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傘と嘘と花びらと  作者: 水瀬さら
君に傘を
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24

 東京へ帰る朝、梓は桜雪へメッセージを送った。「帰る前に少しだけ会いたい」と。

 来るときの電車は一緒だったけれど、帰りのチケットは取っていなかった。きっと桜雪はまだ実家にいるだろう。父親を説得するまでは帰らないと言っていたから。

 荷物を整理していたら、桜雪から返事が返ってきた。

 ――私も会いたい。どうすればいい?

 ――家で待ってて。あとで行く。

 そう答えて部屋を出る。

 梓はこの数日間、中学まで自分の使っていた部屋で寝起きしていた。

 数年前、リエがいなくなって、そのあと梓も出て行き、空き家となったこの家。

 けれどリエは半年ほど前から、ここにまた住んでいたという。ただ入退院を繰り返していたため、ほとんどが留守だったらしいけど。


 荷物を持って居間へ行くと、リエが低いテーブルの前に座っていた。その上には朝食が用意されている。

「なに、これ」

「なにって。朝ご飯よ。梓と一緒に食べようと思って」

 そう言って子どものようにいたずらっぽく笑うリエに、ため息をつく。

 そんな顔をされたら、恨むこともできないじゃないか。

 あの雨が降った、十五歳の誕生日の夜。酔っていたとはいえ、実の息子にあんなことをして、その上勝手にいなくなった母親。

 その母親のせいで、自分がどんな想いをしたか。この人はまったく気にしていないのだろうか。

 梓が腰をおろしたら、リエがあたたかいご飯をよそってくれた。黙ってそれを受け取って、箸をとる。

「……いただきます」

「うん。いただきます」

 ふたりで向かい合って朝食を食べる。なんとなく気まずくて、梓は無言で食べ続けた。美味しいかどうかなんてよくわからない。ただ懐かしい味がした。


「……ほんとにここにいるの?」

 ご飯を食べ終わり、梓は確認するようにリエに聞く。この数日間、何度も話した話題だ。

「ここにいるって言ったでしょ?」

「東京に来ればいいのに。大きい病院もたくさんあるし」

「大丈夫。私はここが好きなの」

「きっとまた意地悪されるのに?」

「もう慣れたよ。そんなの」

「ここには父さんとの思い出があるから?」

 梓の言葉に、リエは肩をすくめて小さく笑う。

「あんたは自分のことだけ考えてればいいの」

 リエは自分の病名を『癌』だと告げた。すでに身体のあちこちに転移していて、もう手術もできないのだと、他人事のように梓に話した。

 それでも治療法はあるはずだから、病院へ行ってくれと頼んだが、お金もないし、つらい治療はしたくないときかないのだ。

 そんな彼女をひとり残して東京へ帰るのは、どんなに腹が立つ母親だとしても、やっぱり気が引ける。

「ほら、もう行きな。見送りはしないけど」

 リエはそう言って笑うと、立ち上がって食器を台所へ運んだ。水道の蛇口から水が流れ、食器を洗う音が耳に聞こえる。

 梓はのろのろと支度をすると、荷物を持ってそんなリエの後ろに立った。


「じゃあ、行くけど」

「うん」

 振り向かずにリエが答える。目の前に見える背中は、自分よりずっと小さくて、細くて痛々しい。

「今度俺が来るまで、死ぬなよ?」

 リエは手を止めようとしない。

「死にたいとか、もう考えるなよ。ちゃんと生きることを、考えろよ」

 梓の声にリエは反応をしない。

「ねぇ、わかってんの?」

 その背中に向かって言う。

「俺、あんたがいないと困るから。あんたがいなくなったら寂しいから。だから絶対いなくなるなよ!」

 荷物を持って部屋を出た。水道の音が止まった気がしたけど、振り向かないで靴を履く。

 そして玄関から外へ出た時、梓は「しまった」と思った。

 外はぱらぱらと雨が降っていた。夏の朝の明るい雨だ。

 傘を取りに帰る気にならなくて、そのまま庭を歩いた。

 緑の草は伸び放題伸びていて、その葉に雨の粒がかかっていた。


「梓」

 名前を呼ばれた気がして立ち止まる。

「梓!」

 リエのその声は、どちらの『梓』を呼んでいるのだろう。

 雨の中聞こえてきた足音は、梓のすぐそばで止まる。

「傘、忘れてるよ」

 後ろから傘をさしかけられた。雨の雫は音もなく、その傘に降り注ぐ。

 ゆっくりと振り返ると、目の前に立つリエが、梓の手に持っていた傘を握らせた。

 幼い頃、自分よりも大きくて、自分を守ってくれる存在だった母。その母が、こんなに小さく見えるようになってしまったのはいつからだったか。

「それ、私のお気に入りの傘だから。絶対なくさないでよ。私が今度取りに行くまで」

 ふっと梓に笑いかけ、リエは背中を向けた。

 明るい雨がしとしとと降る中、その背中が遠ざかり、見えなくなる。

 梓は彼女の傘をぎゅっと握りしめた。そして雨の中へ一歩を踏み出す。

 泣き出しそうになる気持ちを、必死にこらえながら。

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