第28話『真夏の熱病〜離婚へ』
倫理に反する事も色々と出てきますが書きます。
おこがましいかもしれないけれど、反面教師として、
似たような境遇に今いる人に何か一助となれば…
と少し思ってます。
・:・:・:登:場:人:物:・:・:・:・
本木リク(主人公)
本木君(本木雅弘さん風)
高田さん(高田延彦さん風)
・:・:・:・:・:・:・:・:・:・:・
「あ、あの、昨日はスミマセンでした!!!
酔いと睡魔で朦朧としていたものですから、
つい変なちょっかい出してしまって!!
ホントに申し訳有りませんでした!!」
どちらからとも判らない、あの微かなキス…
(私は貴方が好きだから酔った勢いで貴方にキスしたくてしたのよ)
と、本心をこっそりアピールしたい気持ちが見隠れしている台詞だ…
「え?…あ、いや、あの…、
僕が、その……僕が変な事しちゃって、
ほんと、変な事してしまって申し訳ないというか……、うん、
それでとにかく謝っておかなきゃと思って電話したんだけど…。」
彼は彼で、キスしてしまったことを
謝っておこうと電話してきたらしい。
これって、お互いに<自分からキスしました>と
告白しあったようなものだ。
四月の初めに移動してきた高田さん。
自分の新しい部下を把握するために、
暇を見つけては一人一人との面接をこなしていた。
私も五月の初め、あの泥酔接待事件の頃には面接を受け終えてた。
ところが、その後になって、
「本木さんって離婚するんだそうですよ。」
と一部の人間から私の離婚話が
高田さんの耳に入り…
「ええ?そうなの?
その辺の話はこの前の面接で言って無かったなあ。
もう一度改めて面接しなおさないと。」
そんな五月の下旬頃のこと。
部長の送別会があった。
その日はどう考えても高田さんと二人になんて
なるハズがない状況だったのだけど、
皆でバラバラと二次会に向かう道中、
ダラダラと歩いてた私に後ろから近付いてきた高田さんが
こう声を掛けてきた。
「本木さん、明日、仕事終わってからヒマ?」
「えっっ?!」
(モトキサン、アシタ、シゴトオワッテカラヒマ?)
(モトキサン、アシタ、シゴトオワッテカラヒマ?)
(モトキサン、アシタ、シゴトオワッテカラヒマ?)
私は、いきなり矢で射られたようになっていた。
勢い良く的に突き刺さった矢がビヨョョ〜〜〜ンと振動するように、
その言葉が私の心臓に背中から突き刺さって何度もこだました。
「面接の続きをしたいんだけど…。
色々聞けていない事があるようだし。
とにかく明日仕事場に電話するから、
他の人には言わないで、こっそり出て来て。
話も話だしね…、
それに二回も面接するの他の人に知られないほうが良いだろうし。」
皆でゾロゾロと歩く繁華街の雑踏の中、
私の肩ごしに高田さんがそう言った。
もちろん私は飛び上がる気持ちを押さえるのに必死。
面接だろうが何だろうが、
高田さんから密会の約束を貰ったのだから!
数日前のあの微かなキスも、
彼がしたことだって電話で謝ってたし…
まるでデートにでも誘われた気分。
まあでも、離婚の事を最初の面接で説明してなかったのは事実だし、
真剣にただの面接なんだろうなとは思いつつ、
でもやっぱり浮かれた気分は消す事が出来ず…
そして、マル秘の面接当日。
私は仕事中も一日中、
高田さんと二人で会えるということで頭が一杯。
夕方、私の仕事場に別の事務所にいる彼から電話があり、
待ち合わせ場所と時間を決めた。
そして、面接で呼び出されただけなのに、
ドキドキしながら待った。
待った。
待った…
なんと二時間以上も待った!!
