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風邪は思ったよりも長引いて、結局学校を三日も休んでしまった。
けれど三日目にはすっかり気分も良くなって、桜雪は自分の部屋で勉強をしたり、本を読んだりして過ごしていた。
父のいる居間に行く勇気はなかった。あの言葉を思い出すたび怖くなって、足が遠ざかる。
雪はあの日から、降ったりやんだりを繰り返していた。積もった雪はしばらくとけそうにない。
部屋の窓からぼんやり外の景色を眺めていたら、誰かが家の敷地に入ってきたのが見えた。
「え……」
桜雪はあわてて立ち上がり、窓を開く。
冷たい風が部屋の中へ吹き込み、ぼうっとしていた頭が急に冴える。
「霧島くん?」
桜雪の気配に気づいたのか、雪の中に立ち止まった梓が、顔を上げて小さく笑った。
「元気になった?」
部屋着の上にコートをはおり、家の人に気づかれないよう外へ出た。
梓がそんな桜雪に向かって言う。
「外、すごい雪。綾瀬が言った通りになった」
「……うん」
「それにこの家なんだよ。門から玄関まで遠すぎだし、庭に家三軒も建ってるし」
「そっちは親戚の家なの。私の家はこっち」
そう言って指を指しながら、桜雪は落ち着かなかった。金色の髪をした男の子といるところを、家の人に見られたら、何を言われるかわからない。
戸惑う桜雪の気持ちに気づいたのか、梓はリュックの中から素早くプリントを取り出し、桜雪の前に差し出した。
「これ、学校のプリント。頼まれたから」
「あ、ありがと」
「それとこれも」
梓はプリントを渡した後、カップに入ったプリンを取り出した。
「給食のデザート。綾瀬の分残ってたから、勝手に取ってきた」
「そんなことしちゃいけないのに……」
「いらなかった?」
そう言って、梓が手を引っ込めようとする。
桜雪はあわてて首を横に振ると、梓の前に手を伸ばした。
「それ……好きなの」
桜雪の前で梓が笑う。
「欲しい?」
「うん」
「じゃあ、あげる」
梓の手から、給食のプリンを受け取った。一瞬触れた指先は、ものすごく冷たかった。
そう言えばこの前の帰りも、梓は手袋をしていなかったことを思い出す。
「私の家、よくわかったね?」
「一香が教えてくれたんだ」
梓が「一香」と名前で呼んだ。一香はクラスのみんなからそう呼ばれているから、それは別に不思議なことではないけれど。
学校を休んでいた三日間で、何かが変わってしまった気がして、ちょっと寂しかった。
「桜雪」
そんな桜雪の後ろから母の声がかかる。桜雪は体を固くして振り返る。
「そこは寒いから、上がってもらったら? まだ病み上がりなんだし」
母はそう言ったけれど、顔が笑っていなかった。その言葉は本心じゃない。梓に早く帰ってもらえと言っているのだ。
「あ、俺もう帰るし」
梓がリュックを背負って背中を向けた。
「ちょっと待って……」
庭から出て行こうとする梓を呼び止める。
「あ、明日は学校行くから!」
雪景色の中、梓が振り向き笑って言った。
「学校で、待ってる」
古い門が音を立てて閉じられた。桜雪はもらったプリントとプリンを大事に胸に抱え込む。
なんだか心があたたかかった。嬉しい気持ちを抱えて振り返ると、母が渋い顔つきで桜雪に言った。
「あの子と付き合ったら駄目よ」
「学校のプリント届けてくれたんだよ? 私のために雪の中わざわざ」
「お父さんに言われたでしょう? ちゃんと言うことをききなさい」
桜雪は唇を噛みしめ、それから静かに口を開く。
「どうして? 霧島くんは何にも悪いことしてないよ?」
母は表情をゆがませ、少し強い口調で言った。
