4
「遅くなってごめん」
梓の声が聞こえ、桜雪はそっと目元をぬぐう。
「何で泣いてるの?」
小さく笑った梓の前で、桜雪は静かに首を振る。
「あと一秒長くあいつが抱きしめてたら、殴りかかってやろうかと思った」
「うそ。霧島くんはそんなことしないでしょ」
「するよ、たぶん。したことはないけど」
目と目が合って、ため息を吐くように笑い合う。梓の伸ばした手が、桜雪の手をそっと握る。
「連れてって。桜雪の好きな場所に」
「うん」
春の日差しの中をゆっくりと歩き出す。
やっと、やっと、ここまでこれた。
雪の降る寒い日。ランドセルを背負って、ここからふたり、橋の下の河川敷を眺めた。
あれから十年。桜雪はまだ梓の隣にいる。
変わったもの、変わらないもの。辛かったこと、嬉しかったこと。
たくさんの想いが込み上げてきて、また涙があふれそうになる。
橋を渡り、梓と手をつないで、桜並木の下を歩いた。
話したいことはたくさんあったはずなのに、胸がいっぱいで話せない。
「今日、桜雪のお父さんと話すから」
梓の声にはっと顔を上げる。そうだった。梓がこの町へ来たもうひとつの理由。それは桜雪の父親にふたりが付き合うことを認めてもらうことだった。
「……ごめんね」
ついつぶやいた桜雪の隣で梓が笑う。
「なんで謝るの?」
「だって……」
あの父親のことだ。簡単に認めてもらえるとは思わない。梓に対してひどいことを言うかもしれない。
「大丈夫だよ。俺は。認めてもらえるまで何度でも話す」
桜雪はゆっくりと顔を上げ、梓のことを見る。
「俺の父さんは、母さんを連れて逃げるようにこの町を出て行った。そうしてくれたから、俺はこうやって生まれることができたんだけど。でも俺は違う。ちゃんと桜雪の家族に俺たちのこと認めてもらって付き合いたい」
「うん……」
静かにうなずいた桜雪の前で、梓が笑う。そして握った手に力をこめてつぶやく。
「そうしたら桜雪。俺と一緒に暮らそう?」
「え……」
「俺が連れ出してあげる。もっと広いところへ」
幼い頃、差し出せなかった手。つかもうとしてもつかめなかった手。
その手と手を、いまぎゅっと強く握り合う。
「うん。嬉しい……」
春の風が吹き、桜の花びらが舞った。
桜雪は顔を上げ、泣きながら笑う。梓の指先が、そんな桜雪の涙をぬぐう。
「キス、してもいい?」
すうっと動いた指先が、桜雪の頬をなでる。
「桜雪にキスがしたい」
静かに目を閉じ、梓の前でつぶやく。
「いいよ」
その場所を確かめるように、梓の指が桜雪の唇をなぞる。それが離れたかと思うと、今度はあたたかい唇が桜雪の唇に触れた。
雪のように降る花びらの中で、キスをした。
甘くてちょっぴり涙の味がするキス。
春の風が桜雪の髪を揺らし、そっと唇を離した梓が、その背中を抱き寄せる。
「自分からこんなことしたいと思ったの、はじめてだ」
梓の胸の中で、その声を聞く。
「俺……桜雪のこと、好きだなぁ……」
自分自身に言い聞かすように梓が言うから、桜雪はその体を離し、小さく微笑んでつぶやく。
「私も……霧島くんのこと、好き」
桜雪の前で、梓が笑顔を見せて、そして言う。
「ねぇ、俺の名前呼んで?」
「え?」
「俺の……名前を呼んで?」
父親の名前ではなく、自分の名前を。
「梓」
桜雪がつぶやくように言う。
「梓。好き」
少し照れくさくて、それをごまかすように笑った。
そんな桜雪の前で、梓も嬉しそうに微笑んだ。
指と指を絡め合い、寄り添うようにしてまた歩き始める。
乗り越えるものはまだたくさんあるけれど、きっと今のふたりなら大丈夫。
強い雨が降り続いても、真っ白な雪に閉ざされてしまっても、いつか蕾は花開き、春は必ずやってくるから――。
顔を上げた桜雪の上から、また花びらが一枚、音もなく舞い落ちてきた。




