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初めてのテスト期間中、部活が休みになった一香が桜雪のクラスへやってきて言った。
「桜雪。たまには一緒に帰ろうよ」
「あ、うん。いいよ」
うなずきながら、桜雪は少し戸惑った。
一香と一緒に帰るのも、一香と話をするのも、すごく久しぶりのことだったから。
並んで廊下を歩き始めると、たくさんの生徒が一香に声をかけてきた。どの子も桜雪の知らない子ばかりだ。
その中には男子生徒もいて、立ち止まり、ふざけながら話している一香の姿を、桜雪は隣で黙って見ていた。
校門を出て、自転車を押しながら並んで歩いた。
小学生の頃、毎日一緒にいても飽きないほど、仲のよかった一香。
それなのに久しぶりに交わす会話は、どことなくぎこちない。
一香が楽しそうに話す部活の話も、新しくできた友達の話も、カッコイイ先輩の話も、桜雪にとっては知らない世界の話だった。
かといって桜雪が何か話そうとしても、一香が喜んでくれそうな話題など思い浮かばない。
小学生の頃は、こんな気持ちになったこと、一度もなかったのに。
「なんか、ごめんね? 一香。気を使わせちゃって」
懐かしい小学校の前を通り過ぎてから、桜雪がつぶやいた。
「私なんかと一緒に帰ってもらっちゃって……ごめんね」
一香がゆっくりと桜雪のことを見る。
「なに、それ」
噛みしめるようにそう言ったあと、一香が怒った声を出す。
「なんなの、それ。私別に気を使ってなんかないよ? 桜雪と帰りたいから帰ろうって言ったのに……なのにどうしてそんなこと言うの? 桜雪は私と帰りたくないの?」
「そんなこと言ってない」
「じゃあ、なんなの? 桜雪、私といても全然楽しそうじゃないよね?」
言葉に詰まった。「違う」と言えなかった。
一香といても、「楽しい」と思えなかったから。
「桜雪……変わったね」
「え……」
小学生の頃と同じ帰り道を歩きながら、一香がふっと笑う。
「桜雪、変わったよ」
そう言って一香は桜雪を見てから、静かに顔をそむけた。
いつも一香に手を振った別れ道。毎日「バイバイ」「また明日ね」と笑顔で別れた場所。
「じゃあ」
一香がそれだけつぶやいて自転車に乗る。
「あっ、一香……」
桜雪が声をかけたけど、一香は振り向かずに走り去った。
――桜雪、変わったよ。
変わったのは、一香のほうだと思っていた。それなのに……中学生になって変わってしまったのは、桜雪のほうだったのだろうか。
一香と別れ、家への道を自転車を押しながら歩いた。
ひとりで帰るのはいつものことなのに……その日はなぜか、ものすごく寂しかった。
「桜雪ちゃん?」
掛けられた声を聞き、桜雪はその声の主が誰だかわかった。
桜雪の後ろから、スーパーの袋をぶら下げ駆け寄ってくるのは、梓の母親のリエだった。今日も彼女は黒いワンピースを着ている。
「久しぶりだね! なんだか桜雪ちゃん、大人っぽくなったみたい」
「そんなことないです」
目の前で笑うリエのことを、まともに見ることができない。
リエと最後に会ったのは、卒業式前の食事会の夜。
あの日桜雪は抱きしめられた。お酒の匂いが鼻をついたけれど、そのぬくもりはとても温かかったのを覚えている。
実はその後も、桜雪は家の近くで彼女の姿を見かけていた。
それなのに、挨拶をすることもできず、見て見ぬ振りをしてしまったのは、また家族から何か言われるのが嫌だったからだ。
「懐かしいなぁ、そのセーラー服」
リエが目を細め、桜雪の姿を眺めている。
「あ、えっと、霧島くんのお母さんも、うちの学校の出身だから?」
「そうだよ。私、生まれも育ちもこの町だからさ。そのセーラー服着て、学校通ってたんだよ。楽しかったなぁ、あの頃は」
そして、桜雪の顔をのぞきこむようにしてから言う。
「桜雪ちゃんは楽しくないの?」
「え?」
「学校、楽しくない? なんか、つまんなそうな顔してるから」
首を横に振った桜雪を見て、リエが笑う。
「桜雪ちゃん、好きな人とかいないの?」
「い、いません」
「えー、なんだ、いないの? つまんない」
どうしたらいいのかわからなくなって、咄嗟に桜雪は、彼女の持っている荷物に手を伸ばす。
「わ、私、それ持ちます」
「え、いいの?」
袋を自転車のかごに乗せ、それを押しながら歩く。そんな桜雪に、リエは嬉しそうについてくる。
梓と一度だけ並んで歩いたこの道を、その母親と歩くなんて……なんだかとても不思議な気分だ。
「私はいたよ。好きな人」
聞いてもいないのに、リエは勝手に話を続ける。桜雪は前を向いたまま、その言葉を聞く。
「もう死んじゃったけどね」
冗談っぽくそう言った声に、桜雪の胸がちくりと痛む。
