21
翌朝、桜雪は部屋の窓から、父と和臣が出かけて行くのを見送った。
逃げているつもりはないけれど、今はまだふたりと話したくはない。
自分の気持ちをわかってもらうために、どうしたらよいのか、桜雪はずっと考えていた。
静かに階段を降りていくと、祖父が玄関で靴を履いていた。
「おじいちゃん、出かけるの?」
桜雪が声をかけるのと同時に、部屋の奥から母親がかけよってきた。
「お義父さん! また勝手に。今日は私が病院に連れて行きますから、部屋で待っててくださいって言ったでしょう?」
母親はキリキリした口調でそう言った。けれど祖父は何も答えずに外へ出て行こうとする。
「お義父さん!」
「散歩に行くだけだよ」
「駄目です! 勝手に出歩いたら、私が怒られるんですから。私の用事が終わるまで待っててください!」
母の声を聞きながら、桜雪はやりきれなくなった。
「お母さん」
声をかけた桜雪を見て、母が眉をひそめる。
「おじいちゃん、歩きたいんだよ。散歩ぐらいいいでしょう? 私が付き合うから。そのまま病院へも連れて行く」
「桜雪、何を言っているの?」
「大丈夫だよ。ね? おじいちゃん。たまにはいいよね?」
桜雪の言葉がわかっているのか、いないのか、祖父はただ桜雪を見て、にこにこと微笑んでいる。
母は大きくため息をつくと、診察券や保険証などを用意して桜雪に渡した。
「駅前の総合病院よ。用事が済んだら車で迎えに行くから、病院で待ってて」
「うん」
「くれぐれも変な行動しないように気をつけてね。人様にご迷惑をかけたら、お父さんの選挙にも響くから」
結局はそこなのだ。父も母も、祖父の気持ちなど、何も考えていない。考えているのは自分のことと、この家のこと。
桜雪は急いで支度をし、祖父の手を取った。
久しぶりに握ったその手はかさかさと乾いていて、幼い頃より、ずいぶん小さく思えた。
「おじいちゃん……」
なんだか涙が出そうになって、慌てて平然を装う。
「私と一緒にお散歩に行こう」
「ああ、そうだな。天気も良いしな」
帽子をかぶり、祖父の手をひいて外へ出た。東京より、少し柔らかい朝の日差しが、桜雪たちの上から降ってきた。
朝顔の咲く庭を抜け、田舎道を祖父と歩く。
こんなふうにふたりで歩くなんて、何年振りだろう。
病気を患った祖父のことを、迷惑がっている父と母。けれど桜雪だって人のことは言えないのだ。
祖父の様子がおかしいことに気づきながらも、高校生の頃の桜雪は、見てみぬふりをして過ごした。
父とも母とも祖父とも、関わりたくはなかったのだ。
祖父を邪魔者扱いしている、今の父や母と同じように。
梓の住んでいた家の前を通った。
昨日この家にやってきたという梓は、もう隣町に住む祖父母の家に戻ったのだろう。
家にひと気はなく、誰も手入れをする人のいない庭は、夏の草が高く伸びていた。
「桜雪、どこへ行こうか?」
隣を歩く祖父が嬉しそうに言った。
「おじいちゃんの行きたい所でいいよ」
「そうだなぁ」
「いつもどこを歩いてるの?」
祖父が立ち止まる。そこは小さな橋の上だった。祖父の指がすうっと伸び、川に沿って並んでいる桜の木を指した。
「あそこを歩こう」
駅へ行く道からはそれるけど、桜雪も行ってみたかった。
淡い色をした桜の花も、すべてを隠してしまう白い雪も、そこにはなかったけれど。
祖父と並んで、川沿いの道を歩いた。
ふたりの上から日差しを遮るように、桜の木が緑の葉を茂らせている。
祖父はなにも言わなかった。だから桜雪もなにも話さなかった。
しばらく桜の木の下を歩いていると、祖父がふと立ち止まってつぶやいた。