「とにかく付き合ったらいけません。お母さんは桜雪のことを心配しているの。あなたまで近所の人から、変な目で見られたら嫌でしょう?」
それだけ言うと、母は家へ入ってしまった。
桜雪は立ち尽くしたまま考える。
変な目ってなに? 何にも悪いことしてないのに、どうしてみんなそんなふうに思うのだろう。
だけど桜雪も最初は思った。見た目が自分とは違う梓のことを、受け入れないようにと思ってしまった。
梓は悪い子なんかじゃない。たぶん、きっと。
*
翌朝は曇り空だったけど、雪は降っていなかった。
少し早めに家を出た桜雪は、霧島さんの家の前で立ち止まる。
まだ、いるのかな? 誘ってみようか? 急にそんなことをしたら驚くかな? でも昨日は梓のほうが急にうちに来たんだし。
そんなことをあれこれ考えていたら、家の中から人が出てきた。慌てて逃げようとした桜雪に声がかかる。
「あれ、あんた……桜雪ちゃん?」
女の人の声。振り返ると梓の母親のリエが、ゴミ袋をふたつ持って立っていた。今日は金色の髪をアップにし、黒いスウェットの上下を着ている。
桜雪は父の言葉を思い出し、じりりと後ずさりをしてしまった。
そんな桜雪に、リエが笑いかけて言う。
「梓だったら、もう学校行ったよ」
「そ、そうですか。ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げて立ち去ろうとしたら、名前を呼ばれた。
「桜雪ちゃん」
立ち止まり、もう一度振り返る。リエは少しの間じっと桜雪のことを見ていたが、すぐににっこりと笑いかけた。
「ごめん。何でもないよ。いってらっしゃい」
小さくうなずき、桜雪は逃げるようにその場を立ち去った。
「桜雪ー! 会いたかったよー!」
教室へ入ると、一香が大げさに抱きついてきた。桜雪は苦笑いしながら、一香の背中をぽんぽんと叩く。
「もう風邪治ったの?」
「うん。大丈夫」
「あ、昨日、梓が桜雪んちに行ったでしょ?」
一香の声に胸の奥が音を立てる。
霧島くんのこと、「梓」って呼ぶようになったんだ。
「うん。プリント持って来てくれた」
「私が頼んだの。桜雪んちに持っていってあげなよって」
「……そうなんだ」
一香に頼まれて来たのか。
ランドセルを机に置き、隣の席をちらりと見る。
見覚えのあるリュックが置いてあるだけで、そこに梓の姿はなかった。
「霧島くん……は?」
「あそこ。男子と雪合戦してる」
一香の指の先を見る。二階の窓から雪の積もった校庭が見えて、そこで男子が遊んでいる。そしてその中に、あの目立つ髪の色を見つけた。
「あいつ、おとなしかったのは初日だけだよ。次の日からはすぐに男子と仲良くなっちゃってさ。今ではもう、すっかりこのクラスに馴染んでる感じ」
「ふうん……」
つぶやいて、どうしてだかまた寂しくなった。
クラスに馴染んで、みんなと仲良くなって、そんな彼のことを喜んであげなきゃいけないのに。
だけど桜雪は思っていたのだ。
初めて出会った雪の朝。隣にくっつけた机と一緒に見た教科書。橋の上でした約束。給食のプリンを届けてくれた冷たい指先。「仲良くしてやってね」梓の母から聞いた言葉。
全部特別なのだと思っていた。桜雪だけが特別なのだと。
「そうじゃなかったんだ……」
「え? なに?」
一香が桜雪の顔をのぞきこむ。桜雪は笑って一香に答える。
「なんでもない」
馬鹿みたいだ。
育ってきた環境も性格も、桜雪とは全く違うのに。そんな彼の特別に、桜雪がなれるわけなんてないのに。
――学校で、待ってる。
昨日言われた言葉を思い出しながら、もう一度窓の外を見る。
梓の投げた雪の玉が、空へ向かって高く高く飛んでいった。