プロローグ
背中に走る冷たい感覚で僕は目を覚ました。
冷たい? おかしいな。僕──栗林洋介──は高校から帰る途中で自転車を漕いでいて、それで急に目の前が真っ暗になって、それで……どうなったんだっけ。
……ああ、そうだ、気を失ったんだ。『気を失った』ということが分かるような気の失い方も珍しいと思うけど、とにかく体がフッと軽くなるのをただただ感じることしか、僕にはできなかった。そして、今ここに居るわけだ。
ここはどこだろう? 体を起こそうとしてもうまくいかない。目だけは動かすことができたので、天井を見上げる。石造りの暗い色彩の天井。ここは病院だろうか? だとしたら、辛気臭い病院もあったものだ。気が滅入るような色合いの石造りの病院なんて聞いたことが無い。世界のどこかには存在するのかもしれないけど、少なくとも僕の住むA市にはそんなものは無いだろう。だとすると、気を失ってから随分遠くに搬送されたみたいだ。でも、あれ? 救急車は最寄りの病院に向かうはずじゃ……。
病院じゃ、ない?
視線を天井から逸らして、横を見る。すると、映画の舞台セットのような、こってこての鉄格子が目に入ってきた。どういうことだろう? 鉄格子のある病院って……精神病棟? 嫌だ、僕そんなところに送られたのか!? いや……違う。鉄格子のもっと向こうを見てみると、天井と同じ色合いの石造りの壁と床、同じような鉄格子に閉ざされた小部屋がいくつか、そして上の階に続く階段があった。しかし、その階段がおかしなことに装飾に飾られた物々しいもので、まるで中世ヨーロッパの王城みたいだなと僕はぼんやりと考えた。そんな病院が果たしてあるだろうか? いや、無い……。
病院じゃないとすると、ここはどこかのお屋敷で、奇特な大金持ちが道で倒れた僕を自分の家に連れてきたのだろう。うん、そうに違いない。奇特な人物だから、自分の家をこんな牢屋のように改造しちゃったんだ。
ぼんやりとした頭で考えた僕の拙い予想は、しかし、次の瞬間、階段から降りてきた二人の男(?)によって粉々に打ち破られた。
ドスッドスッドスッ。
重量感のある足音を立ててその二人は階段から降りてきて、僕の部屋の鉄格子の前に立った。その装いは……驚くほどに奇妙だった。
一人は、身長が二メートルを超すような大柄の体で、銀色の鎧を着ていた。鎧には、大きな角の竜のような紋章が至る所に刻まれており、なぜかそれぞれの紋章の上からそれを隠すようにバッテンが書かれている。髪は背中に届くくらいに長くてボサボサで、頭には……中ほどでよじれた角が二本立っていた。角? 何かの仮装だろうか? そうだとしたら、驚くほど精巧で真に迫った仮装だ。じゃあ、彼の顔や腕など、鎧の露出部分にくまなく生えているもさもさとした赤色の毛も仮装だろうか? 口に生えたキバも? 背中の大きな翼も……? 凄い格好だ。まるで本当の悪魔みたいだぞ。
もう一人の方は比較すると少し小柄で、マホガニーのような木の鎧を着た、全身の肌が緑色の男だった。わざわざ仮装パーティの為に全身に色を塗るのは大変だったに違いない。彼の努力に僕は拍手をしたい思いだったが、体がうまく動かないので無理な相談だ。
二人は僕の小部屋と廊下を隔てる鉄格子の前で、もじもじと煮え切らない態度でお互いに目を合わせたり、僕のことをちらちらと見たりしている。なんでそんな目で僕を見る? 彼らの態度はまるで、僕の何かを恐れているような……。
やっぱりここは病院で、僕は何か悪い病気に罹ったんだろうか? 僕は彼らに聞いてみることにした。
「すみません……」
え??
なぜだかやたらと幼い感じの、そして女の子のように高い声が喉から出てしまった。ちょっと恥ずかしい……。でも、二人はそんな僕の声を笑うこともなく、相変わらず怯えたような目で僕を見ていた。僕、なんか悪いことでもした?
