』
そう言って顎を持ち上げ、微笑む姿。
そのまま唇が重なりあって……ねっとりと口内を舌が絡み、ベットに押し倒される。
あの熱を持った、ゾクリとした色気を纏った顔。そこに輝く、あの蒼い瞳。
あの夜のことが目の前で再生され、アリゼの顔が沸騰したように熱くなる。
「どうした?」
「いえ別に……」
「じゃぁもっと見つめておく…」
反射的に顔を背け……あろうことか手が出てしまう。
しまったと思った時は後の祭りで、既に『パン』とした頬を叩く音が響いていた。
やばい、公爵にこれはまずい……と血の気が引くが、ヨエルは失笑が漏れた顔で手を離した。
「すまない、やりすぎたようだな」
未だに心臓がバクバクなっているが、なんてことない風な顔をしているヨエル。
良かった制裁があるわけではなさそう……とアリゼは安堵したが、胸の高鳴りは消えてくれない。
「あの、ヨエルはすごく積極的ですけど、今までもこんな風に女性を…」
「いやいや、こんな気持ちは初めてで……だから戸惑っているんだ」
そしてもう一度手を取ると、またあの熱い視線でアリゼを見つめる。
「あなたを手に入れる為なら、この重くのし掛かる身分も利用させてもらおうと思った。ただそれだけのことだ」
ドキドキと、アリゼの胸が早鐘を打つ。
それを見透かした風に、ヨエルは微笑んだ。
「私はあなたと結婚するまで、諦めないから」
そう上目遣いで見つめ、踵を翻して部屋から出ていった。「おやすみ」と呟いて。
ドアが閉まったと同時に、アリゼはその場にへたりこんだ。
(無理だって……!!)
胸の高鳴りを抱えたまま、頭を抱えている。
──ヨエル・アングラード公爵とは、物語の主人公。
見た目も主人公にふさわしい完璧な姿で、公爵という高い身分の持ち主。その身分に傲ることなく、誰よりも気高く誰よりも情に厚い人。
まさに公爵の身分を背負うのに相応しい、完璧な人だ。
かと言えば愛する人の為なら、何もかもも捨てることができる、そんな愛に生きる一面もある。あの原作のヨエルが、クロビスの為に爵位を捨てたように。
いや……普通に考えて無理だ。
どう考えても……無理だわ、と。
(好きにならない要素がない………)