祖父と木の洞
「祖父と木の洞」
序編
とある夏の日の夕暮れ。
過ぎていく一瞬に蝉の声が色をつけては消えていく。少年はその事実をまだ知らない。
半分以上破けてしまって読めなくなった政党の広告が風になびく。
誰もが夏を置き忘れる。そう、もちろん少年も。
本編
汚れた白い軽トラックが1台。かすれた白線に沿って対向車のいない道路を走っていた。
「爺、もう暗くなってきたよ。帰って花火で遊びたい」
「そうだな。でも涼介に見せたいものがあるんだ。都会じゃ絶対見れないもんだぞ。あと少しで着くからな。もう少しの辛抱だ」
涼介はおじいちゃんのことを爺と呼んでいた。爺もそう呼ばれる自分が好きだった。
軽トラックは田んぼと田んぼの間を通る農道へと進んだ。大地を覆う緑は風に揺れ、波打っていた。そのすべてを太陽が赤く照らした。
爺の運転する軽トラックは、翳りゆく地球の流れを逆走するように勢いよく走った。
チャリンチャリン。
数秒ごとに窪みや石や屈強な雑草の上を通る軽トラックは激しく揺れ、安全運転祈願の鈴の音が車内に響く。
涼介は爺からもらった大きすぎる麦わら帽子をしっかりと押さえ、生まれて初めて握る助手席の手すりに、少しの優越感を覚えながら、まるで自分がアクションシーンを演じる俳優であるかのように仰々しい態度で座っていた。
窓の外で黒い点の様に見えたのは田んぼの上を飛ぶアキアカネの影だった。
涼介は夏休みに田舎の爺の家で過ごす日々が好きだった。都会では見られない大きなクワガタや野鳥、季節の流れを感じさせる生物たちの鳴き声。そういった都会の喧騒に邪魔されずに体感できた爺の家での思い出をノートにまとめ、友達に話すことも涼介は好きだったし、小学校のクラスメイト達も楽しみにしていた。ご多分に漏れず、この日の出来事も涼介にとっては新たなページの幕開けであった。
デジタル表示の時刻は何故か9時間程前を示し、車内の空調は壊れているのか機能を果たしていなかった。
「爺、あっついよ」
「大丈夫。もう少しだから」
答えになっていない会話が続く。
涼介は爺に背を向けて遠くに見える小さな県道を走る車を目で追った。
「その前の引き出しにジュース入ってるから飲んでいいよ」
爺は涼介の機嫌を取り戻したいのか、顎でその場所を指しながら言った。涼介は素直に自分の欲求を爺に見せることに、若干の抵抗を覚えたが、喉の乾きには勝てず、引き出しを開けた。引き出しの中には、乾いた泥の着いた軍手や爺の免許証などが入っていた。涼介には一見した所、そこにジュースが保管されているとは到底思えなかった。
「ないじゃん。爺」涼介はぶっきらぼうにそう言った。
「違う違う。これだよ、これ」
爺は乾いた泥が目立つ引き出しに手を突っ込み、銅褐色に光る瓶を取り出した。その瓶のラベルには、よく分からないカタカナで書かれた文字と3000という数字がでかでかとプリントされていた。涼介はそれを飲んだ。すると心地良さとははるかに遠い舌のしびれを感じた。しかも薬のようなその液体は煮たように熱く、涼介は気分を害してしまった。それでも体が本能的に水分を欲していたため、何回かに分けて飲んでいると、体が前に揺れ、シートベルトに押し付けられた。
「よし、涼介。着いたぞ」
そこは田んぼなどの人間の手が加わった場所ではなく、全ての生き物が自然の摂理に従い生きている森の中だった。
「ここはちょっと危ないからな。爺が帰ってくるまで少し待ってろよ」
爺はそう言って、車から降りて葉の重なりの中に消えていった。涼介は1人軽トラックの中にいた。
最初のうちは舌のしびれが消えず、そのしびれに意識が集中していたが、時間が経つうちに自分の周りの世界に対する恐怖と人気のない寂しさを涼介は感じた。木漏れ日が薄くなり始め、昼間にあんなにも憎たらしく感じていた太陽の光が、急に恋しくなった。
涼介は空を探した。しかし、照射される太陽の光を我先にと集める多くの木の葉によって、空は隠されていた。
涼介は怖くなった。闇が涼介に襲いかかって来るように感じたのだ。爺の帰りを待つ間にも、闇が刻一刻と迫ってくる恐怖に耐えかねて、爺の言いつけを破り車の外へ出た。