待ち合わせ時間は、二十時。
待ち合わせ場所はバス停。
数時間前から降り始めた雨が、激しさを増していた。
バス停にささやかな屋根はあるけど、
その横殴りに吹き付けるような大雨は容赦なく入り込んでくる。
五月の薄着…、冷たい風雨にさらされながら、
寒くて寒くて凍えそうになりながらも私はひたすら待ってた。
97年当時、彼は携帯電話をまだ持っておらず…
私は携帯電話を持っていたのだけど、
当時はまだ携帯電話ってあまりオフィシャルなものではなく、
プライベートな持ち物というイメージが強い時代。
会社の人に番号は教えていなかったのでした。
お互い連絡が一切取れない状況のまま。
「私ったら、からかわれたんだわ、きっと。」
そう思った。
何度もそう思ったけど、
でもやっぱりその場を立ち去れない。
何度も何度も何度も帰ろうと思ったけれど、
やっぱり帰れずに待ち続け、
二時間を過ぎて時刻は二十二時。
二時間待ったのだから、もう帰ろう。
でも、あと五分だけ…
二十二時〇五分、
でももうちょっと…
二十二時十五分になったら帰ろう。
二十二時二十分…
いよいよ帰ろうと歩き出したその時、
バス停の十メートルほど先のふと見た車の中に彼が!
高田さん!来てくれたんだ!
この大雨のせいで高速道路が大渋滞、
彼は渋滞に巻き込まれていたのだった。
やっと到着したら既に二十二時過ぎ、
待ち合わせから二時間も過ぎて、
しかもこの暴風雨。
もう絶対に待ってないだろうからそのまま帰ろうと思いつつ、
バス停のほうを見たら雨で霞む視界の中に私が歩いてきて…
「まさか、居てくれると思ってなくて、
ほんとびっくりしたよ!
こんな雨の中待たせてホントにごめんね!」
傘もあまり役に立たないような吹き付ける大雨のせいで、
ビショ濡れで、寒くて、死にそうだったのに、
彼の顔をみたらあまりの嬉しさに、
そんなことどこかに消えてしまう。
「仕事の時の厳しい本木さんのイメージから言って、
三十分も待ってくれなさそうだったからさ…、
一時間過ぎちゃった時にもう途中で帰ろうかと思ったんだけど。
こんなに待っててくれたなんて…。」
車の助手席で、
ガタガタ震えながら体を拭う。
(あれ?これって社用車じゃない…、もしかして高田さんの愛車?)
カーエアコンで体を温めてさせてくれる。
「ビショ濡れで凍えて待たせちゃったお詫びに、
こんな時間だけど、美味しいもの食べに行こう。
少し体が乾くまで遠回りして走るから。」
会社帰りの上司と部下が、
仕事の話をするのにありがちなのは大衆居酒屋。
そんな場所ならツーショットの上司と部下も珍しくない。
でも、高田さんが連れて行ってくれたのは、
内装もお洒落で、お料理もコダワリの、
センスの良い串焼きのお店。
「この店、来てみたかったんだよね。」
と高田さん。
雰囲気の良いこのお店はデート利用のお客さんで一杯…
こんな時間に来た私たちもデートなカップルだと思われてるかな?
「本木さん、離婚するって聞いたけど、本気なの?」
追加面接の理由はこの話。
大雑把にこれまでの過程を高田さんに説明…
「ついこの前、やっと夫も離婚に同意してくれたので、
私の仕事が落ち着き次第いよいよ本当に離婚するんです。」
離婚するなんて、言ってるだけだろうと思っていた高田さんは、
本当に決まった話なんだと聞いて少し驚いていた。
デートな雰囲気のお店で食事して呑んで、
気分はすっかりデート。
それに、彼は社用車ではなく、
なぜかマイカー。
彼のこだわりの愛車。
「ふぅ〜ん…
高田さんってこういう車乗ってるんですね〜、
ちょっと意外かも。」
「ははは、やっぱ意外?
ファミリーカーなイメージだったんでしょ?
でも車はねぇ、僕の趣味っていうかこだわり。」
紺色のクーペタイプのBMW。
彼の収入から想像するに、
きっと奮発して買ったんだろう事は想像がつく。
「たしかに、ファミリーカーのイメージかな…」
「嫁さんはファミリーカーに乗り換えて欲しいみたいだけどね。
僕は”呑む・打つ・買う”どれもしないし、真面目でしょ、
車だけね、ちょっと無理して奮発!
