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傘と嘘と花びらと  作者: 水瀬さら
花びらの約束
48/50

 その夜、三年半ぶりに実家へ帰ると、母が玄関で出迎えてくれた。

「お帰り、桜雪」

「……ただいま」

 間違ったことをしているつもりはなかった。その気持ちは何年経っても変わらない。ただ……自分の言動が、両親の生活まで変えてしまったこともわかっていた。

「お父さん、居間にいるから。挨拶してきなさい」

「うん」

 足が重かったが、母の言う通り父に会いに行く。

 この三年半、父とは一度も会話をしていなかったが、母とはメールや電話で時々連絡を取り合っていた。

 だから父が前回の町議会議員選挙で落選したことも、母から聞いて知っていたのだ。

 母は詳しいことは話さなかったけれど、桜雪にはなんとなくわかっていた。この町に広まった、娘の良くない噂が、選挙に影響していたのだろうと。


「お父さん、桜雪です」

 襖を開けると、父がひとりで酒を飲んでいた。

 立ち尽くしている桜雪をちらりと見て、父は何も言わずにまた酒に口をつける。

 最近の父は、こうやってひとりで酒を飲むことが多くなったと母が言っていた。体調もあまり良くなく、ふさぎ込んでいる父を心配していた。

 確かに久しぶりに会う父は、以前よりずっと弱々しく見えた。強くて自信にあふれていた父の面影は、もうない。

「東京生活をあきらめて、逃げ帰ってきたか?」

 ぽつりとつぶやいた父の言葉に、桜雪は首を振る。

「お父さん、私就職決まったの。春からは東京で働くの」

 父は何も言ってくれない。

「だから……今までありがとうございました」

 父の前に正座をし、頭を下げる。なぜか今夜は素直にできた。

「それから……迷惑かけて、ごめんなさい」

 深く深く頭を下げる。

 桜雪が男遊びをしていると噂を流したり、梓と一緒の写真をばらまいたり。そんなことをしているのは誰なのか、わかっていた。

 けれど、桜雪にも少しは負い目があった。

 高校生の頃、和臣が他の女と付き合っていることを知り、自分も他の男と関係を持ったのは事実だし、和臣と別れられないまま、梓の部屋に泊まったのも事実だ。

 そして和臣と和臣の家族の未来を、自分が壊してしまったのも事実。


 顔を上げ、父の姿を見る。父はこちらを見ようともせず、酒に口をつけている。

 やはり父は許してくれないようだ。娘のわかがままのせいで、こんなことになってしまったことを。

 桜雪は何も言わずに背中を向ける。襖を開け、部屋の外へ出ようとした時、父の消えそうな声が耳に響いた。

「桜雪。お前は父さんに謝るようなことをしたのか?」

 ゆっくりと振り返り、父の姿を見つめる。

「悪いことをしていると、思っているのか?」

「悪いことなんて……してない」

 和臣と別れたいと言ったことも、梓を好きだと思ったことも、自分に嘘をつきたくなかったから。そのせいで誰かを傷つけてしまっても、桜雪は自分の意思でそれを選んだ。

「だったら堂々としていなさい。堂々とこの家へ帰って来て、また出て行きなさい」

 ああ、そうか。この家にずっと帰れなかった理由。それは父と会いたくなかったこともあるけれど。

 やはり周りの目が怖かったのだ。狭い町の中、一度つけられたレッテルをはがすことは難しい。

 それなのに、梓や梓の母は、どうして平気な顔で笑っていられたのだろう。

 いや、違う。平気なはずなんてない。心無い人たちの言葉や態度に、あのふたりがどれだけ傷つけられていたか。桜雪にはわからなかった辛い想いを、どれだけしていたか。

 一番近くにいたのに、何もわかっていなかった自分が情けなくて、涙が出そうになった。だからそのまま背中を向けて父に言う。

「お父さんも堂々としてて。何も悪いことはしていないんだから」

 弱々しい父の姿は、見たくない。


 *


 翌朝、荷物をまとめて二階の部屋から下へ降りた。

「もう少しゆっくりしていけばいいのに」

「いいの。お父さんとも話せたし」

 そう言いながら居間をのぞくと、縁側に座って外を見ている祖父の背中が見えた。

 昨日この家に来たのは遅い時間で、もう眠っていた祖父とはまだ会っていなかったのだ。

「おじいちゃん、おはよう」

 背中から声をかけると、祖父がゆっくりと振り返った。

「おじいさん、桜雪ですよ」

 すかさず母の声が聞こえて、祖父が「ああ……」とうなずく。

「桜雪か。学校は終わったのかい」

 記憶が混乱しがちな祖父にとって、今朝の桜雪はまだ小学生なのかもしれない。

「うん。今日はお休み。でももう出かけなきゃいけないの」

「そうか……」

 祖父がつぶやいて、窓の外を見る。

 外は昨日よりももっと、深い雪に包まれていた。


「ずいぶん積もったね」

 祖父の隣に座って桜雪が言う。

「今年はまだまだ降るだろう」

 窓の外を見つめて目を細める、祖父の横顔を見る。

「だけど必ず春は来るよ」

 毎年雪に閉じ込められてしまうこの町だけど、春の来ない冬なんて一度もなかった。

「春になったらまたお散歩に行こう? おじいちゃん」

「そうだなぁ……」

 少し考えるような顔つきをしたあと、祖父が桜雪の顔を見つめて言う。

「桜雪に一番きれいな場所を教えてあげよう。桜の花びらが雪のように舞い落ちて、そこでじいちゃんは『桜雪』という名前をつけたんだよ」

 何度も聞いて、何度も足を運んだその場所のことを、祖父は初めて話すように言う。それをわかっていて、桜雪はこう答える。

「うん。今度そこに連れてって? おじいちゃん」

 目の前で祖父が微笑んだ。桜雪も一緒になって笑う。

 雲の隙間から陽が差して、白く染まった庭を眩しく照らした。

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