ハンス
その男の子は誰なんだろう……ナイアは不思議に思った。ウェルシアも説明しようとは思っているのだろう。ただ、なかなかその少年がこちらに見向きも反応もせずただ本の中の世界に没頭してしまっているので、チラチラと少年の方を見て自然に紹介するタイミングをうかがうことしかできないのだ。
「ああ、それとここでは喧嘩はご法度だ。喧嘩するぐらいなら話し合いで解決してくれ。特に、魔力を持っているもの同士の喧嘩となると、高確率で魔法が飛び交うことになる。外の様子を見てくれればわかると思うが、ここでそんなことしたらみんな一発アウトだ。ハンス、お前も仲良くやってくれよ」
一発アウト、とはどういうことだろうか?
しかし、その疑問よりも先にここでその男の子━━━━ハンスについての言及があったことで、私の意識はハンスの方へ向かっていった。
ハンスはどのような人間なのだろうか、気になって、彼が口を開くのを待つ。
「おっと、ごめん、本の中に没頭してしまっていてね。」
本を閉じ、立ち上がる。これは失敬、と頭をかく動作をしながら、少年がこちらを振り向く。その動作一つ一つが洗練されたもののように感じたのは、私の気のせいではないだろう。
その所作は執事ザカリアの動きに近しいものがあった。すなわち、貴族か、それに準ずる階級のものだろう。間違っても私のような人間とは交わる機会のない雲の上の人間だ。
ウェリシアもそうだが、そもそも着ている服からして違う。デザインもそうだが、なにか、見た感じの質感というか……おそらく材料から違うのだろう。
「ボクはハンス。ハンス・カーティスバルだ。着いたのは昨日だから、わずかに僕の方が君らよりはここでの先輩になるのかな? よろしくね」
「カーティスバル? カーティスバルといったか、少年よ」
婆さんは何か気になることでもあるのか、ハンス、と名乗った少年に話しかける。
「どうしたの?」
ナイアが婆さんに尋ねる。
「五大公爵家のひとつ、カーティスバル家といえば皇帝の覚えめでたき帝室の藩屛とも呼ばれる名家ではないか。」
「へえ」と興味なさそうに返答するナイアと、絨毯の端っこを齧るのに夢中であったふわたろうをよそに、執事ザカリア、ウェリシアも驚きを露にする。
「公爵家ですと? 貴族だとはおっしゃっていましたが、そんなに高位の貴族だったのですか。」
ウェリシアは焦ったように言う。付き従う執事も続けて言う。
「公爵家の方だったというのは存じ上げませんでした。知らずとはいえ、目上の方への礼を失してしまいましたこと、申し訳ございません。」
「いいよ。そんな形式ばらなくても。そんなこと、ボクは今まで気にせずに話してただろう。それに、ここはダンジョンだ。気にするべきことは、それこそ生きるか死ぬかという極限的な議題についてのみだろう?」
執事が口を半開きのまま放心しかけていた貴族の坊ちゃんの背中をぽん、と叩いて現実に引き戻す。
「いや━━━━そういっていただけるなら、ありがたい。よろしければ、今まで通り接しさせていただきたく思う。」
「うん、もちろんだよ。」
ハンスという少年はどうやら貴族の中でも身分の高い者であるようだ。
「ああ、僕の実家のことは気にしないでくれ。さっきも言ったが、ここはいつでも死と隣り合わせのダンジョンという極限の環境だ。そんな場所で身分などに囚われていては、ウソ偽りのない”本当の会話”ができるだろうか? ……いいや、真に分かり合うことなど出来ないだろう。分かり合いの不足は不信感を生む。不信感は不和を生む。そして、不和は助け合いを妨げ、共倒れになる可能性を引き上げ、咄嗟の事態に生き残る幸運をも遠ざけてしまう……」
ハンスはダメ押しとばかりに、付け加える。
「ダンジョン内での不和となる可能性は、何より避けるべきこと。━━━━そうは、思わないか?」
婆さんは何か言いたそうに口をまごまごさせた。
しかし、仮にも将来国政に参画するであろう人間が、自らの出自でもある貴族制という社会の在り方を否定するようなことを言って大丈夫なのだろうか?
ナイアの疑問を、もともと貴族であったのだという婆さんも感じていないはずがない。
きっと婆さんが言いたかったのはそういうことなんだろうなあ、とナイアは思った。少しばかり、婆さんのことを理解してきている自分がいる、自身の成長のようなものを感じてか、すこしだけそこを誇らしくも思った。
「話がそれてしまったね。なぜ、ここでの喧嘩がご法度なのか、なぜ、魔法を使うことになると一発アウトなのかについての話だったかな、いやあ、話の腰を折ってしまってすまない」
ハンスはそう言って安楽椅子に座り、本を読み始めた。それを横目に、ザカリアが再び口を開く。
「それではこの件につきまして、説明をさせていただきましょう。皆さまは”魔晶共鳴”という言葉をご存知でしょうか……?」




