6
「ひどい……」
店を出て、夜の繁華街をめちゃくちゃに歩き回った。
両親に反抗したのは初めてだ。だけど今回だけは許せない。
和臣と、結婚しろだなんて――。
和臣はそれを知っていたのだろうか。知っていて、あんなことをしたのだろうか。
「ひどいよ……和くんまで」
悔しくて悲しくて泣けてきた。服の袖で涙をこすったら、すれ違いざまに男の人にぶつかった。
お酒臭いその人は、焦点の合わない目つきで、桜雪のことをにやにやと見ている。
怖くなって逃げ出した。周りにはお酒を飲む店や、派手なネオンの店が並んでいて、どこに行ったらいいのかわからない。
「お嬢ちゃん、どうしたの? ひとり?」
店先に立ち煙草を吸っている、外国人の女の人が声をかけてきた。いい人なのか悪い人なのかもわからない。
桜雪は立ち止まらずに歩き続ける。
心細くなって、また涙が出てきた。戻りたくても、もうさっきのお店がわからない。
こんな時間、こんな場所に、桜雪はひとりで来たことなどなかったから。
「綾瀬?」
狭い路地から少し広い道路に出た時、桜雪の耳に声が聞こえた。
「やっぱり綾瀬だ。何してんの?」
振り返ると、ガードレールに寄りかかるようにして、梓が立っていた。
桜雪はすぐに駆け寄って、梓の腕をつかんでぎゅっと握る。握ったその手がものすごく震えていることに、その時やっと気がついた。
「綾瀬? どうした?」
梓が不思議そうに桜雪を見ている。桜雪は片手で目元をこすると、そっと梓の腕から手を離した。
「ごめん。何でもないの。ちょっと家族と喧嘩して……ご飯食べてる途中で飛び出してきちゃった」
桜雪が言うと、梓が笑った。
「親と喧嘩なんてするんだ。綾瀬でも」
「こんなのは……はじめて、かも」
「すげぇ」
桜雪の前で、梓がおかしそうに笑う。
「俺なんかしょっちゅうしてるよ。リエさんと」
「うそ。だって霧島くん、お母さんと仲いいじゃない」
「仲なんてよくないよ」
そう言った梓が桜雪から離れて、またガードレールにもたれた。ぼんやりと立つ桜雪のそばを、何人もの大人が通り過ぎる。
「霧島くんは……こんなところで何してるの?」
そっと梓の隣に並び、桜雪もガードレールにもたれる。こんな所で梓と出会えたのは、奇跡ではないかとさえ思えてきた。
「俺は酔っぱらいのリエさんを迎えに来たの。あの人お酒飲むと、いつも俺のこと呼ぶからさぁ」
「いつも……迎えに来るの?」
「そう。いつも」
「やっぱり仲いいじゃない」
ははっと軽く笑う梓の隣で桜雪は思い出す。父の言った言葉を。
「あの……霧島くんは……」
「うん?」
ゆっくりと梓の視線が桜雪に移る。心臓がどきどきして、だけど聞くなら今しかないと思った。
「霧島くんのお父さんのこと……どのくらい知ってるの?」
「ああ……」
梓が視線を上に上げた。そして一回息を吐いてから桜雪に言う。
「写真で顔は見たことあるよ。イケメンだった。リエさんが好きになったのわかる気がする。あの人、イケメンアイドルとかテレビで観ると、キャーキャー騒いでるから」
ふざけた感じでそう言ってから、ゆっくりと思い出すように梓は続ける。
「それから、父さんの名前……『梓』って言うんだって」
「え……」
心臓がどきんとした。
――梓が死んだのは、あの女のせいなのに。
父はあの時、そう言った。父の言う「梓」というのは、梓の父親のことなのだろうか。
「リエさんは父さんのこと好きすぎて、死んじゃったあとに生まれた俺に、おんなじ名前つけたんだ。ちょっとそれはどうかと思うけど」
梓が小さく笑って桜雪を見る。桜雪は何も言うことができない。そんな桜雪の隣で梓が言う。
「だけどそれほど父さんのことが好きで。今でもすっごい好きで。でも死んじゃってもうこの世にはいなくて。毎日葬式みたいな黒い服着て、好きでもない酒飲んでる。バカみたいだろ? でもそうやってしか生きられないんだ、あの人は」
ふたりの前を、大声で笑い合う酒に酔った大人たちが通り過ぎる。梓は桜雪に少しだけ笑いかけ、そして視線をそらしてつぶやく。
「父さんが死んだのは自分のせいだって思い込んでさ。そうやって自分を追い詰めないと、生きていけない人なんだよ」
梓の言葉は、現実の言葉のようには思えなかった。
毎日教室で一香としゃべって、女の子同士で笑ってふざけて。そんな会話とは、まったく違う世界の言葉。
梓の生きている世界と、桜雪の生きている世界は、全く違う。
「君たち。ここで何しているんだ?」
その声に顔を上げた。桜雪たちの目の前に警察官がふたり立っている。
「君たち何歳? 子どもだけで来たの? 今何時だと思っているの?」
怖くなって足がすくんだ。今になって、あの店を飛び出して来たことを後悔した。
「名前、教えてくれるかな?」
「あ、あの……」
おろおろする桜雪の隣で、梓は平然と立っている。いつも来ていると言ってたから、もしかしてこういうことは慣れているのかもしれない。