「ちょっと聞きたいのですが……ここはどこでしょうか? 僕、倒れてからの記憶が無くて……」
「とぼけるな!」
悪魔風の格好の男に強い語勢で返されてしまった。でも、語尾が震えている。どうやら何か恐ろしい勘違いをしていて、僕を怖がっているみたいだ。目覚めたばかりの人間に対して結構ひどい仕打ちだと思うけど、勘違いしているなら仕方ないか……。
「おい、やめろ。ダウィ!」
緑色の男が悪魔風の男に小声で言った。
「あんまり刺激するな。暴れだしたら俺たちでは止められんぞ……!」
「ああ、ウディ……。でも、アーロン様が連れてこいと……」
「だったら尚更だ。今になっては〈彼女〉は敵でなく、客だ! いいか、冷静になれ? これは取引だ。事情を知れば、〈彼女〉の方も悪いようには取らないかもしれんぞ……」
〈彼女〉? 一体何の話だろう?
「失礼しました。お目覚めのところ申し訳ありませんが……アーロン様が、あなたと話がしたいということなので、ご足労おかけしますがアーロン様の自室まで来ていただけませんか?」
なんだか変なことになった。僕はただ家に帰りたいだけなのに、アーロン様とやらに呼ばれているみたいだ。ふう、まずは行ってみるしかないか……。こんな牢屋みたいな部屋にずっと居たくないしな。
仰向けに寝た状態から体を起こす。
ばさぁ。
あれ? なんだか頭の上と後ろが重い。ずっと寝ていた影響……じゃない。まるで小さなヘルメットを被っているみたいに。それに、自然と頭が軽く後ろの方に引っ張られる感覚。
そして、体を起こしたことで自然と視界が自分の下半身に向く。
えっ?
目に入ってきたのはいつもの見慣れた僕の制服のズボンではなかった。
軽く立てた膝を、白くて金の刺繍の入った布がすっぽりと覆っている。その布は、どうやら僕の腰の部分でキュッとギャザーになってひだを作っている。なんだか女の子の履くロングスカートみたいで、とても恥ずかしいぞ……! それに、スカートの左右の両端を、まるで鎧のように金属板が覆っていて、腰当てみたいになっている。
膝の間から垣間見える足には、空色のブーツが履かされている。おかしなことに、スカートみたいなものに覆われているにも関わらず、下半身全体が僕の知っている自分の体よりもやや小さく見えた。一体なぜだろう? この部屋といい、奇妙な仮装の男たちといい、勝手に着せられていた変な服といい、おかしなことばっかりだ……。
「よいしょっっ」
また高く澄んだ声が僕の喉から出てきたが、気のせいだと思って構わずに、僕は立ち上がった。
さらさらさら。
今度は視界に変な銀色の糸のようなものが入ってきた。蜘蛛の糸? いや……これは、僕の頭の小さな動きに合わせて、ゆらゆら、ゆらゆらと揺れている。じゃあ、髪の毛? でも、僕の髪ってこんな色じゃないし、そもそもそんなに長くなかったはずだけど……。
服に乱れがないか確認するために下を向く。すると、胸の部分に大きな二つの円錐型の突起が……ある。なんだろう? 触ってみるとその突起は金属製で、というか、僕の上半身をすっぽりとその金属の服が覆っている。金属の服って、つまり、鎧だ! 嘘だろ!? なんで僕、鎧なんか着て……。それにこの形、映画とかで良く見る女性用の胸当てだし……! つまりこの膨らみっていうのは、女の子の胸を収めるアレだろう!!
「あの戦いの疲れは残っていないらしい……」
「頑丈だな。さすがは勇者……」
なんかごそごそと変なことを言われている気がするが、僕はそれどころではなかった。改めてもう一度全身を確認すると、スカートは履かされている上に、胸当てまで着ているし、頭には額当てが嵌められている。おまけに恐らく銀髪のウィッグまで。信じられない思いで、僕は多分事情を知っているであろう二人組に顔を向けた。
「すみません、なんで僕、こんな服を……」
「え?」
「え?」
男たちはまた顔を見合わせた。
「どうやら彼女、記憶が混乱しているようだ」
「これはチャンスじゃないのか? 今なら……」
「待て待て、どうせすぐに記憶を取り戻す。その時に悪印象を持たれていては、これからのことに関わるぞ」
男たちは話し合った後に、悪魔風の格好の男の方が、懐から真鍮の縁の手鏡を取り出した。野性的な恰好なのに洒落た手鏡を持っているギャップで、僕は危うく吹き出しそうになってしまった。
「どうぞ、ご格好を確認ください、セレス殿」
男が鏡を僕に向かってかざす。鏡面はちょうど僕の側に向いていて、今の僕の格好がはっきりと目に入ってきた。
え?
え?
えええ!?
鏡に映っていたのは……背中まで伸びた艶やかな銀髪の綺麗な、降り積もった深雪のように真っ白で滑らかな肌を持つ、どこか無邪気そうな表情を浮かべた小柄な〈美少女〉だった。