女の人には理解出来ないみたいだけど男のロマンってヤツかなぁ〜」
「男のロマンか。
じゃ折角だから、少し…、ひとまわり走って帰りたいなぁ。」
「うん。待たせたお詫びだね、少しだけドライブして帰ろう。」
こんな風に高田さんと二人で過ごすことなんて
きっと二度と無いだろうな〜…
今二人で一緒にいるこの時間が本当に嬉しくて、
この愛しい時間を終わらせるのが辛くて辛くて、帰りがたくて、
とにかく少しでも長くこのひとときが続けばと、
送ってくれた車の中で明け方までずっと話をしていた。
”もうこんな時間だ、帰らなきゃ”
その言葉を彼の口が言いませんようにと願いながら、
彼が時計を見ないようにと祈りながら、
停めた車の中で延々とお喋り…
深夜の車に二人きり。
周りに人通りも無い。
”襲ってくれないかしら?”
なんてちょっぴり期待もしてたりして…
でも、彼の人畜無害は有名。
「高田さんと裸の美女を密室に一晩置いといても、
絶対に何も起らない。」
そう名高い彼だけに、
この状況でも何ごとも起る訳も無く。
そんな堅い彼に接して、
ますます私の心には火がついてしまうのでした。
そうして、面接のつづきと称するデートは終わった。
デート?
やっぱデートじゃないかな?
そんな仕事絡みの食事と
ついでのドライブを一度したくらいで、
超真面目な高田さんと私に何かが始まる訳もなく。
とはいえ、私の心中は穏やかであるはずもなく、
想いは日に日に募る一方…
とはいえ、上司だし、高田さん既婚者だし、私もまだ既婚者、
そういう分別、理性は一応私にも有る訳で…
思えば私は、
高田さんが超真面目で女に見向きもしない人だということを
唯一の防波堤にしていた感じだ。
彼は恋愛なんか絶対しない人だから、
そんな事には無関心な人だから、
私の気持ちがどんなに膨らんだとしても、ただの片想いでいられる。
とにかく自分から何かアプローチをかける事だけはしてはならない、
それが精一杯せめてもの私の理性だった。
それを肝に銘じておけば、
あの真面目人間の高田さんからは
何かがあるハズが無いのだから、大丈夫。
私は一方的に彼を恋しているけれど、
彼にとっての私は単なる仕事のパートナー。
密かに片思いしているだけなら、罪悪にはならないだろう…
そう、<片想い>なんだというそのことが
大きな防波堤だった。
そんな相手任せな防波堤なんて、
所詮もろいものなのだとは思いもしないで…
面接と称するデートのあと、十日程たった頃、
何かの話からふいにゴルフの話しになり…
「ふうん、本木さんゴルフやるんだぁ。
じゃあ今度、練習場一緒に行こうよ。
うちの嫁さんはスポーツやらないもんだからさぁ〜。」
異性を全く意識してない高田さんのお誘い。
なんとも思ってない男性からの言葉なら、私も気軽に応じる。
でも高田さんからのこの言葉には超ドッキドキ…
(誘ってくれてる!ああ、ダメ、のぼせてしまう…)
結局、上手く都合がつかずに
ゴルフ練習はお流れになったのだけど、
そんなやりとりがあった一週間程後のこと…
その日は私は早くに仕事が終わって、帰ろうとしていた。
ふと遠くに高田さんが仕事しているのが見えたので嬉しくなって、
とにかく帰り際に挨拶しに行って、
ついでに一言二言でも会話出来たらいいな〜♪
なんて思いつつ…
(かと言って”お茶”なんかに誘ったりなんて出来る訳もないし…)
…とかなんとか考えながら、
挨拶ついでに雑談してほんの数分話を引き延ばしてた。
すると、なんと高田さんが…
「ところでさ、今度の土曜日ってヒマ?」
コンドノドヨウッテヒマ?
自分の耳を疑ったけど、
本当に彼がそう言ったのです!
必死に平静を装って、
(でも多分相当なニヤケ顔だったに違いない。)
「え?今度の土曜って私…えーと、休みでしたっけ?」
「本木さん、お休みでしょ。」
(え?私の休みを覚えてくれてるの?)
「あ〜、一応たしか何も予定はありませんけど…
どこか連れてってくれたりなんてするんですかぁ???」
(…ははは、なんちゃって。)
「うん。どこか行こうかなぁ〜と思ってさ。」
(ええ?! えええええ???? えええええ!!!!!)
「わああ♪いいんですかぁ?!行きます!連れてってください!」
とにかく驚いた!!!
