表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
傘と嘘と花びらと  作者: 水瀬さら
君に傘を
41/50

21

 翌朝、桜雪は部屋の窓から、父と和臣が出かけて行くのを見送った。

 逃げているつもりはないけれど、今はまだふたりと話したくはない。

 自分の気持ちをわかってもらうために、どうしたらよいのか、桜雪はずっと考えていた。


 静かに階段を降りていくと、祖父が玄関で靴を履いていた。

「おじいちゃん、出かけるの?」

 桜雪が声をかけるのと同時に、部屋の奥から母親がかけよってきた。

「お義父さん! また勝手に。今日は私が病院に連れて行きますから、部屋で待っててくださいって言ったでしょう?」

 母親はキリキリした口調でそう言った。けれど祖父は何も答えずに外へ出て行こうとする。

「お義父さん!」

「散歩に行くだけだよ」

「駄目です! 勝手に出歩いたら、私が怒られるんですから。私の用事が終わるまで待っててください!」

 母の声を聞きながら、桜雪はやりきれなくなった。


「お母さん」

 声をかけた桜雪を見て、母が眉をひそめる。

「おじいちゃん、歩きたいんだよ。散歩ぐらいいいでしょう? 私が付き合うから。そのまま病院へも連れて行く」

「桜雪、何を言っているの?」

「大丈夫だよ。ね? おじいちゃん。たまにはいいよね?」

 桜雪の言葉がわかっているのか、いないのか、祖父はただ桜雪を見て、にこにこと微笑んでいる。

 母は大きくため息をつくと、診察券や保険証などを用意して桜雪に渡した。

「駅前の総合病院よ。用事が済んだら車で迎えに行くから、病院で待ってて」

「うん」

「くれぐれも変な行動しないように気をつけてね。人様にご迷惑をかけたら、お父さんの選挙にも響くから」

 結局はそこなのだ。父も母も、祖父の気持ちなど、何も考えていない。考えているのは自分のことと、この家のこと。


 桜雪は急いで支度をし、祖父の手を取った。

 久しぶりに握ったその手はかさかさと乾いていて、幼い頃より、ずいぶん小さく思えた。

「おじいちゃん……」

 なんだか涙が出そうになって、慌てて平然を装う。

「私と一緒にお散歩に行こう」

「ああ、そうだな。天気も良いしな」

 帽子をかぶり、祖父の手をひいて外へ出た。東京より、少し柔らかい朝の日差しが、桜雪たちの上から降ってきた。


 朝顔の咲く庭を抜け、田舎道を祖父と歩く。

 こんなふうにふたりで歩くなんて、何年振りだろう。

 病気を患った祖父のことを、迷惑がっている父と母。けれど桜雪だって人のことは言えないのだ。

 祖父の様子がおかしいことに気づきながらも、高校生の頃の桜雪は、見てみぬふりをして過ごした。

 父とも母とも祖父とも、関わりたくはなかったのだ。

 祖父を邪魔者扱いしている、今の父や母と同じように。


 梓の住んでいた家の前を通った。

 昨日この家にやってきたという梓は、もう隣町に住む祖父母の家に戻ったのだろう。

 家にひと気はなく、誰も手入れをする人のいない庭は、夏の草が高く伸びていた。


「桜雪、どこへ行こうか?」

 隣を歩く祖父が嬉しそうに言った。

「おじいちゃんの行きたい所でいいよ」

「そうだなぁ」

「いつもどこを歩いてるの?」

 祖父が立ち止まる。そこは小さな橋の上だった。祖父の指がすうっと伸び、川に沿って並んでいる桜の木を指した。

「あそこを歩こう」

 駅へ行く道からはそれるけど、桜雪も行ってみたかった。

 淡い色をした桜の花も、すべてを隠してしまう白い雪も、そこにはなかったけれど。


 祖父と並んで、川沿いの道を歩いた。

 ふたりの上から日差しを遮るように、桜の木が緑の葉を茂らせている。

 祖父はなにも言わなかった。だから桜雪もなにも話さなかった。

