7
数日後、桜雪たちは卒業式を迎えた。
この町の小学校の卒業式は、中学の制服を着て参加するのが風習になっている。
だから今日は桜雪も一香も、真新しいセーラー服を着ていた。
「ええっ、なにそれ! 親が決めた婚約者って……今どきそんなのあるのー!」
「ちょっと、一香……声大きい」
式が始まるまでの間、今日が最後の教室で、桜雪は数日前に父から聞いた話を一香にした。
一香は驚いた声を上げたあと、いたずらっぽい顔つきでささやいてくる。
「でも桜雪んちならありえるかもね。由緒あるおうちのお嬢様だもん」
「そんなんじゃないよ。私本当に悩んでるんだから」
「で、相手の人ってどんな人なの? カッコイイ?」
一香はこの状況を楽しんでいる。一番の友達だから話したのに。
桜雪がため息を吐いた時、一香が立ち上がって手を振った。
「梓ー! ちょっと聞いてよ! 桜雪ってね、婚約者がいるんだって!」
「い、一香……やめて……」
思わず手を伸ばし、一香の制服の裾を引っ張った。おそるおそる顔を上げると、こちらを見ている梓の姿が見えた。
梓は他の男子と同じように詰襟の制服を着ていた。大きめに作ったのか、それとも誰かのお下がりなのか、小柄な彼は服を着ているというより着られている感じだ。
一香の制服をつかんだままの桜雪の前に、そんな梓が近づいてきて言った。
「それって、この前の人?」
「え……」
桜雪の前に立った梓が、ちょっと笑って言う。
「この前、綾瀬と手をつないで帰った人?」
「ええー! 梓、桜雪の婚約者、見たことあるのー?」
一香が口を挟んでくる。
「そうなんだろ? 綾瀬」
答えたくなかった。梓にだけは知られたくなかった。それなのに梓は、桜雪が答えるまで目をそらしてくれない。
仕方なく桜雪はつぶやく。
「……そうだよ」
「どんな人? どんな人だった? 梓」
一香の声に梓が答える。
「背が高くて、大人っぽい人だったよ」
「うそぉ、いいなぁ。ねぇ、桜雪、その人何歳……」
「もうやめて!」
思わず叫んで立ち上がっていた。一香と梓がそんな桜雪のことを見ている。
どうしたらいいかわからなくなって、桜雪はそのまま教室を抜け出した。
聞き慣れたチャイムの音が聞こえる。
そろそろ卒業式が始まってしまう。
けれど桜雪は誰もいない階段に座り、真新しいスカートに顔を押し付けていた。
一香も梓もひどい。他人事だと思って面白がっている。
桜雪にとって、一生を決められてしまうような大変なことなのに。
静かに顔を上げると、廊下の窓の向こうに白いものが見えた。立ち上がって階段を降り、窓の外を見る。
六年間過ごした校庭に、雪が舞っていた。まだ咲いていない桜の木にも、白い雪が降りかかる。
――桜雪という名前はね、桜の花びらのように舞い落ちる、雪を見ながらつけた名前なんだよ。
幼い頃、河川敷を歩きながら、祖父がそう話してくれた。
大事な孫娘に美しい名前をつけてあげたいと、一生懸命考えながらここを歩いていたら、桜の木の隙間から雪が舞い落ちてきたのだと。
――あの日の雪は、とても綺麗だった。
祖父が懐かしそうに目を細めた顔を、桜雪は今でも覚えている。
「そんなに嫌なの?」
急に声をかけられ、桜雪は驚いて振り返る。いつの間に来たのだろう。そこには制服姿の梓がいた。
「そんなに嫌いなの? あの人のこと」
桜雪はじっと梓の顔を見つめたあと、静かにつぶやく。
「……嫌いじゃない」
和臣のことは嫌いじゃない。嫌いだったら、あんなことをしない。唇を重ね合う行為など……。
「嫌いじゃないけど……勝手に決められるのが嫌なの」
「じゃあ逃げちゃえばいい」
梓がそう言って小さく笑う。
