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授業中の梓の態度は、決して褒められるものではなかった。
頬杖をつき、窓の外をぼうっと眺めているか、堂々と机に顔を伏せて眠っている。いつ先生に注意されるか、隣の桜雪のほうがひやひやしていた。
それなのに勉強はできるらしくて、テストではいつも良い点をとっていた。
「今回のテストは、百点の人がふたりいます」
テストを配り終えた先生が、黒板の前に立って言う。
「綾瀬さんと、それから霧島くんです」
教室の中がざわめき出す。後ろの席の男子が梓のことをひやかしている。
「あーあ、私は九十五点。頭いいんだ、梓って」
桜雪を挟むようにして、一香が梓に声をかける。
「前の学校で習ったところだからだよ」
「そんなこと言ってー。実は家でめっちゃ勉強してるんじゃないのー?」
「してねーし」
おかしそうに笑い合う梓と一香の声を聞く。
転校してきて一か月。梓はすっかりこのクラスに溶け込んでいた。
休み時間になると、いつも誰かが梓に話しかけてきて、ふざけ合ったり笑い合ったりしている。
授業が終われば、数人の男子と一緒に教室を出て行く。
桜雪はそんな梓の姿を、遠くから眺めているだけだ。
――仲良くしてやってね。
梓の母親から言われた言葉を思い出す。
だけど桜雪が仲良くしなくても、梓はいつもたくさんの友達に囲まれている。
雪の降る帰り道を並んで歩いたのは、たったの一回だけ。隣の席だから時々言葉を交わすことはあるけれど、梓とふたりだけになることなんて、もうきっとないだろうと思う。
それにあの日、父から言われた言葉も、桜雪の心の奥にずっと引っかかっていた。
父の言いなりにはなりたくないけど、だけどどこかで、これ以上梓に近づくことをためらっていたのだ。
やがて席替えの日が来て、梓とは遠く離れた席になり、ますます話す機会がなくなった。
そして気がつけば、小学校卒業の日がすぐそこまで近づいていた。
*
「卒業って言ったって、何も変わらないよねぇ。全員同じ中学に入学するんだし」
帰りの支度をしている桜雪の席に、一香が来て言う。ランドセルを背負って一香と一緒に帰るのも、あとわずかだ。
「でも他の学校の子も来るし。人数三倍になるんでしょ? 一香と同じクラスになれるかなぁ」
いつだって積極的で、誰とでも仲良くなれる一香と違って、桜雪は新しい環境に馴染めるかとても心配だった。
「大丈夫! クラス違っても、私たちずっと親友だよ?」
一香が笑って、桜雪のことを大げさにぎゅうっと抱きしめる。
「中学生になっても、高校生になっても、大人になっても……私は桜雪のこと大好きだから!」
「うん。私も」
一香のぬくもりを感じながら、だけど少し不安になる。
これから先もずっと親友でいられるなんて、本当にできるのだろうか。
「あ、そうだ。桜雪今夜うちに来ない? 明日は休みだし、卒業までにうちに泊まりに来るって言ってたじゃない」
桜雪から体を離した一香が、思いついたように言う。
「ごめん。今日はダメなの。お父さんや知り合いの人たちと食事に行くことになってて」
小学生の桜雪たちより早く、高校を卒業した和臣は、東京の有名大学に進学が決まっていた。
もうすぐこの町を出て一人暮らしをすることになっていて、その前に一度、みんなで食事をしようという話になったのだ。
「なんだ、そうなの。残念」
「来週はどうかな?」
「いいよ。うちは大丈夫」
「じゃあお母さんに聞いてみるね」
ランドセルを背負い、ふたりで校舎の外へ出た。
雪はまだこの町を覆っていて、春はまだまだ先のような気がした。
その日の夜、町で一番の繁華街にある中華料理店へ両親と行った。
けれど祖父は一緒に来ない。父から留守番しているようにと言われているのだ。以前はなんでも祖父が中心になっていたのに。
体を壊し、町長の仕事を引退してから、祖父は変わってしまった。あんなにきびきびとしていた人だったのに、毎日ぼうっとしていることが多くなり、かと思えば行き先も告げずひとりで出かけて、遅くまで帰ってこなかったりすることがあった。
