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傘と嘘と花びらと  作者: 水瀬さら
雨の嘘
9/50

 初めてのテスト期間中、部活が休みになった一香が桜雪のクラスへやってきて言った。

「桜雪。たまには一緒に帰ろうよ」

「あ、うん。いいよ」

 うなずきながら、桜雪は少し戸惑った。

 一香と一緒に帰るのも、一香と話をするのも、すごく久しぶりのことだったから。

 並んで廊下を歩き始めると、たくさんの生徒が一香に声をかけてきた。どの子も桜雪の知らない子ばかりだ。

 その中には男子生徒もいて、立ち止まり、ふざけながら話している一香の姿を、桜雪は隣で黙って見ていた。


 校門を出て、自転車を押しながら並んで歩いた。

 小学生の頃、毎日一緒にいても飽きないほど、仲のよかった一香。

 それなのに久しぶりに交わす会話は、どことなくぎこちない。

 一香が楽しそうに話す部活の話も、新しくできた友達の話も、カッコイイ先輩の話も、桜雪にとっては知らない世界の話だった。

 かといって桜雪が何か話そうとしても、一香が喜んでくれそうな話題など思い浮かばない。

 小学生の頃は、こんな気持ちになったこと、一度もなかったのに。


「なんか、ごめんね? 一香。気を使わせちゃって」

 懐かしい小学校の前を通り過ぎてから、桜雪がつぶやいた。

「私なんかと一緒に帰ってもらっちゃって……ごめんね」

 一香がゆっくりと桜雪のことを見る。

「なに、それ」

 噛みしめるようにそう言ったあと、一香が怒った声を出す。

「なんなの、それ。私別に気を使ってなんかないよ? 桜雪と帰りたいから帰ろうって言ったのに……なのにどうしてそんなこと言うの? 桜雪は私と帰りたくないの?」

「そんなこと言ってない」

「じゃあ、なんなの? 桜雪、私といても全然楽しそうじゃないよね?」

 言葉に詰まった。「違う」と言えなかった。

 一香といても、「楽しい」と思えなかったから。


「桜雪……変わったね」

「え……」

 小学生の頃と同じ帰り道を歩きながら、一香がふっと笑う。

「桜雪、変わったよ」

 そう言って一香は桜雪を見てから、静かに顔をそむけた。

 いつも一香に手を振った別れ道。毎日「バイバイ」「また明日ね」と笑顔で別れた場所。

「じゃあ」

 一香がそれだけつぶやいて自転車に乗る。

「あっ、一香……」

 桜雪が声をかけたけど、一香は振り向かずに走り去った。

 ――桜雪、変わったよ。

 変わったのは、一香のほうだと思っていた。それなのに……中学生になって変わってしまったのは、桜雪のほうだったのだろうか。

 一香と別れ、家への道を自転車を押しながら歩いた。

 ひとりで帰るのはいつものことなのに……その日はなぜか、ものすごく寂しかった。


「桜雪ちゃん?」

 掛けられた声を聞き、桜雪はその声の主が誰だかわかった。

 桜雪の後ろから、スーパーの袋をぶら下げ駆け寄ってくるのは、梓の母親のリエだった。今日も彼女は黒いワンピースを着ている。

「久しぶりだね! なんだか桜雪ちゃん、大人っぽくなったみたい」

「そんなことないです」

 目の前で笑うリエのことを、まともに見ることができない。

 リエと最後に会ったのは、卒業式前の食事会の夜。

 あの日桜雪は抱きしめられた。お酒の匂いが鼻をついたけれど、そのぬくもりはとても温かかったのを覚えている。

 実はその後も、桜雪は家の近くで彼女の姿を見かけていた。

 それなのに、挨拶をすることもできず、見て見ぬ振りをしてしまったのは、また家族から何か言われるのが嫌だったからだ。

「懐かしいなぁ、そのセーラー服」

 リエが目を細め、桜雪の姿を眺めている。

「あ、えっと、霧島くんのお母さんも、うちの学校の出身だから?」

「そうだよ。私、生まれも育ちもこの町だからさ。そのセーラー服着て、学校通ってたんだよ。楽しかったなぁ、あの頃は」

 そして、桜雪の顔をのぞきこむようにしてから言う。

「桜雪ちゃんは楽しくないの?」

「え?」

「学校、楽しくない? なんか、つまんなそうな顔してるから」

 首を横に振った桜雪を見て、リエが笑う。

「桜雪ちゃん、好きな人とかいないの?」

「い、いません」

「えー、なんだ、いないの? つまんない」

 どうしたらいいのかわからなくなって、咄嗟に桜雪は、彼女の持っている荷物に手を伸ばす。

「わ、私、それ持ちます」

「え、いいの?」

 袋を自転車のかごに乗せ、それを押しながら歩く。そんな桜雪に、リエは嬉しそうについてくる。

 梓と一度だけ並んで歩いたこの道を、その母親と歩くなんて……なんだかとても不思議な気分だ。


「私はいたよ。好きな人」

 聞いてもいないのに、リエは勝手に話を続ける。桜雪は前を向いたまま、その言葉を聞く。

「もう死んじゃったけどね」

 冗談っぽくそう言った声に、桜雪の胸がちくりと痛む。