 しばらく桜の木の下を歩いていると、祖父がふと立ち止まってつぶやいた。

「とても綺麗な雪だった」

「え?」

 祖父は顔を上げ、懐かしそうに目を細めて桜の木を見上げる。

「桜雪の名前を考えていた日。この木の隙間から、美しい雪が降っていた」

 心臓がとくんと鳴った。祖父の口からその話を聞くのは二回目だ。

「それが桜の花びらのように見えて……桜雪という名前をつけたんだよ」

 祖父の細い手が、桜雪の頭を優しくなでた。なぜだか泣きそうになって、桜雪は必死に涙をこらえる。

「ありがとう、おじいちゃん。とってもきれいな名前を私にくれて」

 ずっと思っていた。自分はこの名前にふさわしくないと。

 大人に隠れて和臣とキスをした。そのまま流されるように身体を許した。高校生の頃は、好きでもない男たちと何度も身体を重ねた。そうやって自分で自分を汚し続けた。

 だけどそんなことはもうやめる。

 祖父の贈ってくれた名前にふさわしい自分になって、梓と一緒に、新しい道へ進みたいから。


「おじいちゃん」

 花びらのように舞い落ちる、真っ白な雪を思い浮かべながらつぶやく。

「私ね、好きな人がいるの」

 降り積もる雪は、あたり一面を真っ白に変えてゆく。汚れた街を、汚れた心を隠すように。

「でもそれは和臣くんじゃないの」

 やがて春になり、その雪が溶ける時、汚れた心も洗い流してくれるだろう。

 そしてその上に、柔らかな桜の花びらが、音もなくやさしく舞い落ちる。

「ごめんね……おじいちゃん」

 祖父は黙って桜雪を見ていた。今の祖父に、桜雪の気持ちをどれだけ理解してもらえるかわからない。

 けれど祖父ははっきりと言った。昔の祖父を思い出させるような、威厳のある声で。


「桜雪の、好きなようにしなさい」

 うつむいていた顔をそっと上げる。

「今までのわしは、自分のしたいようにやってきた。それが桜雪や家族のためだと思っていたから。だが最近は……わしも老いぼれたもんだ」

「おじいちゃん……」

「桜雪。笑ってごらん?」

 突然言われて戸惑う。

「最近じいちゃんの前で笑ってくれないだろう? わしはただ、桜雪の笑顔が見たいだけなんだよ」

 そう言えばもうずいぶん、祖父の前で心から笑っていないような気がする。両親の前でも、和臣の前でも、誰の前でも。

 祖父がもう一度手を伸ばし、桜雪の頭をなでる。そして桜雪に笑いかけると、前を向いて川沿いの道を歩き始めた。

「おじいちゃん、待って!」

 そんな祖父のあとを追う。

 隣に並んで思い出した。幼い頃、こうやって桜並木の下を、祖父と並んで歩いたこと。

 いつも忙しくて、早足で歩きまわっていた祖父だけど、桜雪と歩く時だけは、今日みたいにゆっくりゆっくり歩いてくれた。

 歩きながら祖父は、桜雪の生まれた日のことをよく話してくれた。

 そして最後にいつもこう言ったのだ。

「桜雪が生まれて来てくれて、本当によかった」

 ふいに梓の言葉が頭に浮かんだ。

 ――小さい頃からさ、俺、母親に誕生日を祝ってもらったことなくて。

 梓は自分が生まれてこなければよかったと思っているのだ。


 祖父の隣を歩きながら、こらえていた涙がこぼれてしまった。

 泣くつもりなんてなかったのに。祖父に笑顔を見せてあげたかったのに。

 必死に涙を隠そうとしていたら、祖父に手をにぎられた。

 幼い頃に歩いた道を、祖父と手をつないで歩く。

 桜雪の「好きな人」が梓だと知っても、祖父は許してくれるだろうか。

 桜雪の好きなようにしなさいと、言ってくれるだろうか。


 空からはらりと何かが落ちた気がした。

 桜の季節でも、雪の季節でもないのに。

 足を止めずに空を仰いだら、夏の青い空が、ただ広がっているだけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