「それは……霧島くんの、お父さんのことですか?」
「うん。そう」
ちらりと隣を歩くリエを見る。彼女は懐かしそうに目を細めて前を見ている。
誰かの口からではなく、本人の口からその話を聞くのは初めてだ。
「私たち同級生でね。小さい頃から近所に住んでたから、保育園も小学校もずっと一緒。でも好きになったのは、中学の頃だけどね」
ふたり並んで橋を渡る。緑の葉が茂る桜並木が見える。
「それからはね、しつこいくらいに私から好き好きって言って。卒業して高校は別々になっちゃったけど、その頃やっと、付き合ってもらえるようになったんだ」
そう言ってふふっと笑うリエは、少女のようでなんだか可愛い。だから桜雪にはこの人が、父の言うような悪い人にはどうしても思えないのだ。
「あの、私……前に霧島くんから聞いたんですけど。お父さんとお母さん、駆け落ちしたって」
「うん、そう。実は十八の時に子どもができちゃってね。あ、それが梓なんだけど」
胸がドキドキした。そんな桜雪の隣で、友達におしゃべりでもするような軽い調子で彼女は続ける。
「だけど私たちまだ若かったし、彼は大学進学が決まってたし、もちろん親たちに反対されてね。彼の親がお金持ってうちに来たの。これで子どもを堕ろして、息子と別れてくれって。それが彼のためだからって。彼は古い家のお坊ちゃんで、私はあんまり育ちがよくなかったから、私が彼をもてあそんだって決めつけられてたみたい」
そこまで一気に言うと、リエはふっと遠くを見る。
「でもそれが彼のためなんだったら、私はあきらめようと思った。彼のことも、お腹の子どものことも……」
桜雪は何も言えなかった。何も言えるはずがない。そんな桜雪の顔を見て、リエが言った。
「なのにね、高校を卒業した日の夜、彼が私を迎えに来たの。ふたりで、いやお腹の子どもと三人で、一緒にここから逃げよう。俺がこの町から連れ出してあげるって、私の前に手を差し伸べてくれて」
桜雪が思わず立ち止まる。
小学校の卒業式の日、梓に言われた言葉を思い出す。
――だったら俺が、連れ出してあげようか?
あの言葉が自分の父親の言葉と同じだったってこと、梓は知っていたのだろうか。知っていてそれを、桜雪に言ったのだろうか。
それともただの偶然で、本当に冗談だったのだろうか。
「すごいでしょ? ドラマみたいでしょ? こんなこと、本当にあるんだって、私感動して。彼の手をとって、ふたりで電車に乗ってこの町を出たの」
「それで……東京へ行ったんですか?」
「うん。だけどね……いまは後悔してる。すごく」
「どうして……」
――あの霧島って女の人のせいで、桜雪の親戚が亡くなったこと。
父も和臣も、そう言っていた。だけど本人の口からは、何も聞いていない。
「どうして……後悔してるんですか?」
桜雪は思い切ってリエの顔を見た。口元は微笑んでいたけれど、彼女の視線は桜雪を通り越し、もっと遠くに注がれている。
やがて桜雪の耳に、リエの消えそうな声が聞こえた。
「私と東京なんて行かなければ……私と付き合ったりしなければ……私が好きにならなければ……あの人は死んだりしなかったから」
そう言うとリエは、ハンドルを握る桜雪の手を包み込むように握りしめた。
「ごめんね。桜雪ちゃん、ごめんね。彼は綾瀬家の人間なの。桜雪ちゃんの遠い親戚にあたる人。だから桜雪ちゃんの家族に、私が恨まれるのは仕方ないの。だけど梓は……」
「リエさん」
リエの声が遮られた。桜雪が顔を向けると、中学のジャージを着た梓がふたりのそばに自転車を止めた。
そしてリエの腕をつかむと、桜雪から引き離して言った。
「なにやってんだよ。こんなところで」
「あ、梓。おかえり」
梓が桜雪のことをちらりと見る。そしてリエから手を離し、呆然と立っている桜雪の前にその手を広げる。
「それ、俺んちのだろ? 俺が持つよ」
「あ、うん」
桜雪は戸惑いながら、自転車のかごに入っていた袋を梓に渡す。
少しだけ触れ合った手のぬくもりに、梓が家までプリントを届けてくれた日のことを思い出した。
「リエさん、余計なことしゃべってないで帰ろう」
「余計なことじゃないよ。桜雪ちゃんにはちゃんと知ってもらいたいから」
「いいから帰ろう」
そう言って梓が自転車を押しながら歩き出す。そのあとをリエが黙ってついて行く。
「霧島くん……」
つぶやくような桜雪の声に、梓は振り返ろうとしなかった。
――梓が死んだのは、あの女のせいなのに。
周りが自分のことを悪く言っていると、リエはきっとわかっている。そしてたぶん梓も。
でもさっき言いかけた言葉。
――だけど梓は……。
梓は悪くないって、言いたかったんじゃないだろうか。
桜雪はその場に立ち尽くしたまま、寄り添うようにして歩いて行く、ふたりの背中を見送った。