26
その日の夜、桜雪は父にもう一度自分の気持ちを話した。
好きな人がいること。和臣とは結婚できないこと。
わがままだと言われても仕方ない。もうこれ以上、嘘をつきたくないこと。
桜雪の話を聞いて、父が大きくため息をついた。母はその隣で黙り込んでいる。
「まったく、なんてことをしてくれたんだ」
父はそう言ってから、食卓の上のお酒を一気に飲んだ。
「今日、安達家からも言われたよ。和臣くんとの縁談はなかったことにして欲しいとな」
「え……」
「和臣くんという婚約者がいるというのに、別の男と遊び歩くような娘さんはお断りだと、先方から言われんだよ」
桜雪はうつむき、膝の上のスカートをぎゅっと握りしめた。
「近所にも変な噂が流れ始めているようだ。綾瀬の娘は誰とでも簡単に関係を持つような軽い女だと」
「そんなこと誰が……」
不安そうにつぶやく母の隣で、父が頭を抱える。
父が心配しているのは選挙のことだろう。この狭い町では、ただの噂が命取りになる。
けれど桜雪は思っていた。もしかしたら和臣がそんな噂を流したのではないかと。
「これではあの女と同じじゃないか。梓のことをこの町から連れ出して、殺したようなあの女と」
「それ、霧島くんのお母さんのこと?」
桜雪は顔を上げて父に言った。
「霧島くんのお母さんはそんな人じゃないよ。ただほんとうにその人のことが好きで……今でもずっと好きで。なのにどうして『殺した』なんてひどいこと言うの? だったらお父さんも私の悪口を言ってる近所の人と同じじゃない」
父は何も言わずに桜雪のことを見ている。桜雪はそんな父から目をそらさずに言った。
「お父さんが出て行けと言うなら出て行きます。だけどひとつだけ、お願い。今の学校だけは卒業させてください。そのあとはひとりで生きていくから」
「なにがひとりで生きるだ。なにひとつできない娘がふざけたことを言うんじゃない」
「ふざけてなんかない。学校を卒業して仕事に就いたら、お父さんの力を借りなくても生きていく」
「お前は現実を知らないから、そんな夢のようなことを言ってるんだ。あの霧島の息子と、手を取り合って出て行くつもりか? それでお前が幸せになれるとは思えない。なれるわけがない」
「どうしてそんなこと決めつけるの? そんなのやってみなくちゃわからないじゃない。私ちゃんと幸せになる。なってみせる」
「桜雪!」
その時部屋の襖が開いた。心配そうな顔つきの母の後ろから、祖父が顔を出す。
「もうそのくらいでやめておきなさい」
祖父の声に顔を向ける。
「桜雪がそうしたいと言っているんだ。好きなようにさせてやりなさい」
「父さん!」
父が祖父に向かって言う。
「父さんは黙っててください」
「いや、黙らんよ。わしはボケてなんかおらん。今でもずっと桜雪の幸せを願っている。お前もそうだろう?」
黙り込んだ父から視線をそらし、祖父が桜雪のことを見る。
「桜雪。じいちゃんも父さんも母さんも、みんなお前の幸せを願っているんだよ。それだけはわかっておくれ」
「はい。おじいちゃん」
祖父が目を細めて微笑み、それ以上は何も言わずにまた部屋へ戻ってしまった。
「まったく、父さんは何を言ってるんだ」
父は怒った声でそう言って、立ち上がる。
「そんなに言うならやってみなさい。卒業後に泣きついてきても、父さんはお前の面倒をみないからな」
「お父さん……」
父の前でうなずいた。
「はい。わかってます」
父は桜雪の顔をじっと見たあと、黙って部屋を出て行った。
小さく息をついた桜雪に、残された母がつぶやく。
「お父さんが引き下がったところなんて、初めて見たわ。やっぱりおじいちゃんには逆らえないのかしら」
そしてあきれたようなため息をつき、桜雪に向かって言う。
「これだけのことを言ったんだから、ひとりでやりきる覚悟はあるんでしょうね?」
「うん。だけど噂のことはごめんなさい。それは迷惑かけてると思ってる」
「いいのよ。みんなすぐに飽きるでしょう。これまでだっていろいろあったのよ。狭い町だからね。いろんなことがあったの」
母はそう言って縁側から外を見た。
庭先から吹き込んだ風が、風鈴の音を小さく鳴らす。
桜雪は母の横顔を見ながら思った。
きっとこの町で、この家で、母は桜雪の知らない辛いこともたくさん経験してきたのだろう。
「お母さんは……この町を出たいと思ったことはある?」
つぶやいた桜雪の顔を、母が見つめる。そして何も答えないまま、静かに微笑んだ。
*
数日後の朝、桜雪は東京へ戻る荷物を持ち、梓の住んでいた家へ寄った。今はそこにリエが、ひとりで暮らしているはずだ。
懐かしい門を開き、草の生えた庭を歩く。ここで梓と向き合った雨の日を、何となく思い出す。
「あら、桜雪ちゃん?」
先に声をかけてくれたのは、庭で草むしりをしていたリエだった。
タオルを首からかけて、麦わら帽子をかぶっている彼女は、この前会った時よりも少し元気そうに見えた。
「おばさん、おはようございます」
「おはよう。もしかして東京へ帰るの?」
立ち上がったリエが、桜雪の持っている荷物を見て言う。
「はい。またしばらく帰ってこないと思うので」
「そう。元気でね」
そう言ってリエは、真夏の太陽の下で明るく笑う。
「あ、そうだ。桜雪ちゃん、これ見て?」
リエが思い出したように、ジーンズのポケットから紙切れを出した。
「え、なに、これ……」
渡された紙を見て、桜雪は言葉を失った。
「ひどい……」
そこには桜雪の家の前で抱き合う、桜雪と梓の写真がプリントされていた。
確かにあの雨の日。傘の中でふたり抱き合った。こんなもの、誰がいつの間に撮影したのだろう……。
「その紙が、近所中にばらまかれてるみたいなの。よっぽど暇人がやったのね」
桜雪はぎゅっと紙を握りしめた。こんなことをするのは……きっとあの人だ。
けれどリエは、桜雪の前でおかしそうに笑って言った。
「ね、すごくない? 芸能人みたいじゃない?」
「え……」
「これでうちの息子も有名人だわ。相手が桜雪ちゃんでよかった」
「でも……」
「大丈夫。今度こんなものばらまいてるヤツ見つけたら、つかまえてぶん殴っておくから」
桜雪は黙ってリエの顔を見る。そんな桜雪の前で、リエは他人事のように笑っている。
「ご迷惑かけてごめんなさい」
「なにが迷惑なの? 私は嬉しいの。桜雪ちゃんが梓と仲良くしてくれて」
はじめて出会った日。この人から言われた言葉を思い出す。
――桜雪ちゃん、仲良くしてやってね?
もう一度笑ったリエは、桜雪の手から紙切れを奪い、それをびりびり破いて捨てた。
「幸せになってほしいな」
夏の風に乗って、ちぎれた紙が、花びらのように飛んで行く。
「桜雪ちゃんと梓には、幸せになってほしいな」
その言葉を胸に抱く。
そして桜雪が彼女と言葉を交わしたのは、この夏が最後だった。