あんまり驚いて、そのまま喜んで受け入れてしまった。
クールな仕事人間の本木璃玖、
スマートに歩いたつもりだったけど、
きっと飛び跳ねるみたいに歩いてたな。
離婚直前のストレスを抱えた可哀想な部下への同情かな…
気晴らしをさせてやろうという面倒見の良いお兄さんみたいな感覚かな…
ま、そんな感じなのだろうけれど、それで充分!
私は死ぬ程嬉しくて舞い上がってた。
六月二十一日、
約束の土曜日。
仕事のパートナーとして、
気晴らしに連れ出してくれようという親心なんだろうけれど、
でもでも、それでも、
初めて仕事の話で呼び出されたわけではないデート!
デート…
彼はデートだとは思ってないんだろうな。
でも私はドッキドキ。
仕事の時とは服装だって違うわけだし、
どんな服着て行こうか、こんなに悩んだのは何年ぶり?
肌の手入れ、ネイルの手入れ、
寝る時間が無いほど準備…
朝十時、待ち合わせ場所は郊外の駅のロータリー。
三十分くらい早めに着いた私は、
駅の化粧室で念入りに髪やメイクのチェック!
恋していると、こんなにも必死で女磨きをしようとする。
女ってバカ…
六月後半の晴れた日、
照りつける太陽が暑くて、
外で待ってるとジワっと汗ばむ。
その度にメイクが崩れてないか気になって気になって、
何度も直しに走ったっけ…
高田さんの車が現れた。
綺麗に磨いた紺色の車体が、
晴天に輝いてた。
この前は大雨だったもんな。
とにかく車が大好きな高田さん。
外車や高級車=イヤな奴、一般大衆車=イイ人、なんていう
妙な偏見をもってた私に、
ブランド好きなのではなく、とことん車好きなんでBMWなんだと
熱く教えてくれました。
「どこ行くんですか?」
「うん。わかんないけど、とにかく西へ!
行ける所まで行ってみようと思って。
走るのとにかく好きだからさ。
あ、どこか行きたい?」
そんな調子の高田さん。
やっぱりこの人、女を上手に扱うタイプじゃない。
そんな高田さんが好き。
私も無目的なドライブは大好きだし、
何より高田さんと一緒にいられれば、
それだけで幸せだから、
もう楽しくてしょうがない。
「嫁さんはさあ、付き合ってくんないんだよね。
たまに休みにどこかドライブ行きたいな〜!と思っても
ヤダって言うんだよ。」
「へえ〜、昔からですか?」
「いやまあ、独身の頃とかはね、
なんか一応無理して付合ってくれてたみたいだけどさ。
なんか元々は出無精っぽいんだよね。はははは。」
「そうなんだ…。」
「ドライブ行きたいなら行ってイイよ、って感じだね。
嫁さんは子供と実家に行くのが大好きでね、
私たちはあっち行ってるから、遊んでくれば?って、
ドライブ付合うより実家に行くのが嬉しくてしょうがないみたい。」
「高田さんは行かないんですか?奥様の実家。」
「たまには行くよ。僕も嫁さんの実家とは仲が良いからね。
でも嫁さんはホントしょっちゅうだから。
僕が居ないで実家水入らずのほうが楽でいいんじゃない?」
「なるほどね〜。ふうぅん。」
「だから、僕も久しぶりにこうやって出掛けられて嬉しいよ。」
景色の良いドライブウェイを走ったり、
山の展望台に登ったり、
寄り道しながらどんどん西へのドライブ。
カーステレオからは、
懐かしい80年代のビルボードヒットが…
「すごーい!めちゃ懐かしい!
こんなの聴いたの何年ぶりだろ!え〜!どうしたんですかこれ?」
「あ、やっぱり本木さんも同世代だもんね!
