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少し風の強い春の日。桜雪たちの卒業式が無事に終わった。
「桜雪ー!」
艶やかな袴姿の中、一香がそれを縫うように駆け寄ってくる。
「一香……」
「ああ、よかった。やっと会えた」
少し息を切らしながらそう言って、一香は桜雪の前で笑顔を見せる。
一香と会うのは久しぶりだった。
最後に会ったのは確か……まだ就職活動中の頃だ。
「このあとは梓と会うの?」
「ううん。霧島くんは会社の研修があって、卒業式終わったらすぐ就職先に行くって。私もこのあと実家に帰るし」
「ふうん。忙しいんだ。確かあいつ大手の企業に入るんだよね。羨ましいわ」
「一香は?」
桜雪の声に、一香が小さく笑ってから答える。
「私は田舎へ帰るの。親が戻って来いってうるさくて。地元の小さい会社に就職」
「そう」
「桜雪も東京でしょ。頑張ってね」
そう言って一香が笑う。少し複雑な気持ちのまま、桜雪も笑顔を見せた時、一香を呼ぶ男の人の声がした。
「一香!」
「あ、陽介」
駆け寄ってきた陽介と呼ばれた人が、一香の隣に立つ。他の学生と同じようにスーツ姿だから、彼も卒業生なのだろう。
「桜雪は知らなかったよね? この人私の彼氏」
「え、あ……はじめまして」
突然の紹介に戸惑う桜雪の前で、陽介が人の良さそうな笑顔を浮かべる。
「はじめまして。佐藤陽介といいます。一香の友達?」
陽介が桜雪から視線をはずし、一香に聞く。そんな陽介の前で一香が答える。
「そう。小学校からの親友。だよね? 桜雪」
「うん」
一香の前でうなずいた。まだ自分のことを「親友」と言ってくれる一香を想い、胸の奥が熱くなる。
それを吹き払うかのように、桜雪は一香の腕を引っ張り、小声で聞いた。
「いつの間に彼氏できたの?」
「付き合い始めたのは、つい最近だよ。就活中に知り合って……でもこれからどうなるのかは、わからない。私たち遠距離になっちゃうし」
少し寂しそうに一香が言う。
「大丈夫だよ。頑張って」
そう言って両手を伸ばし、一香の手を握る。一香がちょっと照れくさそうに笑う。
一香ならきっと大丈夫。距離になんて負けずに、頑張って欲しい。
一香には幸せになって欲しい、そう心から願う。
「じゃあ、行こうか」
陽介の声がかかる。一香の手が、そっと桜雪から離れる。
「ありがとう、桜雪、元気でね」
「一香も」
「あの町に戻ってきたら声かけて。会おうよ」
「うん。楽しみにしてる」
ふたりの姿が人ごみの中に消えていく。一香の手がそっと陽介の腕に回ったのが、春の日差しの中に見えた。
*
長い間、雪に覆われていた町にも春が来る。
よく晴れた四月の日曜日。桜雪は昨夜一泊した実家から外へ出る。
どこか懐かしい、春の匂い。頬をなでる、やさしい風。
ゆっくりと一歩を踏み出し、歩き始めた。待ち合わせ場所は、あの橋の上。
昨日桜雪は電車に乗って、この町へ来た。
両親のおかげで大学を卒業できたことと、無事に就職し働き始めたことを、家族へ報告するためだ。
そしてもうひとつ、父親へ伝えたいことがあった。
橋の上に着くと、桜雪は河川敷に続く桜並木を眺めた。
ここ数日あたたかい日が続いたため、やっと咲き始めた桜は一気に満開を迎えていた。
「おじいちゃんと来たかったな……」
ほんとうは、祖父も誘って来るはずだった。あの桜並木を、一緒に歩くはずだった。
けれど冬の間に体調を崩した祖父は、いま病院のベッドの中にいる。
ポケットからスマートフォンを取り出し、桜の写真を撮った。