「とても綺麗な雪だった」
「え?」
祖父は顔を上げ、懐かしそうに目を細めて桜の木を見上げる。
「桜雪の名前を考えていた日。この木の隙間から、美しい雪が降っていた」
心臓がとくんと鳴った。祖父の口からその話を聞くのは二回目だ。
「それが桜の花びらのように見えて……桜雪という名前をつけたんだよ」
祖父の細い手が、桜雪の頭を優しくなでた。なぜだか泣きそうになって、桜雪は必死に涙をこらえる。
「ありがとう、おじいちゃん。とってもきれいな名前を私にくれて」
ずっと思っていた。自分はこの名前にふさわしくないと。
大人に隠れて和臣とキスをした。そのまま流されるように身体を許した。高校生の頃は、好きでもない男たちと何度も身体を重ねた。そうやって自分で自分を汚し続けた。
だけどそんなことはもうやめる。
祖父の贈ってくれた名前にふさわしい自分になって、梓と一緒に、新しい道へ進みたいから。
「おじいちゃん」
花びらのように舞い落ちる、真っ白な雪を思い浮かべながらつぶやく。
「私ね、好きな人がいるの」
降り積もる雪は、あたり一面を真っ白に変えてゆく。汚れた街を、汚れた心を隠すように。
「でもそれは和臣くんじゃないの」
やがて春になり、その雪が溶ける時、汚れた心も洗い流してくれるだろう。
そしてその上に、柔らかな桜の花びらが、音もなくやさしく舞い落ちる。
「ごめんね……おじいちゃん」
祖父は黙って桜雪を見ていた。今の祖父に、桜雪の気持ちをどれだけ理解してもらえるかわからない。
けれど祖父ははっきりと言った。昔の祖父を思い出させるような、威厳のある声で。
「桜雪の、好きなようにしなさい」
うつむいていた顔をそっと上げる。
「今までのわしは、自分のしたいようにやってきた。それが桜雪や家族のためだと思っていたから。だが最近は……わしも老いぼれたもんだ」
「おじいちゃん……」
「桜雪。笑ってごらん?」
突然言われて戸惑う。
「最近じいちゃんの前で笑ってくれないだろう? わしはただ、桜雪の笑顔が見たいだけなんだよ」
そう言えばもうずいぶん、祖父の前で心から笑っていないような気がする。両親の前でも、和臣の前でも、誰の前でも。
祖父がもう一度手を伸ばし、桜雪の頭をなでる。そして桜雪に笑いかけると、前を向いて川沿いの道を歩き始めた。
「おじいちゃん、待って!」
そんな祖父のあとを追う。
隣に並んで思い出した。幼い頃、こうやって桜並木の下を、祖父と並んで歩いたこと。
いつも忙しくて、早足で歩きまわっていた祖父だけど、桜雪と歩く時だけは、今日みたいにゆっくりゆっくり歩いてくれた。
歩きながら祖父は、桜雪の生まれた日のことをよく話してくれた。
そして最後にいつもこう言ったのだ。
「桜雪が生まれて来てくれて、本当によかった」
ふいに梓の言葉が頭に浮かんだ。
――小さい頃からさ、俺、母親に誕生日を祝ってもらったことなくて。
梓は自分が生まれてこなければよかったと思っているのだ。
祖父の隣を歩きながら、こらえていた涙がこぼれてしまった。
泣くつもりなんてなかったのに。祖父に笑顔を見せてあげたかったのに。
必死に涙を隠そうとしていたら、祖父に手をにぎられた。
幼い頃に歩いた道を、祖父と手をつないで歩く。
桜雪の「好きな人」が梓だと知っても、祖父は許してくれるだろうか。
桜雪の好きなようにしなさいと、言ってくれるだろうか。
空からはらりと何かが落ちた気がした。
桜の季節でも、雪の季節でもないのに。
足を止めずに空を仰いだら、夏の青い空が、ただ広がっているだけだった。