イイでしょ、コレ。」
「うんうん!最高!こんなのもう今時流れないから聴く事無いもん。」
「そうなんだよね〜、80年代のビルボードヒットを集めたCDボックス。
思わず買っちゃったんだ〜。今度貸してあげるよ。」
仕事を離れた会話が何時間も続き、
どんどん打ち解けて行く…
ランチ、お茶、そして晩ご飯、
何度も二人で食事するうちに、
どんどん雰囲気はデートっぽくなっていく。
二人っきりで一日をこんな風に過ごしてると、
歳が近いせいもあるのか、
上司と部下という事がどんどん消えて行ってしまう。
ただの同世代の男女、そんな感覚になる。
そして、
ドライブデートの帰り…
またしても帰りがたくて、
いや、むしろこんなに楽しい一日を過ごしたのだから、
前回以上にモーレツに帰りがたく。
また車内で深夜までずっとお喋りしてた。
この前と同じ、
私の自宅近くに車を停め、
時刻はもう間もなく午前4時に。
心なしか空が白み始めてる?
”もう帰らなきゃ。でも帰りたくない…”
もう今度こそ本当に、
こんな機会は二度と無いかも知れない、
いや、普通に考えて無いよ。
そう思った私は、とにかく必死に色んなことを考えた。
でも、このまま気持ちを断ち切って帰らなきゃ!
こんな奇跡みたいな恋人気分な一日をプレゼントしてもらって、
良い想い出にしよう!
いざ、帰る踏ん切りをつける為に、
私は恥を忍んで、お願いをした。
「手を触ってもいいですか?」
何言ってんの?この女?カンチガイするなよ、
…そう思われないか、祈るような気持ち。
「いいよ。」
高田さんは少し驚き、
照れたような素振りで、その左手を私に差し出してくれた。
彼はアクセサリーが大嫌い、
その左手には指輪はない。
不器用で、ほんと色恋が似合わなくて、
純粋で真直ぐで、控えめなのに芯が強くて、
小学生の少年みたいなのに、お兄さんみたいに温かくて…
プライベートで一日を一緒に過ごして、
高田さんの事、ますます好きになってしまった。
でも、こんな出逢いでなかったらどんなに良かったか…
差し出された彼の左手を両手で握りしめながら、
たまらない想いが込み上げて来る。
でもそれを振り切るように、
いざ帰る決心をする。
勢いが無いと、もう永遠にその場を離れられない。
彼の左手を包んだままの自分の両手を、
祈るように念じるように額に押しあて、
その額から手を離すついでに彼の手に微かに唇を触れ…
よし!帰るぞ!
踏ん切りをつけた勢いでその手を
最後に一瞬ぎゅっと抱きしめた。
その次の瞬間…!
私には何が起ったのか一瞬理解できなかった!
私の顔の目の前に彼の顔があり、
私の唇は彼の唇でふさがれていたのです。
それ以前までの彼からは想像もつかない
情熱的で濃厚なキスをされ、
私は頭が真っ白…
自分がどう応じたのか、
そしてその後、どう車を降りたのか、
覚えていない。
思い出せない。
そのくらいの衝撃だった。
気が付いたら私は自宅のベッドで一人呆然としていました。
どうやって帰ってきたっけ?
その夜じゅう私の心臓のバクバクは止まらず、
眠れぬ夜を過ごしたのは言うまでもない。
着替えもしないまま朝が来てしまった。
魂が抜けちゃったみたいにボーっとしてる。
あれは、夢?
それとも……、現実?
シャワー浴びなきゃな。
ようやくボンヤリしながら服を脱ぎ、
アクセサリーをはずす…
(あれ? ……ない!)
ピアスが片方しかない!
どこに落としたんだろ?
え??? まさか……
高田さんとのデートが走馬灯のように
目まぐるしく頭を駆け巡る…
車に乗るまではあった、それは確かだ、ということは…
車で落とした?
目を閉じるとあの激しいキスが蘇る…
そうだ、きっとあの時に落ちたんだ。
それ以外考えられない!
車の助手席まわりにピアス…
最悪だ!!!
しかも小ぶりでシンプルなものなら、
「仕事で会社の人を乗せたから」とでも言えるだろうけど、
私が落としたピアスはどうみてもお出掛け用。
4cmほどの大ぶりな、ひっかけタイプの装飾ピアス。
マズイ!どうしよう!
携帯電話をまだ持っていない高田さん。
この緊急事態を一刻も早く知らせなきゃいけないのに…
今日は日曜日、
会社にも出てこない日。
連絡する術が無い…
日曜ってことはつまり、
家族で車に乗るかも?
どうしよう!
なにかトラブルになったらどうしよう!