外の世界はなんとも不思議なことに、近くに川でもあるのだろうかと思うほど冷涼としていた。断続的に現れては消えるひぐらしの声は儚さを帯びていた。
涼介は大きな麦わら帽子の首紐を少しだけきつく締め、慣れない長靴で歩き出した。
少し歩くとなぜかぽっかりと空が見える場所を見つけた。そこは何か大きなものがあった場所なのか、足元の草花の背が低く、涼介は少し安堵した。
丸く縁どられた空には雲ひとつなく、赤い海のようだった。涼介はその自然の作り出す美しい芸術に見蕩れた。だが、芸術鑑賞は長く続かなかった。その赤い世界に黒いものが混入してきたからだ。それは何十匹かのカラスの群れだった。
彼らは同一の目標へ向かっているようで、涼介は丸く縁どられた世界から、見切れてしまったその先を見てみたいと思い、その先を追った。
彼らの鳴き声だけを頼りにそのあとを追っていると、銀色の鉄格子が見えてきた。そこは大きな鉄塔の付け根であった。彼らは屈強にそびえ立つ鉄塔の電線にしがみつき、けたたましく鳴いていた。
遠くから見た鴉はもはや点に近いものになり、その黒い電線の上に黒い点が多くある景色は、音楽の授業で見た楽譜そっくりで、涼介はこの絵をノートに描こうと思ったのであった。しかし彼らの行動の目的が鉄塔の電線であったのを認めると、カラスなんかどうでもよくなって、辺りを見渡す余裕が生まれた。
その余裕はある意味次の不安を煽るものとなった。
ここはどこなんだろう。
その時涼介の背中に心地良さとは程遠い冷たさを持った何かが発生した。涼介は再び怖くなったのだ。森の中に1人だけぽつんといる自分を自分で見ている感覚が脳裏によぎる。それは軽トラックの中での恐怖から逃れるために行った行動が、次の恐怖を生み出す引き金となったことを笑う、シニカルな視線に似ていた。
「爺。爺。どこにいるの。僕はここだよ。早く来てよ。ほら早く」
あどけない少年のソプラノが森に響く。
しかし返事はない。あるのは風に揺れる葉のひしめきと、野性味溢れる鳥達の囀りだった。
涼介は初めて爺がいないことの寂しさと世界の頼りなさを思い知った。
涼介は走り出していた。あの場所にずっといることが怖くなったということには気付かないふりをしながら。その臆病な少年の自尊心が少年自身によって、浮き彫りにされていることに気づきながら。ただ何かから逃れるように懸命に走っていた。
揺れる視界の端に何かが見えた。それは、意識していたから見えたというよりも、森の中の雰囲気とは全くと異なるものを醸し出していたからであった。それは黒い穴のようなものだった。後から調べてみると、その穴が洞と呼ばれているものだということが分かったが、この時の涼介には禍々しいものに感じたのであった。
その黒さは何か地獄のようなものを涼介に意識させ、同時になぜか目が離せないような蠱惑的な魅力も持ち合わせていた。涼介は手招きされたようにその穴へ近づいた。穴は縦20センチ、横5センチほどの小さなものであったが、奥の見えない黒さに涼介は魅了されていた。
涼介はその穴に何かをしたいと思う好奇心にのまれ、持っていた瓶の中身をその穴の中に流した。
数秒の沈黙の後、穴の中から大きな羽を震わせたスズメバチが獲物を捉える獣のような所作で出現した。
涼介はスズメバチの大きさと黄色と黒の本能的な圧力に怯え、後ずさりしたが、なれない長靴のせいで転んでしまった。雀蜂はゆっくりと敵を見定め、耳障りな羽音を周囲に発生させながら洞から飛んだ。
涼介には足の小指を流れる汗の一滴の場所にいたるまで、すべての肌の感触が手に取るように分かった。生命の危機を認識した脳が、緊急事態に陥ったため感覚神経の上限を決壊させ、涼介にヒトとしての真の力を呼び起こしたのだ。だが、翅の振動する音は同時多発的に増え始め、気づけば数十匹の大群となっていた。
その集合体は学校のマラソン中に通過した人の口の中に蚊を忍ばせてくる不愉快な蚊柱が、可愛く見えてくるほどに殺気に満ち溢れていた。涼介は自分がスズメバチに刺されてしまうことを直感的に理解し、自然に手をかけた自分の安直な愚かさを呪った。
群れは涼介へと羽音を一斉に鳴らしながら向かって来た。涼介には麦わら帽子のつばで自分を隠す程度の努力しかできなかった。羽音が近づいてくる。涼介は森の中で小さくなった。親から叱られる少年のように。しかし、そこには愛はない。あるのは自然の法則と本能の咆哮だった。涼介は予想される痛みを受け入れようと体を強張らせた。
