Phantom
夜が更ける。
全てを呑み込む無限の闇が、この街「小塚」を支配する。太陽が顔を出している時間は、駅の近くに煌めくビルディングや、並木通りを少し歩いた先の学校などを求めて、様々な人々が行き交い賑わう、都会の隅にある小さな街である。しかし、闇が支配するこの時間は、昼とは全く異なる顔を覗かせるのだ。そう、雑踏に紛れて、我々が認識出来なかった存在が、姿を現すのだ。悪戯好きなそれらが、今、まさに迫らんとしている。
とある警察署の一室から、深い溜息が聞こえた。その主は眉間に皺を寄せ、手元の資料を睨んでいる。それは彼女にとって、いつもの如く、簡単に出口に辿り着けるような謎解きでは無かった。
―――難解だ。
今度は更に深い溜息を吐き出した。此方の救援要請が届いたのか、正面に座っていた人物、同じ迷路に苦戦しているその男が、霧の中から声を掛けてきた。
「溜息なんて、お前らしくないな」
「…そうですね。私らしくない」
普段の自分ならば、こんなにも憂鬱に溜息をつくことは無いだろう。だが、異変が起きているのは、私だけではない。
「先輩こそ、そろそろ"それ"、止めた方が良いですよ。痣になったらどうするんです?」
"先輩"と呼ぶその人物は、先程から組んでいる腕にペンを叩きつけながら、ビートを刻んでいたのだ。
「大丈夫だ、ペン先は出ていない」
そういう問題では無いんです、と心の中だけで反論した。問題は山積している。口に出すだけの労力さえ、今は惜しい。代わりに菫色の混じった髪を掻き上げる。伸びをした後、とうに冷めたブラックコーヒーを、眠気覚ましには丁度いいだろうと口に運んだ。腕時計に視線を落とす。時刻は既に午前一時を過ぎていた。はじめに迷路の入口に立ってから、約三日が経過した事になる。
今回の事件――"連続怪死体事件"――。
事の始まりは、パトカーで見回りに出ていた後輩、辻巡査からの連絡だった。
「一丁目南小塚公園付近、人と思われるものが倒れているのを確認。至急、応援を要請する」
「人と思われるもの…??結城先輩、これは―――」
「兎に角、急ぐぞ」
直ぐに現場に駆けつけると、目に飛び込んできたのは"人間だった"と思われる、異様な死体であった。肉は所々削げ落ち、肌は岩のように灰色に硬化していて、それはまさに、"ゾンビ"のようであった。
「こ…れは…」
呼吸するのも困難になるほど強烈な腐敗臭に、反射的に腕で口と鼻を覆う。
「春花」と名前を呼ばれ、短く返事をしながら"相棒"に目を向ける。
「本部に連絡を。見ての通り、こいつは普通じゃない。歯も不自然に変形しているのが確認出来る。俺はここの指揮を執る。そっちは任せたぞ」
「了解です!」
本部に連絡をし、一先ず怪死体は一般人に見られないよう迅速に回収された。その公園は人通りが少なく、幸い深夜の出来事であったが為に、目撃者は誰一人いなかった。司法解剖が行われたが、不可解な事に、その死体は解剖される直前に、「融けて無くなってしまった」らしい。ある人は、「蒸発してしまった」とも形容していた。現場の鑑識でも証拠は死体以外は発見出来ず、死因の特定には、発見直後の証拠写真を参考にするしか手立ては無い。周辺の監視カメラを確認しても、聞き込み調査を行っても、怪しい人物は浮上しなかった。警視庁本部は、「薬品などを用いた他殺」だと睨んでいるが、果たして本当に事件性はあるのだろうか。
あまりにも浮世離れした死体に、超常現象か、何かオカルトめいたものによる事件なのではないかと、考える程に現実味が失われていく。
「過去のデータを調査してみたが、どうやら似たような事件が過去にも数回、起こっているらしい」
「本当ですか」
「ただ、残念なことに未解決のまま眠っていた」
「やはりそうでしたか…」
もしかしたら、という希望は尽く打ち砕かれた。
「だが参考になるかもしれない。今データを送る」
「ありがとうございます」
自分のデスクから、ピロロンと軽快な音が流れた。すぐさま資料データを開くと、確かに似たような死体と、腐敗臭などの特徴について記載されている。最新のもので、九年前の事件だ。
「証拠が消えてしまうのでは、推理のしようもないですよ」