どう考えたところで、
なす術は無く、
月曜日になるのを待つしかなかった。
奥様がみつけてたらどうしよう…
私がワザと落としたと思われたらどうしよう…
よりによって、なんでこんな…
そして月曜日。
高田さんの様子はいつもと変わらないみたい。
トラブルにはまだなっていない?
ピアス落とした事、まだ気付いてない?
とにかく急いで知らせたい。
謝りたい。
でも周りには絶対に聞かれちゃいけない。
私はメモ紙にピアスを落とした件を書き、
こっそり高田さんに渡した。
その日はそれ以上のコンタクトを取る事は出来ず、
胸騒ぎのまま何事も無い事を祈る。
そして、その翌日…
代休で休みだった私の家に
高田さんから電話が。
もちろん仕事の電話だったのだけど。
おおよそ仕事の話が電話口で済んだ頃…
「あ、例の、…ピアス、あったから。教えてくれてありがと。
ちょっとビックリしたけどね。
なかなか見つからない所に落ちてたよ。ははは。」
「奥様、大丈夫でした?」
「え?ああ、あの人はね、僕の車には全く興味ないから。
僕が居る時じゃなきゃ車に近付きもしないし、
乗る時もいつも子供と二人で後ろ。
隣には来ないから。」
「そうなんですか?
トラブってるんじゃないかもう心配で心配で…」
「ワザとやったなんて思ってないから、
気にしないで。あははは。」
「よかった…、
でもホントとんでもないウッカリミスで、
すみませんでした!」
(あ〜〜〜、ほんとに良かった……。)
「それより、今日は僕ももう終わったからさ、
もし時間空いてるならちょっと出てこない?」
(デテコナイ? えええ??? あの……、ええっ?!)
なんだか楽しそうに言う高田さん。
この前のデートで完全にもう骨抜きにされちゃってた私に、
彼の誘いを拒める訳がない。
大慌てで身支度を整え、
大はしゃぎで出掛けて行って小デート。
そして、またその週末も…
毎週土曜はたいてい会社に出て仕事しているのが恒例の高田さん。
電話もめったに鳴らないし、殆ど誰も居ないから、
マイペースに好きなだけ仕事が出来て、
おまけに愛車で出勤出来るから土曜に会社に来るのが大好きだとか。
みんなその事を知ってるから、
土曜に高田さんに用事があると、
フツ〜に会社に電話する。
1997年、まだPCのメールが一般化してない時代。
ちょっとした書類の事で、土曜出勤中の高田さんに電話。
口頭で書類の内容を確認したくて電話した私に、
彼はアッサリ一言。
「じゃあさ、今からその書類取りに来てよ。」
嬉しそうに言う高田さん。
彼のお誘いの言葉に舞い上がる私は、
言われるがまま大喜びで出掛けて行って、
またデートして…
あの遠出のドライブデート以来、
土曜出勤で仕事をしている彼のところに出掛けて行っては
毎週デートを繰り返すようになった。
デートスポットに出掛けたり、
ドライブしたり、
食事したり、
ちょっとしか時間の無い時はお茶だけでも…
会社で何か行事があると、
必ず帰りにコッソリ落ち合って
二人で雰囲気の良いバーに呑みに行ったり。
隙間が少しでもあれば、
二人で会う時間を楽しむようになった。
言い訳するわけではないけれど、
私は自分からデートのお誘いが出来る人間ではない。
毎回、彼が誘ってくれるから、
大喜びして会ってた。
女に全く興味を示さないタイプの高田さんのハズなのに、
完全に彼主導でデートを繰り返すようになったのでした。
女にいくらアプローチされたって
頑として見向きもしない人なハズなのに。
あまりにも私がのぼせ上がってるので、
流石の高田さんも興味が湧いたのかな…
デートを重ね、一緒にいればいるほど、
ますます好きになるのは当たり前の事で、
私は完全に彼の虜になってた。
会う度にお互いのキスにこもる情熱が
どんどん深いものになっていくのを感じていた。
でも高田さんの気持ちは本当の所はまだ良く分からなかった。
直接なにか、愛の言葉を囁いてくれた訳でも無いし、
まぁ、好きだと思ってくれているらしい事を
ほのめかしてくれてるけど…
私は彼にすっかり恋しちゃってるけど、
きっと彼はそんな私が面白いだけ…
