20
しばらく仰向けになったまま、呆然と天井を見つめていた。
――僕が好きなのは、やっぱり桜雪だけだ。
和臣の声を思い出しながら、指先で唇をなぞる。その指先が震えていることに、今さら気づく。
――うちの親父の大事な取引相手だったから、お前みたいなガキと結婚してやるって言ったんだ。
どの言葉が本当で、どの言葉が嘘なのか。和臣の本心がわからない。
小さく息を吐き目を閉じる。耳を澄ますと、かすかに自転車のブレーキ音がした。
「……霧島くん?」
ハッと目を開けベッドから飛び降りる。窓を全開にして顔を出す。夜風が部屋に吹き込み、カーテンがふわりと頬をなでた。
真っ暗な広い敷地。門の前に止められた見覚えのある自転車。二階の窓を見上げているその姿に、小学生の頃を思い出す。
「霧島くん」
梓が桜雪に気づいた。ふたりの視線が一瞬重なる。
「待ってて」
小さな声でつぶやくと、桜雪は部屋を出て、音を立てずに階段を駆け下りた。
「綾瀬!」
玄関から外へ飛び出すと、梓が駆け寄ってきた。
「霧島くん……」
「さっきの電話……おかしかったから、気になって」
「ごめんなさい。あの人が変なこと言って。でももう大丈夫なの」
梓が桜雪の顔をじっと見ている。桜雪はすっと目をそらす。そんな桜雪の手に梓が何かをのせた。
「そこに落ちてた」
手のひらにのせられたのは、さっき和臣に投げ捨てられたスマートフォン。
「どうして電話が落ちてるんだよ」
「それは……」
「大丈夫なんかじゃないだろ?」
桜雪は両手でスマホを握りしめ、黙り込む。
「……あいつ、いるの?」
梓の視線が、うっすらと灯りの灯った桜雪の家に移る。
「話したの? 家族に。電車で言ってたこと」
黙ったままうなずいて、桜雪はゆっくりと顔を上げる。
「でもお父さんとお母さんに怒られちゃった。出て行けって。和臣さんにも……」
そう言って、ぎこちない笑顔を作る。
「だけど仕方ない。納得してもらえないだろうなとは思ってたから。でも逃げないで、納得してもらうまでちゃんと話す」
「綾瀬」
「ごめんね。霧島くんには迷惑かけないつもりだったのに……またかけちゃったね」
梓が桜雪の顔を黙って見ている。蒸し暑い風が、ふたりの間に流れる。
「俺……今、あの家にいたんだ」
しばらく黙り込んでいた梓が、桜雪の前でつぶやいた。
「あの家?」
「俺が中学まで住んでた家。もしかしたら、あの人がいるんじゃないかって思って……」
ほんの少し笑って、梓は目の前に立つ桜雪に言う。
「母さんに会おうと思ったんだ。このままじゃ何も変わらないから。俺は結局、あの母親から逃げてるだけだったんだ」
「霧島くん」
「でもあそこには誰もいなくて。誰もいない家にひとりでいたら……綾瀬のこと思い出した」
桜雪の頭の中にも、次々とあの家の思い出がよみがえってくる。
はじめて会った日、家の前で別れたこと。ひとりで帰る桜雪を、梓が追いかけてきたこと。ふたりだけの部屋で、手をつないだ雨の日のこと。
「そしたら綾瀬に会いたくなって。気づいたら電話してた」
桜雪は手の中のスマホをぎゅっと握りしめる。そんな桜雪の手に、梓の手が重なる。
「ほんとはこのまま連れて行きたい」
梓の少し掠れる声が、耳に届く。
「このままこの手を引いて、綾瀬のこと、ずっと遠くまで連れて行きたい」
桜雪の震える手を、梓の手が包み込む。
「だけどそんなことをしても、今の俺は綾瀬を幸せになんかできないから」
うつむいたまま、小さく息を吐く。そしていつだったか、リエから聞いた話を思い出す。
――一緒にここから逃げよう。俺がこの町から連れ出してあげるって、私の前に手を差し伸べてくれて。
手を取り合ってここから逃げ出したふたり。だけどふたりは幸せにはなれなかった。
なぜだか涙がこぼれた。桜雪の手を握る梓の手に、涙が一粒落ちる。そんな桜雪の耳に、梓の声が聞こえた。
「……待ってて、欲しい」
泣きながら、ゆっくりと顔を上げる。目の前に、真っ直ぐ桜雪のことを見つめている梓の顔が見える。
「俺、もっともっと勉強するから。いまできることをちゃんとやって、卒業して就職して、誰にも文句言われない人間になって、自分の力で生きられるようになったら……絶対、綾瀬のことを迎えに行く」
深く息を吐いて、梓が言う。
「だから待ってて欲しいんだ。俺のことを」
どこか懐かしい風が吹き、桜雪の髪が揺れた。聞こえてくるのは虫の声と、お互いの吐息だけ。
「……うん」
小さく答えてうなずいた。
「待つよ、私、霧島くんのこと」
目の前に立つ梓の顔が、涙でかすんで見えない。
「その時には私も……ちゃんと自分の力で生きられるようになるから。だからその時は私を……」
この狭い世界から連れ出して――。
声にならなかった言葉をのみこんだ。
そんな桜雪の手を梓が強く握る。桜雪もその手を握り返す。
頭に浮かぶのは、幼い頃の遠い約束。
――春になったら……一緒に行く?
――うん。連れてって。
桜雪は祈るように目を閉じる。
今度こそ、今度こそふたりの約束が、叶いますように、と。