「涼介!大丈夫か!」
しゃがれた声が冷涼な空気を切り裂くように響く。少年はどこかでその声を期待していた。
爺は腰に下げていた鉈を抜きスズメバチの群れへと向けて振り下ろす。
だが、群れはよく訓練された空軍のそれのように、流動的な動きで爺の一閃をいなした。
そして再びより一層の羽音を響かせながら涼介たちに迫った。
爺の行動は素早かった。涼介の胴に手をまわして腰に担ぎ、軽トラックの止めてある場所に向かって走り出したのだ。
さっきまでいた場所がどんどんと小さくなって来る。
涼介は胴に触れる爺の腕の温かさを思い知り、泣きそうになった。自分の愚かな行動が原因で爺に迷惑をかけてしまったから。爺の言いつけを守っていれば何も起こらなかったのにと後悔したから。と。
少年は無償の愛を知った。
突然、視界の端にコルクで蓋をした透明な瓶が見えた。
「あっ」
爺が短い間投詞をもらす。そして、何かの所在を確認するかのようにポケットを探る。
その間、爺の歩みが少しだけ緩慢になった。だが、彼らの羽音は執拗にもここまで聞こえてきた。
爺は再び走り出した。
その瓶の中には、蛍光色の光を盛衰させるホタルが3匹いた。涼介はもうさっきの後悔なんかは忘れて、
「爺。あれもっとみたい」少年はやはり無邪気であった。
「ごめんな涼介。蜂さんがカンカンに怒っとるからな。今日は諦めよう」
爺の言葉を聞いた時、涼介はもうわがままを言わなかった。
その代わりに、涼介はこの瞬間しか感じることのできない光を見た。爺の肌の温度も同様に。
爺の冷静な対処の後、無事に軽トラックに戻ると、涼介の持っている防犯用児童向け携帯電話は、母からの着信履歴でいっぱいだった。爺はそれを見て、
「お母ちゃんもカンカンみたいだな。こりゃ早く帰らないと」いたずらっぽい顔でそう言った。
爺はアクセルを踏み混み、涼介たちは帰路についた。
3つの光は普遍的な温度を持ち、いつまでも涼介の瞼の裏に宿っていた。
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「涼介。最後におじいさんに挨拶していきなさい。あんたも就活で忙しくなって、次いつ来れるか分かんないんだから」
母は玄関先で白いキャリーバックを片手にそう言った。
「うん」
その声にはあのあどけなさはない。少年ではなく、青年であることがはっきりと分かる低い声である。涼介は和室へ向かった。ふいに目を向けた窓の外には、雲ひとつない空を夕日が赤く染め、鳥が鳴いていた。そこにはあたりまえの日没があった。
涼介はマッチを擦った。だが、湿気っているのか火はなかなかつかない。
「涼介。マッチってのはびびってたらダメなんだ。勢いよくやらないと火がつかないんだ。男なら何でも勢いよくってな」
得意げにそう言っていたあの爺は、今はもう黒い縁の中に入って涼介をただ見ている。涼介はびびらずに勢いよくマッチを擦った。先端の赤いリンは、微量の煙を噴出し、はやし立てられたように火をつけた。誰かが笑った気がした。
ロウソクに火をつけ、線香を1本だけ抜き取り、じっくりと先を熱した。あまりにもじっくりと熱したせいか線香の先は赤くなるだけではなく、炎を纏った。涼介はその炎を自分の吐息で消した。すると白い煙が、ふわりと柔らかな軌道を宙に描き、何処か涼介の知らない世界へと上っていった。涼介はただずっとその煙を見ていた。
「ありがとう。ゆっくり休んで」
夕暮れは置き忘れたものを教えてくれる。
あとがき
初投稿です。今ある日常はいずれ過去のものとなり、過去のものとなったまさにその時に、初めて価値がわかるのだということを示唆するような作品を書きたいと思い、執筆しました。稚拙な文章ではありますが、レビューや感想などお待ちしております。
初投稿です。今ある日常はいずれ過去のものとなり、過去のものとなったまさにその時に、初めて価値がわかるのだということを示唆するような作品を書きたいと思い、執筆しました。稚拙な文章ではありますが、レビューや感想などお待ちしております。