来られないのなら、せめて写真を見せてあげたいと思ったから。
ただ昨日見舞いに訪ずれた時、春になったら桜並木を散歩するという約束を、祖父は覚えていなかった。
――桜の花びらが雪のように舞い落ちて、そこでじいちゃんは『桜雪』という名前をつけたんだよ。
もしかしたらその記憶も、なくなってしまったのだろうか。
急に寂しさが押し寄せて、桜雪は何度もシャッターを切った。カシャカシャという電子音だけが響き、桜の画像が何枚もスマホの中に保存されていく。
なんだかすごく虚しかった。涙が出そうだった。
「桜雪」
そんな桜雪の背中に声がかかった。
驚いて振り返ると、そこに立っていたのはあの和臣だった。
「卒業したんだってな。おめでとう」
「……ありがとうございます」
戸惑いながら答えた桜雪を見て、和臣が意地悪く口元を歪ませる。
「よく平気な顔で答えていられるな。俺や俺の家族の将来をすべてお前がぶち壊したくせに」
桜雪は黙って和臣の顔を見上げる。和臣はふっと笑ってそんな桜雪に言う。
「だから俺もぶち壊してやったんだ。お前やお前の家族が不幸になるように」
「そんなことして……面白いの?」
桜雪の声に和臣の顔色が変わる。
「恨むなら私を恨めばいいじゃない。言いたいことがあれば私に言えば? どうしてそんな子どもみたいなことをするの? そんなのあなたらしくない」
「黙れ」
すっと伸びた和臣の手が桜雪の首元をつかむ。
「殺すぞ?」
「和くんはそんなことしない」
和臣のことは、幼い頃から知っている。優しくて、頼りになるお兄さんだった。そんな彼がどんなに変わってしまっても、心の奥底まではきっと変わることはない。
「桜雪……」
首をつかんだ和臣の手に力がこもる。桜雪は顔を歪めながら、それでも和臣のことを見つめる。
「……バカだな。お前」
力が抜けたようにその手が離れ、それと同時に身体を強く抱きしめられた。
「桜雪」
耳元で聞こえる熱い声。
「好きだった」
その瞬間、和臣と過ごした日々が、次々と頭の中によみがえった。
幼い頃、ふたりでアイスを買いに歩いた夏の道。勉強を教えてもらいながら、初めて和臣としたキス。寒い日に一緒に飲んだ、母の作ってくれたホットミルク。卒業式の日、初めて重ね合った熱い身体。
この町で、桜雪は和臣と一緒に大人になった。そう思ったら、どうしてか涙があふれ出した。
和臣の体がすっと離れ、桜雪の顔をのぞきこみ小さく笑う。
「バカだよ、お前は。俺と一緒になれば、何の苦労もしないですんだのに」
そして愛おしそうに桜雪の涙を指先で拭う。
「後悔するぞ? 絶対」
桜雪は黙って和臣の顔を見つめる。もう一度かすかに笑った和臣が背中を向ける。
その時だ。桜雪の耳にその声が聞こえたのは。
「後悔なんか、させませんから」
和臣が足を止める。その前に梓が立っている。
「俺はあなたとは違うから、苦労はさせてしまうかもしれないけど。だけど後悔なんかさせない。絶対に」
「霧島くん……」
梓にじっと見つめられていた和臣が、さりげなく視線をそらしてつぶやく。
「わかったよ。勝手にしろ」
桜雪と梓を橋の上に残し、和臣が歩き出す。そんな和臣の背中に、桜雪が言う。
「幸せに……なるから」
立ち止まった和臣が、ゆっくりと振り返る。
「私、幸せになるから。だから和くんも……幸せになって」
桜雪の顔をじっと見つめたあと、和臣がふっと口元をゆるませる。
「生意気なこと言うようになったな。お前ら」
和臣が再び歩き始める。桜雪は黙ってその背中を見送る。
春の風が吹く中、和臣の背中がぼんやりとにじんで消えていった。