どうしたらいいのかわからずまた泣き出しそうになった時、駆け寄ってきた女の人が、梓と桜雪の体を勢いよく抱きしめた。
「ごめんねー! ママ、遅くなってぇ!」
抱きついてきたのはリエだった。香水の甘い香りと、お酒の匂いが混じり合って、桜雪の鼻先を刺激する。
「あなたのお子さん?」
「そうよー。ふたりとも私の子。かわいいでしょう?」
警察官が眉をひそめ、こほんとひとつ咳払いをする。
「こんな時間にお子さんを連れ回してはいけませんよ。すぐに帰ってください」
「わかってますってー。梓、待たせちゃってごめんねぇ、桜雪ちゃんも」
リエにキスをされそうになって、梓がさりげなく体をそらす。
「とにかくすぐに帰って」
「はいはい。お巡りさん、ご苦労様です」
そう言ったリエが、梓と桜雪の手を握り歩き出す。
「おせーよ。補導されちゃうじゃん」
「ごめん、ごめん」
「それに酒臭い」
「ごめんって。梓、好き」
「飲み過ぎ」
リエがけらけらと笑ってから桜雪を見る。どのくらいお酒を飲んだのだろう。顔を赤く染めて、どこかとろんとした目つきをしている。
からだを壊してこの町に戻って来たと、最初に会った日梓から聞いたけど……大丈夫なのだろうか。
「桜雪ちゃんは、どうしてここにいるのかな? まさか梓とデートじゃないよね?」
「ち、違います! 私は……」
そんな桜雪の耳に、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「桜雪! こんなところにいたのか!」
歩く人をかき分けるようにして、駆け寄ってきたのは和臣だった。
「和くん……」
「ダメじゃないか、ひとりで飛び出したりしたら。みんな心配してるぞ?」
そう言ってため息をついてから、和臣は梓とリエの顔を不審そうに見た。桜雪はあわてて、リエの手を振りほどく。
「あの、偶然そこでクラスの子に会って……霧島くんと霧島くんのお母さんだよ」
「桜雪がお世話になりました」
和臣がそう言って、リエの前で丁寧に頭を下げる。
「あんた、桜雪ちゃんのお兄さん?」
リエの声に和臣が答える。
「いえ、知り合いです。一緒に食事をしていたんですが、桜雪が突然店を出て行ってしまって。ご迷惑をおかけしました」
和臣がそう言って、桜雪の手をつかんで引き寄せた。
「帰るぞ。桜雪」
さっきまでリエとつないでいた手が、和臣の手とつながる。
どうしてだろう。どうしてさっき、咄嗟に彼女の手を離してしまったのだろう。
和臣が桜雪を引っ張るようにして歩き出した。振り返ると、リエが手を振って言った。
「おやすみ! 桜雪ちゃん」
その隣で梓が桜雪のことをじっと見ている。桜雪はそんな梓から視線をそらし、前を歩く和臣の背中を見つめた。
「あの親子とは、付き合ったら駄目だと言われてるんだろう? お父さんから」
「え?」
バス通りを歩きながら、和臣が言った。
「知らないのか? あの霧島って女の人のせいで、桜雪の親戚が亡くなったこと」
心臓がどきんと音を立てた。父の声が頭に聞こえる。
――梓が死んだのは、あの女のせいなのに。
リエのせいで、桜雪の親戚だった梓の父親が亡くなったというのだろうか。
それで父は、リエのことを憎んでいるのだろうか。
その場に立ち止まり、和臣の手を振り払うように離した。うつむいている桜雪を見て、和臣は小さくため息をつく。
「桜雪。そんなに怒るなよ」
そして少し口元をゆるませ、桜雪の顔をのぞきこむようにして言う。
「結婚の話は、驚かせてしまったと思う。僕だって初めて聞いた時は驚いた」
「和くんは……知ってたの?」
顔を上げた桜雪の前で和臣がうなずく。
「でも嬉しかったよ。相手が桜雪だと知って」
もう一度伸びた和臣の手が、そっと桜雪の冷えた手を包み込む。
「僕はずっと前から、桜雪のことが好きだったから」
桜雪は黙って、和臣に握られた手を見つめた。大きくて、大人みたいな手。いや、和臣は、もう十分大人だ。
「和くん……私みたいな子どものどこがいいの?」
「ははっ、そうだな。ロリコンって言われちゃうかもしれないな」
ふざけたようにそう言ってから、和臣はもっと強くその手を握る。
「桜雪が大人になるまで待ってるよ。それまで僕の気持ちは変わることないから。覚えておいて」
和臣は、どうしてそんなことを言い切れるのだろう。
桜雪には無理だった。明日の気持ちもわからないのに、大人になった時、自分がどんな気持ちでいられるかなんてわからない。
その日の夜、家へ帰ってから父に叱られた。あんな自分勝手な言動をして、安達家の前でみっともないと。
結局父が大事にしているのは、家同士の付き合いだとか、世間体なのだ。
けれどどんなに桜雪が反抗しても、大人たちで決めた約束を父が覆すことはないだろう。
自分の部屋へ入り、ハンガーにかけられた真新しい制服を眺める。
このまま自分は、この家とこの家族に縛られながら生きていくのかと思うと、悲しくて悔しくてまた涙がこみあげてきた。