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傘と嘘と花びらと  作者: 水瀬さら
花びらの約束
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 その町が近づくにつれ、窓の外は白一色に染まり始めた。

 桜雪はそんな景色をぼんやりと眺めながら、列車の揺れに身をまかせる。

 冬になると雪に覆われてしまう狭い町。そこへ帰るのは大学一年の夏以来だ。

 あれからもう三年半が経ってしまった。桜雪はその間一度も、あの町を訪れてはいない。

 到着駅を告げるアナウンスが流れた。桜雪は荷物を持って立ち上がる。

 ホームへ下りるとやわらかな雪が、花びらのように舞い落ちてきた。


 駅からタクシーに乗り、実家の手前で降りた。あたりはもう薄暗くなっている。

 何度か来たことのあるその家は、雪の降る中、以前と変わらずひっそりと建っていた。

 桜雪は息を深く吐いたあと、門を開け庭の中へ入った。玄関の前に立ち呼び鈴を鳴らすと、すぐに引き戸が開いた。


「霧島くん……」

 消えそうな声でつぶやいた桜雪の前で、梓が小さく笑う。

「久しぶり」

 その顔を見ただけで泣きそうになったけど、それをぐっとこらえて答える。

「うん……久しぶりだね」

 同じ大学へ通い、近くに住んでいるというのに、梓とはもうずいぶん会っていなかった。

 会わない、と決めていたから。

 時々やりとりするメッセージで、お互い就職が内定したことは知っていた。たまに大学の中で見かけることもある。けれど桜雪から「会おう」とは言わなかった。梓からも言われなかった。

 大学を卒業し、ひとりで生きていけるようになるまでは付き合わない。お互い心の中でそう決めていたのだ。

 そんな時、母からの連絡で桜雪はそれを知った。

 梓の母親のリエが、亡くなったということを。


 梓のあとについて部屋の中へ入ると、こたつ机の上に小さな木箱が置かれていた。

「葬式なんてするなって言われてたからさ。とりあえずばあちゃんちに連れて帰って、それから骨にしてもらって、ここに連れてきたんだ。ずっとこの町に帰りたいって言ってたから」

 さらりと梓はそんなことを言うけど、桜雪はどうしたらいいのか戸惑った。

「だけど俺も、ずっとここにいるわけにもいかないし。これからどうなるのかはわからない」

 桜雪は黙ったまま一歩を踏み出し、畳の上に座ると、駅前で買った花を机の上にそっと置いた。そして静かに両手を合わせる。

 リエが、ずっと病院を転々としていたことは、梓から聞いて知っていた。最初は嫌がっていた治療を、積極的に始めたことも。

 けれど桜雪が彼女を見舞うことは、一度もなかった。


「ごめんなさい」

 誰にでもなくつぶやく。

「一度も、おばさんに会いに来ないで」

「そんなの、謝ることないよ」

 背中から、梓の声が聞こえた。けれど桜雪は小さく首を横に振る。

「会いたかったのに……ほんとうは会いたかったのに。会うのが怖かったの。ごめんなさい」

「大丈夫」

 うつむいた桜雪の隣に、梓が同じように座る。

「今頃空で笑ってるよ。最期まであの人は相変わらずだったから」

 初めて会った日、桜雪に見せてくれたリエの笑顔を思い出す。

 梓は小さく桜雪に笑いかけると、そっと手を伸ばし机の上の箱に触れた。


「ずいぶん小さくなっちゃっただろ?」

 梓の手がその箱をなでる。

「生きようとしてたんだ。最期まで。初めてあの人が……生きようとしてた」

 桜雪は梓の横顔を見つめた。梓の視線は箱の中の母親に向けられていて、愛おしそうにその箱をなでている。

「最初は治療なんて嫌だって言ってたくせに。私が死んだらあんた寂しいんでしょうって。一人息子を残して死ねないって」

 梓があきれたように口元をゆるませる。

「何を今さらって感じだろ? 今まで俺のことなんか、どうでもよかったくせに。あっちの『梓』しか見えてなかったくせに。なのに今ごろになって言うんだ。あなたのことを愛してるなんて……ぼろぼろの体で笑いながら」

