じゃ、逃げれば? ~ジーベンとカタリナ④~
「畜生!! やっぱりテメェは疫病神だ!! 俺はただの影狼の討伐だって聞いたから、参加したんだぞ!! 王がいるなんて聞いてねぇ!!」
唾を盛大にまき散らしながらボクに食って掛かってきたのは、先のチンケな男だ。
こいつには口を開くごとに自身を落としめなくてはならない呪いでもかかっているのだろうか?
『上位種の存在を頭に入れておくのは討伐の基本』とサラリと言ってのけたガトーとは格が違いすぎる。
まともに相手するのも馬鹿らしいので「ふ~ん」と、鼻を鳴らしてから言ってやる。
「じゃ、逃げれば?」
「言われなくても逃げるに決まってんだろうが!!」
言うや男は、幌馬車の荷台から心配そうに顔だけを覗かせている商人たちを押しのけて、そこに乗り込んでいった。
おおかた、自分の荷物でも取りに行ったんだろう。
馬鹿か、こいつは。
王級の影狼を探り当てる、影狼が逃げる事をすら放棄する。
そんな怪物からどうやって逃げおおせると思っているんだ。
というか……生きてたんだね。残念。
「やっぱり、豚人≪オーク≫かな?」
「いや、違うだろう。食欲旺盛なオークがこんな辺鄙な荒野に住み着くとも思えんし、あいつらの足では逃げる影狼には追い付けん」
周囲では、数人の冒険者たちが輪となって異変の正体を言い当てようとしていた。
豚人・オークは豚のような顔を持つ、2足歩行の魔物だ。
体内に魔導勁路ではなく魔石を持つため、独自の文化圏は築いているものの、亜人ではなく魔物にカテゴライズされている。
その顔先に大きく突き出た鼻は影狼の潜んでいる影さえ探り当てられ、一般的に影狼の天敵というばオークという事になっている。
「なぁ、お前さん。もうちょっと詳しく見る事は出来んのか?」
「無茶言わないで。全身の魔力を凝縮させていたのを、あんな無茶なやり方で散らされたんだ。何本か魔導勁路だって損傷を起こしてる。今、治してやってるけどまだ少し時間がかかるよ」
「……グスッ、ごめんねカタリナ。あたし何にもしてあげられなくて」
ボクに代わってアリエスがそう答えてやると、それを耳にした槍使いが忌々しそうに足元の小石を蹴り飛ばした。
レベッカは、ボクの前でペタンと座り込み、鼻をすすっている。
淡々とした風を装ってはいるが、誰もかしこも情報が足りなすぎる事に不安を覚え、苛立っているんだ。
両の手の指を開いては閉じてを繰り返してみるが、まだかすかに痺れがある。
ギリギリいけるか……いや、ダメだ。
魔導勁路に損傷を残したまま感覚強化など行えば、表面だけは塞がっていた傷が再び開く可能性が高い。
そうなれば、むしろ時間のロスに繋がる。
(もしも……影狼の群れを襲っているのが、ボクらにとっても敵性の魔物だったら……)
想像するだけで身震いがした。
ボクらはここを動くことができない。
正体の知れぬ危険の中に飛び込んでいくような阿呆はいないし、馬車など連れていたら……いや、たとえ捨てたとしても荒れ地を駆ける影狼を捕らえる程の速度を持つ者から逃げられるはずがない。
そして、夜の闇の中で王級の影狼を見つけ出すヤツだ。当然、火を焚いているボクらに気づかぬはずがない。
進む事も出来ず、引く事も出来ない。
ならば、ボクらに許されるのは、襲撃に備えつつ待つ事だけだ。
ボクがしなくてはならない事は。一秒でも早く魔導勁路を修復させて、再び【眼】を発動させる事だけだ。
焦る気持ちを抑え込み、背中に当てられたアリエスの手の温かさにだけ、神経を集中させる。
そこへひょっこりと、先ほどの男が大きな荷物を抱え、馬車の荷台から鼠のような顔を覗かせて。
自然、非難の目が男に集まった。
「な……なんだよ」
「いやぁ。仲間の邪魔をした挙句、お一人だけさっさととんずらしようとする勇者様のお顔を目に焼き付けておこうかと思ってね」
底冷えするほど冷淡な声で答えられ、男は一瞬「くっ」とたじろぐ様を見せる。
それでも灰色がかった矜持だけは根深く健在らしく、震える声で叫び返した。
「テ、テメェら頭おかしいんじゃねぇのか!? いつまでもこんなところにいられるかよ!! それに、あの足手まといの事をどんだけ信用できるってんだ!? 失敗を誤魔化す為にホラ吹いてるに決まってんじゃねぇか!!」
「なるほど、ホラですかい。なら、勇者様がケツまくって逃げ出す必要はございませんな。ささ、こちらへどうぞ。暖かい火の傍があいておりますので」
槍使いの男がまるで高級料理店の給士のような仕草で答えると、たちまち2人のやり取りを見守っていた周囲から、侮蔑を含んだ嘲笑が沸き起こる。
沸騰する水の勢いで顔を真っ赤に染めた鼠男が剣の柄に手をかけるが、それでも最後は怒りよりも羞恥が勝ったんだろう。
背の荷物をつまらなそうに放り捨てると、頭を抱えて地面に座り込んだ。
「畜生……なんでこのズール様がこんな目に合わなきゃならねぇんだ。俺の親父は冒険者ギルドの幹部なんだぞ……」
そんな、実にどうでもいい。沈痛な声を、口から零しながら。
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「……アリエス」
「えぇ」
呼びかけるのにやや遅れて、背に押し当てられていた手が離れた。
身体の動きを確かめるように、ゆっくりと立ち上がる。
ずっと背中に感じていた心地よい熱が、今や身体の隅々にまで行き渡っているのが分かった。
目の端でこちらの様子をうかがっていた周囲の中から、かすかなざわめきが漏れる。
「お前さん、行けるのか?」
ガトーの問いかけに頷きで返答する。
呼吸はこれ以上ないまでに整っていた。
ここからは全速力だ。
大きく息を吸い込み、吐き出しながら魔力を眉間に集中させる。
第三の【眼】が開く。
真正面から強烈な風にあおられる勢いで、急速に視界が拡大されていく。
「そ、そんな……!!」
狼狽の呟きが意識外に口から漏れ出た。
何も見えなかった。
いや、何もなかったというべきだろう。
影狼たちの群れはきれいさっぱりと消え去ってしまっていたのだ。