「それは……霧島くんの、お父さんのことですか?」

「うん。そう」

 ちらりと隣を歩くリエを見る。彼女は懐かしそうに目を細めて前を見ている。

 誰かの口からではなく、本人の口からその話を聞くのは初めてだ。

「私たち同級生でね。小さい頃から近所に住んでたから、保育園も小学校もずっと一緒。でも好きになったのは、中学の頃だけどね」

 ふたり並んで橋を渡る。緑の葉が茂る桜並木が見える。

「それからはね、しつこいくらいに私から好き好きって言って。卒業して高校は別々になっちゃったけど、その頃やっと、付き合ってもらえるようになったんだ」

 そう言ってふふっと笑うリエは、少女のようでなんだか可愛い。だから桜雪にはこの人が、父の言うような悪い人にはどうしても思えないのだ。


「あの、私……前に霧島くんから聞いたんですけど。お父さんとお母さん、駆け落ちしたって」

「うん、そう。実は十八の時に子どもができちゃってね。あ、それが梓なんだけど」

 胸がドキドキした。そんな桜雪の隣で、友達におしゃべりでもするような軽い調子で彼女は続ける。

「だけど私たちまだ若かったし、彼は大学進学が決まってたし、もちろん親たちに反対されてね。彼の親がお金持ってうちに来たの。これで子どもを堕ろして、息子と別れてくれって。それが彼のためだからって。彼は古い家のお坊ちゃんで、私はあんまり育ちがよくなかったから、私が彼をもてあそんだって決めつけられてたみたい」

 そこまで一気に言うと、リエはふっと遠くを見る。

「でもそれが彼のためなんだったら、私はあきらめようと思った。彼のことも、お腹の子どものことも……」

 桜雪は何も言えなかった。何も言えるはずがない。そんな桜雪の顔を見て、リエが言った。

「なのにね、高校を卒業した日の夜、彼が私を迎えに来たの。ふたりで、いやお腹の子どもと三人で、一緒にここから逃げよう。俺がこの町から連れ出してあげるって、私の前に手を差し伸べてくれて」

 桜雪が思わず立ち止まる。

 小学校の卒業式の日、梓に言われた言葉を思い出す。

 ――だったら俺が、連れ出してあげようか?

 あの言葉が自分の父親の言葉と同じだったってこと、梓は知っていたのだろうか。知っていてそれを、桜雪に言ったのだろうか。

 それともただの偶然で、本当に冗談だったのだろうか。


「すごいでしょ? ドラマみたいでしょ? こんなこと、本当にあるんだって、私感動して。彼の手をとって、ふたりで電車に乗ってこの町を出たの」

「それで……東京へ行ったんですか?」

「うん。だけどね……いまは後悔してる。すごく」

「どうして……」

 ――あの霧島って女の人のせいで、桜雪の親戚が亡くなったこと。

 父も和臣も、そう言っていた。だけど本人の口からは、何も聞いていない。

「どうして……後悔してるんですか?」

 桜雪は思い切ってリエの顔を見た。口元は微笑んでいたけれど、彼女の視線は桜雪を通り越し、もっと遠くに注がれている。

 やがて桜雪の耳に、リエの消えそうな声が聞こえた。

「私と東京なんて行かなければ……私と付き合ったりしなければ……私が好きにならなければ……あの人は死んだりしなかったから」

 そう言うとリエは、ハンドルを握る桜雪の手を包み込むように握りしめた。

「ごめんね。桜雪ちゃん、ごめんね。彼は綾瀬家の人間なの。桜雪ちゃんの遠い親戚にあたる人。だから桜雪ちゃんの家族に、私が恨まれるのは仕方ないの。だけど梓は……」


「リエさん」

 リエの声が遮られた。桜雪が顔を向けると、中学のジャージを着た梓がふたりのそばに自転車を止めた。

 そしてリエの腕をつかむと、桜雪から引き離して言った。

「なにやってんだよ。こんなところで」

「あ、梓。おかえり」

 梓が桜雪のことをちらりと見る。そしてリエから手を離し、呆然と立っている桜雪の前にその手を広げる。

「それ、俺んちのだろ? 俺が持つよ」

「あ、うん」

 桜雪は戸惑いながら、自転車のかごに入っていた袋を梓に渡す。

 少しだけ触れ合った手のぬくもりに、梓が家までプリントを届けてくれた日のことを思い出した。

「リエさん、余計なことしゃべってないで帰ろう」

「余計なことじゃないよ。桜雪ちゃんにはちゃんと知ってもらいたいから」

「いいから帰ろう」

 そう言って梓が自転車を押しながら歩き出す。そのあとをリエが黙ってついて行く。

「霧島くん……」

 つぶやくような桜雪の声に、梓は振り返ろうとしなかった。

 ――梓が死んだのは、あの女のせいなのに。

 周りが自分のことを悪く言っていると、リエはきっとわかっている。そしてたぶん梓も。

 でもさっき言いかけた言葉。

 ――だけど梓は……。

 梓は悪くないって、言いたかったんじゃないだろうか。

 桜雪はその場に立ち尽くしたまま、寄り添うようにして歩いて行く、ふたりの背中を見送った。

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