 梓の手が止まり、そのままうつむいた。

「ふざけんな……今さらそんなの……遅いんだよ……」

「霧島くん……」

 桜雪はそっと手を伸ばし、隣に座る梓の背中に触れる。その背中は悲しいほど震えていた。

「違うよ。違う。『今さら』なんかじゃない」

 両手を広げ、梓の身体を背中から抱きしめる。

「お母さんはずっと、霧島くんのことを愛してたよ。霧島くんはちゃんと、愛されていたんだよ」

 遠い冬の日。梓と初めて会った雪の朝。あの頃からずっと彼は、母親からの愛情を求めていた。

 だけどそんなこと一言も口にせず、自分の胸の奥にしまい込んで、今までずっと生きてきた。


 うずくまるように崩れ落ちるその身体を、もっと強く抱きしめる。声を殺した梓の泣き声が、ふたりだけの部屋にかすかに響く。

「泣いていいよ」

 震える身体につぶやいた。

「私の前では我慢しなくていいよ」

 窓の外は、雪が静かに降り続いていた。音のない部屋の中に、梓の嗚咽する声が漏れる。

 その身体を抱きしめながら、桜雪は思う。

 降り続く雪は、この家をこの町を、そして傷ついた心を、白く深く覆ってゆくのだろう。

 やがて雪は溶け、桜の花が美しく開き、今度は舞い散る花びらが、その傷をやさしく覆ってゆくのだろう。

 そんな花びらに、桜雪はなりたいと思う。愛しい人を癒してあげられるような、強くて優しい心を持ちたいと思う。


「傘を……返してないんだ」

 部屋の隅に並んで座って、桜雪は梓のかすれる声を聞く。

 この部屋を訪ねて来てから、どのくらいの時間がたったのだろう。数十分なのか数時間なのか、よくわからない。

 音のない、ふたりだけの部屋では、時間の感覚がおかしくなる。

「母親のお気に入りの傘。いつか取りに来るって言ってたから、ずっと待ってたのに。とうとう傘を取りには来なかった」

 小さく吐いた梓の吐息が、静まり返った部屋の中に浮かぶ。

「俺が持って行ってやればよかったんだけど。それを返しちゃったら、もう二度と会えなくなるような気がして……怖かったんだ」

「うん……」

「でも結局会えなくなっちゃったんだから、返せばよかったな。リエさんに」

 ふっと笑う梓の横顔を見る。梓は窓の外に降り続く雪を見つめている。

 桜雪はそっと手を伸ばし、梓の手を握った。中学生の頃、こうやってここにふたりきりでいたことを思い出す。

 生ぬるかった風。雨の音。庭先に転がった傘とトマト。つないだ手の温度。

 あの時離してしまった手を、もう二度と離したくはない。


「霧島くんは……覚えてないよね」

 静かに桜雪は口を開く。

「初めて会った日にした約束」

 学校帰りに立ち止まった橋の上から、雪の積もった桜並木をふたりで眺めた。

「雪もきれいだけど、桜もきれいだよって私が言って……春になったら、一緒に行く?って……私が聞いたの」

 少しの間黙っていた梓が、前を見たまま小さく笑う。

「覚えてるよ。それで俺が、連れてってって言ったんだ」

 ゆっくりと隣を見る。正直そんな昔の約束を、梓が覚えているとは思っていなかった。

 梓は桜雪の顔を、じっと見つめて言う。

「まだふたりで行ってなかったな、あの道」

 桜が満開になったあと、雪みたいに花びらが降ってくる、川沿いの道。

 祖父が『桜雪』という名前をつけてくれた道。

 桜雪はあの景色を、梓にも見て欲しかったのだ。


「連れてって」

 梓の声がすぐそばから聞こえる。

「連れてってよ、桜雪。春になったら」

 かすかに震えながら、梓の手をぎゅっと握りしめて答える。

「うん。いいよ」

 桜雪の視界の中で、梓が嬉しそうに微笑んだ。

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