神と人と!
爪が脳天に近づく様をただ眺めていたら、急に視界がぶれた。宙に投げ出された身体を柔らかい雪が受け止めた。暖気の膜を張っていたせいで、身体と雪が接する面がずるずると溶けていく。その気持ち悪さに立ち上がると三歩ほど離れたところに毛むくじゃらと男が立っていた。
「さっきの助けてくれた人」
「死にたくないのなら逃げろ」
「でも、あなた――」
男の左腕から血が流れ落ちていた。白い雪が鮮やかな色に染まる。点々と落ちるそれを、頭の端で美しいと感じてしまった。
「俺のことはいい。もうすぐ家臣が到着するころだ」
男は右手に剣を持っていた。緋を滲みこませたような刀身、それに見覚えがあった。
「お母様の『銘刀:秋霜』!?」
なぜこんなところに、そう思っている間に、男と毛むくじゃらの決着はついた。毛むくじゃらが第二撃と手を振り上げた瞬間、男の剣が毛むくじゃらの腹を横に切り裂いていたのだ。
男は剣を一振りして血糊を落とし、鞘に直す。『秋霜』の刀身は曇り一つなかった。流石、天界一の鍛冶師の逸品だけある。鞘も素晴らしい。儀礼用かと思うほど美しい装飾が刻まれているが持ち主の邪魔にならないよう工夫されている。ほれぼれとしていて、男が近づいてきていることにしばらく気づかなかった。どう謝ろうかと考えが纏まる前に男が目の前に来る。気のせいか先ほどより顔色が悪く見える。顔が怖いせいか?
「この馬鹿が!!」
「痛っ」
頭に衝撃が走る。痛みに顔をしかめながら、拳を握ったまま仁王立ちしている男を見上げた。
「逃げろと言っただろう。その前にまず、何故小屋から出た? ああ、いやまず小屋に戻るぞ」
さっきより幾分か優しくアーシェの手を取る。その手はいやに熱い。それに、血が止まっていない。引っ張られながら、アーシェは恩人の機嫌を損ねないようにと祈りながら声を掛けた。
「ねえ、なんで神力で傷を治さないの?」
「神力? 神通力のことか? 修行すれば使えると思うが、俺が神に仕える者に見えるか?」
「? なにそれ? ここでは使える人と使えない人がいるの?」
「質問しているのはこちらだろう……。包帯なら小屋にある」
小屋とさほどは離れていなかったようだ。開けっ放しになっていた小屋に入る。風の音も消えドアを閉じると急に静かになった。その中で荷物をひっくり返している男の声は、小さくとも小屋の中を響かせた。
「さっきは脅かすような真似をして悪かった」
「あ、あの、こっちこそ飛び出したのに助けてくれてありがとう」
どう切りだそうか迷っていたところ相手から切りだされたことに感謝しつつ言う。空気が柔らかくなったところでアーシェは不思議に思っていたことを口にする。
「神力――神通力ってあなたたちが呼んでるもので良ければ私、少しは使えるから、治そうか?」
男は少し考え込んだ。神力に警戒しているような感じだ。しかし男は傷の深さをみて決意した。
「わかった。頼む」
服を脱ぎ、傷口を見せる。腕の肉が抉れたような傷に目を逸らしたくなる。だがそれは、アーシェを庇ってできた傷なのだ。
「……ごめんなさい」
「謝る必要はない。俺が勝手にやったことだ」
怒られないほうが心が痛い。アーシェは傷口に手をかざし祈る。
「あ、そういえば私、誰かに神力使うの二回目かも」
「大丈夫なのか……」
「大丈夫、神力は心の力でもあるから」
神力には強い精神力が必要だ。なぜなら願う力が祈る心が神力を世界に具現化する力になるからだ。祈りのない神力は具現することはない。神力を扱うことが苦手だったが、今ならできる自信があった。この男を救いたい一心である今は――
強い光がほとばしり、温かいものがじんわりと自分と男を包んだ。光が収まった後、男の腕には傷一つなかった。
「できた……」
男には言っていなかったが神器なしで、体に影響を及ぼすという複雑な神力を成功させるなど初めてだった。悪ければ、男の身体が爆発するところだった。
「ええと、一応聞くけど身体におかしいところはない? 指が一本増えているとか、臓器が一つ足りないとか……」
「自信があるのではなかったのか?」
「自信はあったけど、もしあなたが――あら私、恩人の名前を知らないなんて……」
「俺の名を知らないのか?」
「なにそれ? 自意識過剰な人?」
「自分の発言を振り返ってから言うんだな……。レイフォードという名前に聞き覚えはあるか?」
思考を巡らすが、思い当たる人物はいない。考え込む時点で知らないと見切っていたのかアーシェの返答を聞く前に再び口を開いた。
「レイフォード・コルトゥ・クレイブル――俺の名だ」
「アーシェよ。助けてくれてありがとう。ねえ、ここってどこなの?」
「クストー山だ」
「天界に、そんなところあったかしら……」
「天界? なんだそれは?」
「なにって……、私たちの住んでいる世界……みたいな?」
悪い予感がする。そしてレイフォードは、アーシェが最も恐れていた言葉を口にした。
「天界ジオのことか? そこは神々の住まう地だ」
言葉を失った。では、ここはどこだというのだ。
「天界ジオと魔界クーガの境界線、人間界ウィルガムに決まっているだろう。それともなんだ。お前は魔界から来たのか」
レイフォードの空気がさきほどまでの落ち着いた雰囲気から一転して、殺気立ったものになった。慌ててアーシェは言葉を紡ぐ。
「違うって。逆! 逆よ! 天界から来たの」
「天界だと? 魔界ならまだしも。そんな馬鹿なことを言うな」