逃げる? 今までそんなこと、考えてもみなかった。
あの家から、あの家族から、この町から、逃げ出すなんて。
「そんなこと……できないよ」
「だったら俺が、連れ出してあげようか?」
桜雪の前に梓が手を差し出した。顔を上げ、桜雪は梓のことを見る。
ふたりの視線はほぼ同じ高さだ。そしてその向こうに、花びらのように舞う雪が見える。
おそるおそる手を伸ばした。震える指先でそっと手のひらに触れると、梓が桜雪の手を握りしめて笑った。
「……なんてね」
梓の声が静かな廊下に響く。
「ウソ、ウソ、冗談。卒業式始まるってさ。早く行こう」
そう言って歩き出そうとした梓の手を、桜雪は思いきり振り払った。
「ふざけないで!」
「え?」
驚いた顔で振り向いた梓に言う。
「そうやって私のことからかって……そんなにおもしろい?」
「あ、ごめん。俺、別にからかったわけじゃ……」
梓が戸惑っているのがわかった。だけどどうしても、気持ちを抑えることができなくなった。
一瞬でもその言葉を信じて、その手にすがりつこうとした自分が恥ずかしかったのだ。
「もう私のことはほっといて」
「綾瀬……」
「私、霧島くんとは付き合うなって言われてるの。一緒にいるだけで怒られるの。だからもう……私に近寄らないで」
制服のスカートをぎゅっと握りしめる。胸がすごく苦しくなる。
どうしてこんな……言いたくもないことを言ってしまうんだろう。
「……わかったよ」
うつむいた桜雪の耳に、少し掠れる声が聞こえる。
「綾瀬がそう言うなら……そうする」
泣きそうになって唇をかみしめる。
「もう綾瀬には……近寄らない」
バタバタと、階段を駆け上ってくる足音が聞こえた。
「桜雪! 梓! こんなところにいたの? 卒業式始まっちゃうよ!」
向かい合うふたりの間に、割り込むように走ってきた一香が、桜雪の体に抱きついた。
「桜雪、ごめん! ふざけすぎた。桜雪が悩んでるなら、あとでちゃんと話聞くから。だからもう行こう? ね?」
「……うん」
桜雪がうなずくと一香が体を離し、嬉しそうに笑った。そして後ろを振り向き、梓に言う。
「梓も行こう。先生に怒られるよ」
「……わかってる」
梓が背中を向け、廊下をひとりで歩いて行く。
「あ……」
顔を上げ、その後ろ姿を目で追う。今ならまだ間に合う。さっきの言葉を取り消せる。
ほっといて欲しいなんて思っていない。本当は、梓が自分を探しに来てくれたことが、すごく嬉しかった。
けれど、一歩を踏み出そうとした桜雪の腕を、一香がつかんだ。
「ねぇ、桜雪? 梓とふたりで何話してたの?」
そう言って、一香が桜雪の顔をのぞきこむ。
「べつに、なにも……」
「そう?」
桜雪に笑いかけ、一香は言う。
「桜雪って、もしかしてさぁ……梓のこと、好きだったりする?」
一瞬、その言葉の意味がわからなかった。だけど次第に意味がわかってくると、桜雪は首を横に振った。
「だよねぇ? そんなことないよねぇ?」
一香がそう言って笑い、桜雪の手を握りしめる。
「卒業しても、友達だよ? 私たち」
「うん……もちろん」
桜雪の返事に、一香が満足そうに微笑んだ。
卒業式の間中、桜雪は斜め前に立つ梓の背中をずっと見つめていた。
そしてどうしてあんなことを言ってしまったのかと、何度も何度も考える。
自分の前に差し伸べられた手。本当にこの狭い町から、連れ出してもらえるのかと思ってしまった。
梓なら、できるんじゃないかと思ってしまった。
そんなことは無理なのに。私たちはまだ、何もできない子どもなのだから。
別れの歌を聴きながら、何の涙なのかわからない涙が、桜雪の頬を伝わり落ちた。