事故にでもあったら危ないから。父はそう言って、最近祖父を外へ出さないようにしている。
だけどきっと、理由はそれだけではないのだろう。父は家族以外の人たちに、変わってしまった祖父を見せるのが嫌なのだと思う。
おじいちゃんはおじいちゃんなのに。桜雪にしてみれば、昔の厳しいおじいちゃんよりも、今の優しいおじいちゃんのほうが好きなのに。
店の個室に入るともう和臣の家族が来ていて、二家族が久しぶりに揃った。
桜雪がもっと小さい頃は、和臣たち家族とよく食事をしていたけれど、最近は和臣の受験もあって、全員で会うことがなくなっていた。
みんなの前に飲み物が配られると、父が立ち上がって言った。
「和臣くん、合格おめでとう。春からは東京で、しっかり勉強するように。それから桜雪。もうすぐ卒業だな。和臣くんを見習って、頑張るんだぞ」
そして父の声に合わせて、全員で乾杯をした。
大人たちは和臣の合格を祝い、それからいつものように、子どもたちの幼い頃の話を始めた。
「和くんは小さい頃からしっかりしていたものねぇ」
「いつも桜雪の面倒をみてくれて。これからは優秀な家庭教師がいなくなって、困ります」
「いえいえ、うちの和臣も、桜雪ちゃんみたいなかわいい娘さんに勉強を教えられて、喜んでいたんですよ」
桜雪は大人たちの会話を聞きながら、黙って料理を食べていた。
「桜雪。退屈?」
そんな桜雪の隣で和臣がささやく。
「そんなことないよ。お料理美味しい」
「お前エビチリ好きだもんな。もっと食えよ。とってやる」
和臣が桜雪の皿を手に取り、大皿から料理をたっぷりとってのせた。
「やだぁ、こんなに食べられないよ」
「嘘つけ、食えるだろ、このくらい」
桜雪の隣で和臣が笑う。大盛りの皿を前に桜雪が拗ねた顔をしていたら、和臣の母が微笑んだ。
「ふたりとも、ほんとうに仲がよいこと」
それから続けてこう言った。
「こんなに可愛らしい娘さんをいただけるなんて、和臣にはもったいないです」
娘さんを……いただく?
桜雪は思わず箸を止め、大人たちのことを見た。
「それはこっちの台詞ですよ。和臣くんのような立派な息子さんにもらっていただけるなんて、本当に恐縮です」
「お父さん……何言ってるの?」
向かい側の席に座る父に、桜雪は言う。すると父の代わりに和臣が答えた。
「桜雪は僕の、お嫁さんになるってことだよ」
「え?」
意味がわからない。何を言っているのだろう、この人は。
「和くん、何言ってるの? お嫁さんって……私まだ小学生だよ?」
「だから将来、そうなるってこと。もう決まってるんだ」
「決まってるって……そんなの私、初めて聞いた……」
「桜雪」
桜雪の言葉を遮るように、父の声が響いた。
「お前が中学生になったら話そうと思っていたんだが、今夜は良い機会だ。よく聞きなさい」
部屋の中が静まり返った。桜雪は黙って父の声を聞く。
「桜雪。お前は将来、和臣くんと結婚するのだ。それは家同士で話し合って決めたことだ」
「家同士って……大人たちで勝手に決めたの?」
「何も問題はないだろう? 和臣くんとは昔から仲が良いし、将来有望な青年だ。こんな立派な男性と結ばれて、何の不満があるというのだ」
「やだよ! 私、結婚する人は自分で決める!」
「桜雪」
思わず叫んだ桜雪に、父の声がかかる。
「私たちは桜雪と和臣くんの幸せを一番に考えているんだよ。何も今すぐ結婚するわけじゃない。和臣くんは四年間大学に通い、将来のことをしっかり考えて、桜雪も中学高校とまだまだ勉強することはたくさんある。それからの話をしているんだ」
「わ、わかんないよ。どうしてそんなこと、お父さんたちが決めるの? 私の将来は私が決めたいの」
「桜雪。お父さんの言うことを聞いて」
「お母さんまで何なの! 言うこと聞きなさいって、そればっかり! もうやだ!」
桜雪は立ち上がると、部屋を飛び出した。
「桜雪! 待てよ!」
背中に和臣の声が聞こえたけれど、振り向かないで店の外へ走った。