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傘と嘘と花びらと  作者: 水瀬さら
君に傘を
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 しばらく仰向けになったまま、呆然と天井を見つめていた。

 ――僕が好きなのは、やっぱり桜雪だけだ。

 和臣の声を思い出しながら、指先で唇をなぞる。その指先が震えていることに、今さら気づく。

 ――うちの親父の大事な取引相手だったから、お前みたいなガキと結婚してやるって言ったんだ。

 どの言葉が本当で、どの言葉が嘘なのか。和臣の本心がわからない。

 小さく息を吐き目を閉じる。耳を澄ますと、かすかに自転車のブレーキ音がした。

「……霧島くん?」

 ハッと目を開けベッドから飛び降りる。窓を全開にして顔を出す。夜風が部屋に吹き込み、カーテンがふわりと頬をなでた。


 真っ暗な広い敷地。門の前に止められた見覚えのある自転車。二階の窓を見上げているその姿に、小学生の頃を思い出す。

「霧島くん」

 梓が桜雪に気づいた。ふたりの視線が一瞬重なる。

「待ってて」

 小さな声でつぶやくと、桜雪は部屋を出て、音を立てずに階段を駆け下りた。


「綾瀬!」

 玄関から外へ飛び出すと、梓が駆け寄ってきた。

「霧島くん……」

「さっきの電話……おかしかったから、気になって」

「ごめんなさい。あの人が変なこと言って。でももう大丈夫なの」

 梓が桜雪の顔をじっと見ている。桜雪はすっと目をそらす。そんな桜雪の手に梓が何かをのせた。

「そこに落ちてた」

 手のひらにのせられたのは、さっき和臣に投げ捨てられたスマートフォン。

「どうして電話が落ちてるんだよ」

「それは……」

「大丈夫なんかじゃないだろ?」

 桜雪は両手でスマホを握りしめ、黙り込む。

「……あいつ、いるの?」

 梓の視線が、うっすらと灯りの灯った桜雪の家に移る。

「話したの? 家族に。電車で言ってたこと」

 黙ったままうなずいて、桜雪はゆっくりと顔を上げる。

「でもお父さんとお母さんに怒られちゃった。出て行けって。和臣さんにも……」

 そう言って、ぎこちない笑顔を作る。

「だけど仕方ない。納得してもらえないだろうなとは思ってたから。でも逃げないで、納得してもらうまでちゃんと話す」

「綾瀬」

「ごめんね。霧島くんには迷惑かけないつもりだったのに……またかけちゃったね」

 梓が桜雪の顔を黙って見ている。蒸し暑い風が、ふたりの間に流れる。


「俺……今、あの家にいたんだ」

 しばらく黙り込んでいた梓が、桜雪の前でつぶやいた。

「あの家?」

「俺が中学まで住んでた家。もしかしたら、あの人がいるんじゃないかって思って……」

 ほんの少し笑って、梓は目の前に立つ桜雪に言う。

「母さんに会おうと思ったんだ。このままじゃ何も変わらないから。俺は結局、あの母親から逃げてるだけだったんだ」

「霧島くん」

「でもあそこには誰もいなくて。誰もいない家にひとりでいたら……綾瀬のこと思い出した」

 桜雪の頭の中にも、次々とあの家の思い出がよみがえってくる。

 はじめて会った日、家の前で別れたこと。ひとりで帰る桜雪を、梓が追いかけてきたこと。ふたりだけの部屋で、手をつないだ雨の日のこと。

「そしたら綾瀬に会いたくなって。気づいたら電話してた」

 桜雪は手の中のスマホをぎゅっと握りしめる。そんな桜雪の手に、梓の手が重なる。


「ほんとはこのまま連れて行きたい」

 梓の少し掠れる声が、耳に届く。

「このままこの手を引いて、綾瀬のこと、ずっと遠くまで連れて行きたい」

 桜雪の震える手を、梓の手が包み込む。

「だけどそんなことをしても、今の俺は綾瀬を幸せになんかできないから」

 うつむいたまま、小さく息を吐く。そしていつだったか、リエから聞いた話を思い出す。

 ――一緒にここから逃げよう。俺がこの町から連れ出してあげるって、私の前に手を差し伸べてくれて。

 手を取り合ってここから逃げ出したふたり。だけどふたりは幸せにはなれなかった。

 なぜだか涙がこぼれた。桜雪の手を握る梓の手に、涙が一粒落ちる。そんな桜雪の耳に、梓の声が聞こえた。


「……待ってて、欲しい」

 泣きながら、ゆっくりと顔を上げる。目の前に、真っ直ぐ桜雪のことを見つめている梓の顔が見える。

「俺、もっともっと勉強するから。いまできることをちゃんとやって、卒業して就職して、誰にも文句言われない人間になって、自分の力で生きられるようになったら……絶対、綾瀬のことを迎えに行く」

 深く息を吐いて、梓が言う。

「だから待ってて欲しいんだ。俺のことを」

 どこか懐かしい風が吹き、桜雪の髪が揺れた。聞こえてくるのは虫の声と、お互いの吐息だけ。

「……うん」

 小さく答えてうなずいた。

「待つよ、私、霧島くんのこと」

 目の前に立つ梓の顔が、涙でかすんで見えない。

「その時には私も……ちゃんと自分の力で生きられるようになるから。だからその時は私を……」

 この狭い世界から連れ出して――。


 声にならなかった言葉をのみこんだ。

 そんな桜雪の手を梓が強く握る。桜雪もその手を握り返す。

 頭に浮かぶのは、幼い頃の遠い約束。

 ――春になったら……一緒に行く?

 ――うん。連れてって。

 桜雪は祈るように目を閉じる。

 今度こそ、今度こそふたりの約束が、叶いますように、と。

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