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その夜、三年半ぶりに実家へ帰ると、母が玄関で出迎えてくれた。
「お帰り、桜雪」
「……ただいま」
間違ったことをしているつもりはなかった。その気持ちは何年経っても変わらない。ただ……自分の言動が、両親の生活まで変えてしまったこともわかっていた。
「お父さん、居間にいるから。挨拶してきなさい」
「うん」
足が重かったが、母の言う通り父に会いに行く。
この三年半、父とは一度も会話をしていなかったが、母とはメールや電話で時々連絡を取り合っていた。
だから父が前回の町議会議員選挙で落選したことも、母から聞いて知っていたのだ。
母は詳しいことは話さなかったけれど、桜雪にはなんとなくわかっていた。この町に広まった、娘の良くない噂が、選挙に影響していたのだろうと。
「お父さん、桜雪です」
襖を開けると、父がひとりで酒を飲んでいた。
立ち尽くしている桜雪をちらりと見て、父は何も言わずにまた酒に口をつける。
最近の父は、こうやってひとりで酒を飲むことが多くなったと母が言っていた。体調もあまり良くなく、ふさぎ込んでいる父を心配していた。
確かに久しぶりに会う父は、以前よりずっと弱々しく見えた。強くて自信にあふれていた父の面影は、もうない。
「東京生活をあきらめて、逃げ帰ってきたか?」
ぽつりとつぶやいた父の言葉に、桜雪は首を振る。
「お父さん、私就職決まったの。春からは東京で働くの」
父は何も言ってくれない。
「だから……今までありがとうございました」
父の前に正座をし、頭を下げる。なぜか今夜は素直にできた。
「それから……迷惑かけて、ごめんなさい」
深く深く頭を下げる。
桜雪が男遊びをしていると噂を流したり、梓と一緒の写真をばらまいたり。そんなことをしているのは誰なのか、わかっていた。
けれど、桜雪にも少しは負い目があった。
高校生の頃、和臣が他の女と付き合っていることを知り、自分も他の男と関係を持ったのは事実だし、和臣と別れられないまま、梓の部屋に泊まったのも事実だ。
そして和臣と和臣の家族の未来を、自分が壊してしまったのも事実。
顔を上げ、父の姿を見る。父はこちらを見ようともせず、酒に口をつけている。
やはり父は許してくれないようだ。娘のわかがままのせいで、こんなことになってしまったことを。
桜雪は何も言わずに背中を向ける。襖を開け、部屋の外へ出ようとした時、父の消えそうな声が耳に響いた。
「桜雪。お前は父さんに謝るようなことをしたのか?」
ゆっくりと振り返り、父の姿を見つめる。
「悪いことをしていると、思っているのか?」
「悪いことなんて……してない」
和臣と別れたいと言ったことも、梓を好きだと思ったことも、自分に嘘をつきたくなかったから。そのせいで誰かを傷つけてしまっても、桜雪は自分の意思でそれを選んだ。
「だったら堂々としていなさい。堂々とこの家へ帰って来て、また出て行きなさい」
ああ、そうか。この家にずっと帰れなかった理由。それは父と会いたくなかったこともあるけれど。
やはり周りの目が怖かったのだ。狭い町の中、一度つけられたレッテルをはがすことは難しい。
それなのに、梓や梓の母は、どうして平気な顔で笑っていられたのだろう。
いや、違う。平気なはずなんてない。心無い人たちの言葉や態度に、あのふたりがどれだけ傷つけられていたか。桜雪にはわからなかった辛い想いを、どれだけしていたか。
一番近くにいたのに、何もわかっていなかった自分が情けなくて、涙が出そうになった。だからそのまま背中を向けて父に言う。
「お父さんも堂々としてて。何も悪いことはしていないんだから」
弱々しい父の姿は、見たくない。
*
翌朝、荷物をまとめて二階の部屋から下へ降りた。
「もう少しゆっくりしていけばいいのに」
「いいの。お父さんとも話せたし」
そう言いながら居間をのぞくと、縁側に座って外を見ている祖父の背中が見えた。
昨日この家に来たのは遅い時間で、もう眠っていた祖父とはまだ会っていなかったのだ。
「おじいちゃん、おはよう」
背中から声をかけると、祖父がゆっくりと振り返った。
「おじいさん、桜雪ですよ」
すかさず母の声が聞こえて、祖父が「ああ……」とうなずく。
「桜雪か。学校は終わったのかい」
記憶が混乱しがちな祖父にとって、今朝の桜雪はまだ小学生なのかもしれない。
「うん。今日はお休み。でももう出かけなきゃいけないの」
「そうか……」
祖父がつぶやいて、窓の外を見る。
外は昨日よりももっと、深い雪に包まれていた。
「ずいぶん積もったね」
祖父の隣に座って桜雪が言う。
「今年はまだまだ降るだろう」
窓の外を見つめて目を細める、祖父の横顔を見る。
「だけど必ず春は来るよ」
毎年雪に閉じ込められてしまうこの町だけど、春の来ない冬なんて一度もなかった。
「春になったらまたお散歩に行こう? おじいちゃん」
「そうだなぁ……」
少し考えるような顔つきをしたあと、祖父が桜雪の顔を見つめて言う。
「桜雪に一番きれいな場所を教えてあげよう。桜の花びらが雪のように舞い落ちて、そこでじいちゃんは『桜雪』という名前をつけたんだよ」
何度も聞いて、何度も足を運んだその場所のことを、祖父は初めて話すように言う。それをわかっていて、桜雪はこう答える。
「うん。今度そこに連れてって? おじいちゃん」
目の前で祖父が微笑んだ。桜雪も一緒になって笑う。
雲の隙間から陽が差して、白く染まった庭を眩しく照らした。