夜が刻々と深まるように、負の感情が心を支配していく。
「だが、俺達の手で眠らせてはならない。違うか?」
「そんなの、当たり前です」
相変わらず相棒も霧に包まれているが、その声だけは明瞭さを欠いてはいなかった。
名梶春花と結城武。刑事課の"ホープ"だとか呼ばれている私たちは、タッグを組んでからまだ二年と日は浅いものの、数々の難解事件を解決してきた。証拠が無いはずはない。見つかるのに少々手間取ることはあれど、必ず、何処かにそれは落ちている。
ガチャ、と突然扉が開かれた。
「お疲れ様です、結城主任、名梶巡査」
辻宗汰。新人巡査だが、そろそろ来てから五ヶ月になる。なかなかに気の利く好青年であり、結城と名梶が可愛がっている後輩だ。暗めの茶色に癖毛の強い彼は、重たげな瞼を強引に開き、疲れを見せまいと笑みを作って部屋に足を踏み入れた。
「ああ、辻君か。何か進展はあったか?」
「いえ…」
「そうか」
辻は少し遠慮がちに二人の元へ近づいた。結城の返答は威圧的でも苛立っているようでもなかったが、繊細な彼は未だ収穫が無いことに気を揉んでいるのだろう。迷路の住人が、また一人増えた。両手に持っている二つのコップからは、柔らかに湯気が出ている。
「コーヒーを入れてきました。宜しければどうぞ。名梶巡査も」
「ありがとう。すっかりアイスコーヒーになっていたから、助かるわ」
「辻君。君は酷く疲れているように見える。あの異様な現場も良く補佐してくれた。今日はもう休んだ方が良いだろう」
「お言葉ですが、先輩方がまだ仕事をされているのに、私だけ帰ることは出来ません」
その声は凛としていたが、表情の疲れを隠し切れているとは言い難い。現に、勢いよく返事をしたのが脳に響いたのか、こめかみをさり気なく押さえている。心無しか眉間にも皺が寄った。
「私たちも、もうすぐ休むわ。だから気にしないで」
「…分かりました。お疲れ様でした。お先に失礼致します」
彼には頑張りすぎてしまう節がある。故に今までも、度々このようなやりとりがなされてきた。特に今回、第一発見者は彼である。真相を解明したい気持ちも人一倍であろう。だからこそ、無理は禁物なのだ。事件解決に責任を感じる余り、事件に囚われてしまった同僚を、名梶は数人、知っている。
「俺達もそろそろ切り上げるか」
「了解です」
時計の針は午前二時四十分を指していた。差し入れのコーヒーを飲み干し、先に名梶が立ち上がった。
「今日は俺がこの部屋を閉める」
「ありがとうございます、先輩」
昨日は名梶が鍵を閉めた。一昨日は逆。この当番制は、捜査初日に取り決められた、小さな約束である。
名梶が部屋を出て、十分くらいが経過しただろうか。白色の蛍光灯が妙に眩しい部屋に残されたのは、結城ただ一人。彼は部屋の最奥に座っており、背後のカーテンは僅かに開かれているが、窓は閉じられたままだ。それもそうだろう、一月上旬の夜風が吹き入れてきたならば、忽ちに風邪を引いてしまうに違いない。
パタン、とパソコンを閉じて結城が立ち上がった。
―――その時、異変が起こった。
結城の視界が、ぐにゃりと歪んだ。
これは眩暈か?否、明らかに"何か"がおかしい。吸い込まれるような感覚、このままではまずいという焦燥感、そして、恐怖。
部屋が、結城自身が、何か圧倒的な力によって捻じ曲げられているような。これは確かに現実なのか?
突如、凍てつくような風が吹き込んでくる。それは結城の背中を撫でていた。底知れぬ恐怖に呑まれながらも、結城は背後に強烈な存在を認めた。方向という方向が失われている中、感覚だけを頼りに、体を捻る。
―――そこで、結城が見たもの。
闇が支配していたはずの、窓の外。
目前の全てを侵食している、赤色。
赤の中央に埋め込まれた巨大な"眼"。
血走ったそれは、獲物を射抜くような視線で、結城を見つめている。
まるで石になったかのように動かない体は、既にその眼に捕らわれていた。
止まった時計の針が、再び動き出した。全身を包んでいた氷が溶けた。瞬きが許されたと思ったら、目前の非現実的な光景は、跡形もなく消え失せていた。
「………。」