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――大事な話があるんだけど、今から出て来れない?
梓の元へ桜雪からメッセージが届いたのは、帰省して三日目の朝だった。
祖父母の家へ来たものの、やっぱり居心地が悪くて、梓は早々にここを出ようと考えていた。
そして東京へ帰る前に、もう一度あの家へ行こうと思っていたのだ。小六の時に、母親と引っ越してきたあの家へ。
――いいよ。
そう答えて、隣町から自転車を走らせる。
朝からじっとりと蒸し暑い日だった。
赤信号で止まっている間、梓は何回もTシャツの袖で汗を拭った。
懐かしい中学校と小学校を通り過ぎ、田舎道を走って行くと、川に架かる橋が見えてきた。
その欄干から遠くを眺めているひとりの人影。桜雪だった。
「綾瀬!」
声をかけると、桜雪がゆっくりとこちらを向いた。
「また何かあったの?」
桜雪の婚約者の男のこと。桜雪の家族のこと。問題は何ひとつ解決していない。
けれど桜雪は静かに首を横に振った。
「違うの。私のことじゃないの」
「え?」
「霧島くんのこと……なの」
「俺のこと?」
桜雪は少し困ったように一度視線をはずしてから、再び梓のことを見て言った。
「私昨日、霧島くんのお母さんに会ったよ」
一瞬体が動かなくなった。そんな梓の様子を、桜雪が心配そうに見ている。
動揺している自分に気づかれたくなくて、梓は平静を装って声を出した。
「どこで?」
「総合病院」
「病院?」
「そこに入院してたらしいんだけど……今日退院するって言ってた」
桜雪の言葉を聞きながら、いろいろなことを想像する。一番に思い浮かんだのは、自分で自分の体を傷つけたんじゃないかってこと。あの人は精神が不安定な人だったから。
「だから霧島くんのお母さん、ここに戻って来るんじゃないかって思って。霧島くん、お母さんに会いたいって言ってたでしょう?」
桜雪の前でうなずけなかった。確かに会いたいと思っていた。会わなければ自分は変われないと思っていた。
だけどいざ会えるかもしれないと思うと、素直にうなずけない自分がいた。
息子を押し倒したあげく、その息子を捨てた母親を前にして、果たして冷静でいられるだろうか。
どうなってしまうのか自分でもわからなくて、ここから逃げ出したい気持ちになっていた。
しばらく黙り込んでいたら、左の手にあたたかいものが触れた。桜雪の手だった。
その手がそっと梓の手を握る。「大丈夫だよ」とでも言っているかのように。
「ごめん。大丈夫」
そう言いながら、桜雪ににぎられている自分の手が、震えていることに気がついた。
情けない自分に腹が立つ。こんなんで、桜雪のことを迎えに来れる日がくるのだろうか。
「霧島くん。お母さんと話してあげて」
桜雪の声が、蝉の鳴き声と混じり合うように聞こえてくる。
「お母さん、体調があまりよくないみたいなの。でももう治療はしたくないって。これは神様からの罰だからって。たったひとりの息子を捨てた……」
桜雪が梓の前でうつむいた。その手を握りしめたまま。
「でもきっと後悔してるんだと思う。霧島くんに会いたいんだと思う」
ぎゅっと握った手に力がこもる。
「霧島くんだって……会いたいでしょう?」
幼い頃、こうやって母親に手を握られた。抱きしめられて、頬にキスをされた。
それがくすぐったくて、恥ずかしくて、でも嬉しくて――大好きだった。
だけど大好きだった母親は自分のことを見ていなかった。母親はいつも自分の姿に父親の姿を重ねていて――。
この町に引っ越してきた頃にはもう、そんなことには気づいていた。
この人は『母親』なんかじゃなくて、弱くて情けない『女』なんだ。だからこの人のそばには、自分がついていてあげなきゃ駄目なんだと。
自転車に乗った顔見知りのおばさんが、橋の上を通りかかった。
桜雪と梓の顔を怪訝そうに眺めてから、そのまま何も言わずに通り過ぎる。
思わず離そうとした梓の手を、桜雪は離してくれなかった。
「……俺といると、何か言われるよ」
「そんなの平気。気にしない」
顔を上げた桜雪がまっすぐ梓のことを見つめた。その真剣な眼差しに、梓も覚悟を決めた。
「ここにいれば会えるのかな」
梓がつぶやく。
「ほんとうに、ここに来るのかな」
「く、来るよ!」
「聞いたの?」
「聞いてないけど……でもきっと来ると思うの!」
必死になっている桜雪を見たら、つい口元がゆるんだ。
「ありがとう。じゃあ俺、迎えに行くよ」
「え」
「総合病院だろ。そこまで行ってみる」
「じゃあ私も行く。行かせて?」
夏の太陽の下で桜雪と視線を合わせた。握り合った手をぎゅっと強く握る。
「うん。行こう」
そう言った時だった。梓から視線をそらした桜雪の手が、すっと離れた。
「おばさん!」
桜雪が橋の向こうへ、駆け出していく。ゆっくりと視線を動かした梓の目に、その姿が映る。
黒い日傘の陰に立ち尽くす、ひとりの女。その人は今日もやっぱり喪服のような黒いワンピースを着ていた。
駆け寄った桜雪が、寄り添うように立つ。ぼんやりと前を見つめているその女の視線は、じっと梓のことを見つめていた。
「……梓?」
乾いた唇がそう呼んだ。自分の母親だったその人は、痩せて顔色も悪く、本当にあの人なのかと疑ってしまう。
「やだなぁ、もう」
そう言って母親のリエが、日傘の下でけらけらと笑い出す。少し元気はなかったが、その笑い方と笑い声は昔と変わらない。
「桜雪ちゃんが話したんでしょう? 今日私が退院するって」
「はい」
「もうしょうがないなぁ、会いたくなかったのに」
笑いながら、リエが言う。
「梓には……会いたくなかったのに」
胸が痛くなった。声を出したくても出せない。そんな梓の前に、リエがゆっくりと歩み寄る。
そしてやせ細った手を伸ばし、梓の頬に触れた。
「すっかりイケメンになっちゃって。ますますあの人に似てきたね」
頬が熱い。熱くて苦しい。数年ぶりに会ったのに、そんな言葉を聞きたかったんじゃない。梓は自分の頬に触れているその手を振り払った。
「言いたいことはそれかよ」
目の前に立つリエの顔が見れない。
「勝手にいなくなって、息子のこと捨てといて。他に言うことないのかよ」
「霧島くん」
駆け寄ってくる桜雪が見えた。だけどもう気持ちがあふれて止まらなかった。
「なんでそうやってすぐ逃げるんだよ。自分が悪いからってそればっかり。もう治療したくないってなんだよ。罰ってなんだよ。またそうやって逃げるつもりなのかよ」
ずっとずっと言いたかった。だけど言ったら壊れてしまいそうで。母の心と、ふたりの脆い絆が。
「もう逃げるのやめろよ。俺も……やめるから」
それだけ言ってうつむいた。目の前にいる自分の母親が、どんな顔をしているのかわからない。
「……梓」
やがて、か細い声が聞こえた。
「梓。顔を上げて。リエさんに顔を見せて」
今さら……今さらそんなことを言うなよ。
「梓の顔をちゃんと見たいの」
ずっと見てくれなかった。自分のことを見てくれなかった。それがずっと寂しくて。心の中にわだかまりを抱えていた。
「梓……」
名前を呼ばれ、ゆっくりと顔を上げる。目の前にやせ細った人の顔が見える。
目と目が合った瞬間、その人が穏やかに梓に微笑んだ。




