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傘と嘘と花びらと  作者: 水瀬さら
花びらの約束
49/50

 少し風の強い春の日。桜雪たちの卒業式が無事に終わった。

「桜雪ー!」

 艶やかな袴姿の中、一香がそれを縫うように駆け寄ってくる。

「一香……」

「ああ、よかった。やっと会えた」

 少し息を切らしながらそう言って、一香は桜雪の前で笑顔を見せる。

 一香と会うのは久しぶりだった。

 最後に会ったのは確か……まだ就職活動中の頃だ。


「このあとは梓と会うの?」

「ううん。霧島くんは会社の研修があって、卒業式終わったらすぐ就職先に行くって。私もこのあと実家に帰るし」

「ふうん。忙しいんだ。確かあいつ大手の企業に入るんだよね。羨ましいわ」

「一香は?」

 桜雪の声に、一香が小さく笑ってから答える。

「私は田舎へ帰るの。親が戻って来いってうるさくて。地元の小さい会社に就職」

「そう」

「桜雪も東京でしょ。頑張ってね」

 そう言って一香が笑う。少し複雑な気持ちのまま、桜雪も笑顔を見せた時、一香を呼ぶ男の人の声がした。


「一香!」

「あ、陽介」

 駆け寄ってきた陽介と呼ばれた人が、一香の隣に立つ。他の学生と同じようにスーツ姿だから、彼も卒業生なのだろう。

「桜雪は知らなかったよね? この人私の彼氏」

「え、あ……はじめまして」

 突然の紹介に戸惑う桜雪の前で、陽介が人の良さそうな笑顔を浮かべる。

「はじめまして。佐藤陽介といいます。一香の友達?」

 陽介が桜雪から視線をはずし、一香に聞く。そんな陽介の前で一香が答える。

「そう。小学校からの親友。だよね? 桜雪」

「うん」

 一香の前でうなずいた。まだ自分のことを「親友」と言ってくれる一香を想い、胸の奥が熱くなる。

 それを吹き払うかのように、桜雪は一香の腕を引っ張り、小声で聞いた。

「いつの間に彼氏できたの?」

「付き合い始めたのは、つい最近だよ。就活中に知り合って……でもこれからどうなるのかは、わからない。私たち遠距離になっちゃうし」

 少し寂しそうに一香が言う。

「大丈夫だよ。頑張って」

 そう言って両手を伸ばし、一香の手を握る。一香がちょっと照れくさそうに笑う。

 一香ならきっと大丈夫。距離になんて負けずに、頑張って欲しい。

 一香には幸せになって欲しい、そう心から願う。


「じゃあ、行こうか」

 陽介の声がかかる。一香の手が、そっと桜雪から離れる。

「ありがとう、桜雪、元気でね」

「一香も」

「あの町に戻ってきたら声かけて。会おうよ」

「うん。楽しみにしてる」

 ふたりの姿が人ごみの中に消えていく。一香の手がそっと陽介の腕に回ったのが、春の日差しの中に見えた。


 *


 長い間、雪に覆われていた町にも春が来る。

 よく晴れた四月の日曜日。桜雪は昨夜一泊した実家から外へ出る。

 どこか懐かしい、春の匂い。頬をなでる、やさしい風。

 ゆっくりと一歩を踏み出し、歩き始めた。待ち合わせ場所は、あの橋の上。


 昨日桜雪は電車に乗って、この町へ来た。

 両親のおかげで大学を卒業できたことと、無事に就職し働き始めたことを、家族へ報告するためだ。

 そしてもうひとつ、父親へ伝えたいことがあった。


 橋の上に着くと、桜雪は河川敷に続く桜並木を眺めた。

 ここ数日あたたかい日が続いたため、やっと咲き始めた桜は一気に満開を迎えていた。

「おじいちゃんと来たかったな……」

 ほんとうは、祖父も誘って来るはずだった。あの桜並木を、一緒に歩くはずだった。

 けれど冬の間に体調を崩した祖父は、いま病院のベッドの中にいる。

 ポケットからスマートフォンを取り出し、桜の写真を撮った。