私と同じように彼が私に恋してくれてるなんて
勝手に思い上がったら、ぜったい落ち込むことになる。
片想いなんだって事は忘れずにいよう。
片想いじゃなくなっちゃったら、
不倫まっしぐらだもの…
そんな、もう、わけのわからない理屈を並べて、
冷静さを保とうとしてた。
でも…
そんなのまったく無力だった。
とにかく私達はこの世の誰よりも
仲良く愛しあっている恋人同士のようだった。
どんどんと二人で会うことが多くなり、
仕事が早く終わると必ずコッソリ落ち合って、
お茶したり小デートをするようになっていった。
そんな愛しい時間を互いに満喫していた。
もともと彼も私も二人ともが仕事の虫。
休日出勤や深夜に及ぶ残業などは以前から日常茶飯事だったから、
仕事自体を必死になって片付けていけば、
その分を二人で過ごす時間に当てることが出来るし、
お互いの家庭に不信感をもたれる事の無いようにする為の
言い訳には事欠かなかった。
急に深夜帰宅が多くなったり、
休日出勤が増えたりすればバレバレだけど、
以前と何も変わらないのだから、疑われる余地は殆ど無かった。
七月の三週目の土曜日には、
また遠出のドライブに出掛けた。
その頃にはもうすっかり二人は恋人同士だった。
普段は人目を忍んでいなければならなかったので、
誰も居ない遠くへ出掛けた時だけは、
やっと太陽の下で人目を気にせず手を繋いで
ずっとずっと触れあっていられる。
一か月前のあの夜、
私が思いきってお願いして触らせてもらった愛しい手…
今はその手を彼のほうから繋いでくれる。
見晴しの良い展望台の公園で、
景色を眺めながらずっと抱き合ってた。
最高に幸せ…
ちょうど<失楽園>という言葉が世間を騒がせていて、
既婚者同士の恋愛が取り沙汰されていた頃だった。
まさに失楽園状態にいた私達。
双方が既婚者でなければ、
こうまで突き進めなかったと思う。
今思えば。
どちらか一方が悪者となるような状態であるなら、
進めなかったような気がする。
みっともない話だけど、
二人とも同じ罪を犯しているということで
気持ちが救われるような所があって。
そうやって失楽園状態に堕ちて行く人たちが沢山いるのだろう。
愚かな話だ。
ただし、私と高田さんは数え切れない程の熱烈なキスをして、
抱きしめ合い、身体に触れあって、
もう身体が火照ってどうしようもなくなるまで絡みあっても、
最後の一線だけは超えていなかった。
どうしても彼が超えたく無いと言うのだ。
私が正式に独りになるまではと。
なぜ彼がそうこだわってたのかは解らない。
同じ男として私の夫に気兼ねしたのか、
または、自分を不倫に突進させないための歯止めにしたかったのか…
私も高田さんももうこの恋にハマりきっていた。
SEXの無いままの関係で、とことん愛しあってた。
自分で言うのもおかしな話だけど、
今迄SEXに執着されてばかりでうんざりだった私にとって
SEXしないでとことん愛しあえているこの状態は
本当に嬉しいことだった。
高校生の頃、筒井君のことが好きで好きで、
めちゃくちゃたまらなくて、
いくらキスしても足りなくて、
もう食べてしまいたいと思ったような、あの頃のように。
めちゃくちゃに彼を好きになっていた。
間もなく29歳になろうかという私が、
ましてやまだ一応主婦なのに、
もうこんなに夢中で人を好きになる事なんて無いと思ってた。
中学生か高校生のようにこんなに…
ホントに驚きと喜びで一杯。
毎日が彼の事でいっぱいだった。
五分でも十分でもいい、
彼と会いたくてしょうがない。
彼も同じ事を言ってくれる。
奥様と息子さんの前でだけは忘れた振りをしてはいるけど、
一日中が私の事で頭が一杯だと言ってくれる。
SEXがない二人なのに。
この夏じゅうは大きな仕事を抱えていて大変だったので、
それが片付いて落ち着いてから、
秋か冬前に離婚するつもりだった私…
新しい一人の住まいを探す準備を早めたのは言うまでもない。
八月の終わり頃には正式な離婚が出来ることになった。
予定より二〜三か月早い二度目の離婚だった。
第29話『29歳の誕生日』へ続く