「なんで、魔界だったら信じられるのよ」
「神通力が弱い。神であるならば神器を扱うために相応の力を持っているはずだが、お前からはそれほどの力を感じない」
身に余った神器を使ったせいで暴走してしまったのだ。しかしそれを言うなら、
「あなた、『秋霜』を使えるなんて、なかなかやるじゃない」
人間で、ここまで神力があるものは稀有だろう。言われなければ人間だと気づかなかった。
「先祖が神だった、らしい」
「え? そうなの? でも、神が簡単に人間界に来たらいけないんじゃあ――」
人間界が魔界に攻められないかぎりは、みだりに神が人に介入してはいけないのだ。
「だったら、お前はいいのか?」
「私は……、ほら事故というか」
神器の羽衣が暴走したとは言いづらく、言葉を濁していると鼻で笑われた。
「何のつもりかは知らんが、隠し立てしてもためにならんぞ」
「隠し立てなんかしてないわよ! 私は正真正銘の神うわっ」
言い終わる前に、レイフォードが倒れてきた。危うく共倒れになるところだったが、どうにか胸で支える。顔を覗き込むと、目を閉じて眠っていた。
「疲れたのね」
傷がふさがったといっても、体力は戻すことができなかったようだ。もうすこし神力が使えればと、悔しく思ったがレイフォードが自分にもたれかかり、眠る姿にアーシェの心を慰めた。
強い神力を持っているが男は天界人ではなく、おそらく人間だ。おそらくアーシェよりも強い。人間は神力をもっていない、または持っていても小さいものだと聞いていたが、彼のようなものもいるようだ。アーシェのように父が偉大な力を持っていても娘がそうでないことがあるのだ。彼のように突然強い力を持つ者が生まれても不思議はない。しかし、神力を持っていたとしても、人間は人間だ。天界人とは違い寒ければ死んでしまうだろう。
消えていた暖炉の火を指を振って宿し、部屋を暖める。そうすると、レイフォードが暖かいこともあってアーシェも眠たくなってきた。うつらうつらとし始めたところで、乱暴に扉が開く音で現実の世界に引き戻された。
「レイフォード様!?」
「だ、だれ?」
小屋に入ってきたのはアーシェと同じくらいの年齢の少年だ。羨ましくなるほど暖かそうな格好をしている。
「あ、レイフォード様! お前レイフォード様になにを――痛っ」
「女の子がいるじゃあないか。騒ぐなよ」
少年の背後から現れた背の高い男が少年の頭を小突いた。長い柔らかい金色の髪に鼻筋の通った美しい顔の男だ。人好きのする笑みを浮かべて、こちらに歩いてくる。小さな小屋だ。入口から奥まで距離はない。緊張に身を強張らせていると、胸の中にいたレイフォードがもぞもぞと動いた。
「起きたの?」
「こんなに騒がしければな」
「レイフォード、お久しぶり。恋人との逃避行だとは思わなかったよ。言ってくれれば手を貸したのに。けっこう良い身なりをしているようだけど、どこのお嬢様?」
「レイフォード様! まさか女の子と……その、二人きりで……」
赤くなりもごもごする少年の額をレオンが軽く指で押す。
「落ち着け、お前ら。彼女とは、ついさっき出会ったところだ。サイラス、イズナ、兄上の機嫌は直ったか?」
『それなりに』
兄弟のように異口同音で言う。神妙な顔までそっくりだ。
「レイフォードがキレてアスラ様に殴りかかった日よりかマシです」
「その次の日に女王様がレイフォード様とアスラ様を叱った日よりは不機嫌です」
「つまり、一発殴られれば事は済みそうだな」
「もー、今度は何しちゃったんですか」
「兄上が楽しみにしていたお菓子を盗み食いした」
「あーそれ怒るわー、あの人怒るわー」
「迎えが来たのなら仕方ない。陽が出たら帰るか」
アーシェの隣で寝転がるレオンにイズナと呼ばれていた少年は口を尖らせる。
「今すぐじゃないんですか?」
人は弱い。個体差はあるが寒すぎるとすぐに身体が弱ってしまうから、彼は早く帰りたいのだろう。
「おい、か弱い女の子がいるんだぞ。雪に攫われてしまうだろう」
「ちょっと、甘くみられると困るわ。なんたって私は神――」
一番重要なところで髪を引っ張られ、勢いでレオンの横に仰向けにされた。
「な、何するの!?」
「阿呆が。神など騙れば頭のおかしい奴か、冒涜として刑にされるぞ。まだ意識が混濁しているのか」
本物なのにと、言おうとしたが口で言ってもわからないだろう。火をつける程度だとがんばれば人間にもできるようだし、もっと大きなことをしなければならない。そうすれば、レイフォードも納得するだろう。彼が自分に謝るところを想像すると悪い気はしない。
「今なにを言おうとしていたんですか?」
「何でもない。お前が帰りたいなどと言うから、気を遣って自分はまだ元気だと言おうとしただけだ」
「そんなことを……!? けなげだ!!」
「申し訳ありません。少し焦っていたようです」
感激するサイラスと申し訳なさそうにするイズナは素直だ。騙してしまったが本当のことを言えないから仕方がないともいえる。急に黙り込んだアーシェを、脅し過すぎたと勘違いしたレイフォードはアーシェの頭を撫でる。
「大丈夫だ。俺がいるかぎり、そんな危険な目には合わせん」
優しい手つきに急に眠気が襲ってきた。神力を使いすぎたらしい。一刻も早く羽衣を探さねばならない。そんな焦りが霧散してしまうほどにレオンの手と言葉に安心してしまった。
意識が落ちる間際、ふと疑問が起こった。
なぜ、彼らと一緒に帰ることになったのだ。