 来られないのなら、せめて写真を見せてあげたいと思ったから。

 ただ昨日見舞いに訪ずれた時、春になったら桜並木を散歩するという約束を、祖父は覚えていなかった。

 ――桜の花びらが雪のように舞い落ちて、そこでじいちゃんは『桜雪』という名前をつけたんだよ。

 もしかしたらその記憶も、なくなってしまったのだろうか。

 急に寂しさが押し寄せて、桜雪は何度もシャッターを切った。カシャカシャという電子音だけが響き、桜の画像が何枚もスマホの中に保存されていく。

 なんだかすごく虚しかった。涙が出そうだった。

「桜雪」

 そんな桜雪の背中に声がかかった。

 驚いて振り返ると、そこに立っていたのはあの和臣だった。


「卒業したんだってな。おめでとう」

「……ありがとうございます」

 戸惑いながら答えた桜雪を見て、和臣が意地悪く口元を歪ませる。

「よく平気な顔で答えていられるな。俺や俺の家族の将来をすべてお前がぶち壊したくせに」

 桜雪は黙って和臣の顔を見上げる。和臣はふっと笑ってそんな桜雪に言う。

「だから俺もぶち壊してやったんだ。お前やお前の家族が不幸になるように」

「そんなことして……面白いの?」

 桜雪の声に和臣の顔色が変わる。

「恨むなら私を恨めばいいじゃない。言いたいことがあれば私に言えば? どうしてそんな子どもみたいなことをするの? そんなのあなたらしくない」

「黙れ」

 すっと伸びた和臣の手が桜雪の首元をつかむ。

「殺すぞ?」

「和くんはそんなことしない」

 和臣のことは、幼い頃から知っている。優しくて、頼りになるお兄さんだった。そんな彼がどんなに変わってしまっても、心の奥底まではきっと変わることはない。

「桜雪……」

 首をつかんだ和臣の手に力がこもる。桜雪は顔を歪めながら、それでも和臣のことを見つめる。

「……バカだな。お前」

 力が抜けたようにその手が離れ、それと同時に身体を強く抱きしめられた。

「桜雪」

 耳元で聞こえる熱い声。

「好きだった」

 その瞬間、和臣と過ごした日々が、次々と頭の中によみがえった。

 幼い頃、ふたりでアイスを買いに歩いた夏の道。勉強を教えてもらいながら、初めて和臣としたキス。寒い日に一緒に飲んだ、母の作ってくれたホットミルク。卒業式の日、初めて重ね合った熱い身体。

 この町で、桜雪は和臣と一緒に大人になった。そう思ったら、どうしてか涙があふれ出した。


 和臣の体がすっと離れ、桜雪の顔をのぞきこみ小さく笑う。

「バカだよ、お前は。俺と一緒になれば、何の苦労もしないですんだのに」

 そして愛おしそうに桜雪の涙を指先で拭う。

「後悔するぞ? 絶対」

 桜雪は黙って和臣の顔を見つめる。もう一度かすかに笑った和臣が背中を向ける。

 その時だ。桜雪の耳にその声が聞こえたのは。


「後悔なんか、させませんから」

 和臣が足を止める。その前に梓が立っている。

「俺はあなたとは違うから、苦労はさせてしまうかもしれないけど。だけど後悔なんかさせない。絶対に」

「霧島くん……」

 梓にじっと見つめられていた和臣が、さりげなく視線をそらしてつぶやく。

「わかったよ。勝手にしろ」

 桜雪と梓を橋の上に残し、和臣が歩き出す。そんな和臣の背中に、桜雪が言う。

「幸せに……なるから」

 立ち止まった和臣が、ゆっくりと振り返る。

「私、幸せになるから。だから和くんも……幸せになって」

 桜雪の顔をじっと見つめたあと、和臣がふっと口元をゆるませる。

「生意気なこと言うようになったな。お前ら」

 和臣が再び歩き始める。桜雪は黙ってその背中を見送る。

 春の風が吹く中、和臣の背中がぼんやりとにじんで消えていった。

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